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2009年05月01日

FAB4-041:SLOW DOWN

At His Finest: The Specialty Rock 'N' Roll Years ロックン・ロール


 w & m:LARRY WILLIAMS

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ケン・スコット(6/1)、リチャード・ランガム(6/4)、ジェフ・エマリック(6/22)
 録音:1964年6月1日、4日
 MONO MIX:1964年6月4日
 STEREO MIX:1964年6月22日

 1964年6月19日 EP発売(「LONG TALL SALLY」B-1)、パーロフォン GEP 8913(モノ)


EPのタイトル曲はポールに譲ったものの、主役は矢張りジョンでした。残りの三曲は、ジョンのオリジナルと此の最高にカッコいいカヴァー、そしてもう壱曲の「MATCHBOX」もリンゴが歌っているけれど元々はジョンが歌っていたナムバーです。何度も繰り返し云いますが、もう此の頃のジョン・レノンには手がつけられません。「兎に角、凄過ぎるのですっ!」

オリジナルは、ラリー・ウイリアムスの1958年の作品です。ジョンは、ラリーが相当にお気に入りだった様で、ビートルズ時代の公式カヴァーだけでも此の「SLOW DOWN」を始め「BAD BOY」「DIZZY MISS LIZZY」と三曲も録音しています。彼らの公式カヴァーは24曲ですから、其の頻度はかなり高く、すべてジョンが絶叫しております。更には、ソロ時代の名作カヴァー集「ROCK'N'ROLL(1975)」でも「BONY MARONIE」を取り上げていますし、感動的な「JUST BECAUSE」もオリジナルのロイド・プライス盤ではなくラリーのヴァージョンを参考にしたと思われます。

ジョンのダブルトラックによる歌が、素晴らし過ぎます。特にブレイクの時に「ぎゃーっ!」とか「ぶるるるるっ!」とか毎回変えて叫ぶところに「天才歌手:ジョン・レノン」此処にありっ!を感じさせます。本来なら、EPのタイトル曲はこっちでも好かったでしょう。しかし、レノンは我を捨て、ポールの熱唱「LONG TALL SALLY(のっぽのサリー)」を推したのでした。ちなみに元「ザ・タイガース」のリーダーで「PYG」や「井上堯之バンド」の名ベーシスト:岸部おさみサン(現、名優「岸部一徳」サン)のニックネームは「サリー」ですが、背が高いから(「のっぽのサリー」だから)そう呼ばれた様です。

何度でも繰り返すけど、ジョンにはリーダーの資質が在りました。だからこそ、ビートルズは、下積み時代を加えて「15年近く(1957年〜1970年)」も保ったのです。確かに、一般人をも巻き込む「音楽的才能」なら、ポールの方に分が在ったでしょう。されど、ポールは「WINGS」で「THE BEATLES」とおんなじ夢を見ようとしたけれど、果たせませんでした。彼は、同一メムバアで壱枚しかアルバムを遺せなかったっ!ジョンもジョージも、ビートルズ以後に、如何なるバンドも結成しませんでした。ジョンの「プラスティック・オノ・バンド」は、バンドではなくユニットですし、ビートルズ在籍中から名乗っていた「変名」にすぎません。亡くなるまで「元・ビートルズ」の重責を背負い続けたんです。いや、あたくしは、現在「ひとりぽっち」で(だから、リンゴの立場は、、、)「THE BEATLES」の看板を守り続けて居るポールこそが偉大だと思っていますよ。でもね、ポールは自分勝手だ。何でも出来ちゃうから、組織の長にはなれません。「ワンマン社長」なんですよ。

さて、此処で「ビートルズ物語」に新たな重要人物が加わります。其の名は「ケン・スコット」当時若干17才です。ジョージ・マーティンとビートルズの元でエンジニアを経験した方々は、ノーマン・スミス、ジェフ・エマリック、クリス・トーマス、グリン・ジョンズ、などなど、すべて後に有名プロデューサーに成長しロック史に残る名盤を残して行く事になります。ケン・スコットも、其の中のひとりです。「すべては、ザ・ビートルズから始まった」と云われるのは、そうした周辺の人々の成長物語をも含めての事なのです。確かに、其処にビートルズがいなかったなら、「ロック史」は大きく変わったでしょう。いや、「ロケンロール」は「ロック」にはならなかったかもしれません。


(小島藺子)


初出:「COPY CONTROL AGAIN」2008-7-9
REMIX-1:「COPY CONTROL」2008-10-9

(and this is REMIX-2 by 小島藺子)



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2009年05月02日

FAB4-042:MATCHBOX

スーパースター・ロカビリー・セッション [DVD] ザ・ビートルズ・ライヴ!! アット・ザ・BBC(期間限定)


 w & m:CARL PERKINS

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ケン・スコット(6/1)、リチャード・ランガム(6/4)、ジェフ・エマリック(6/22)
 録音:1964年6月1日
 MONO MIX:1964年6月4日
 STEREO MIX:1964年6月22日

 1964年6月19日 EP発売(「LONG TALL SALLY」B-2)、パーロフォン GEP 8913(モノ)


カール・パーキンスのカヴァー曲で、当時英国ツアー中だったカール本人がレコーディングを見学しています。残念ながら、其の時には共演していませんが、後に(ジョンの他界後)ポール:「GET IT(1982、アルバム「TUG OF WAR」収録)」、ジョージとリンゴ:「BLUE SUEDE SHOES / ROCKABILLY SESSION WITH CARL PERKINS AND FRIENDS(1996)」の三人は尊敬する偉大なロケンローラーとの共演を果たす事となります。

ビートルズは、此の曲を正式録音した後も「HONEY DON'T」「EVERYBODY TRYING TO BE MY BABY(みんないい子)」とカヴァーし、「BBC LIVE」や「アンソロジー」などで聴ける様に「BLUE SUEDE SHOES」「LEND ME YOUR COMB」「SURE TO FALL(IN LOVE WITH YOU)」「TENNESSEE」「GONE GONE GONE」「YOUR TRUE LOVE」などなど多くの曲を取り上げました。

メムバー四人全員がリード・ヴォーカルを担当したカヴァー曲のオリジナル・アーティストは、おそらくカール・パーキンスだけだと思います。彼の楽曲を好んで演奏していたのは未だ無名だったハンブルグ時代からの事で、メジャー・デビュー直後にカールの英国公演で知り合い親交を深めた「自分の弟子」で在るビートルズをカールも可愛がっていたのでしょう。其れが、此の曲の録音を「わざわざ見学する」と云う行動に出た理由だと思われます。ビートルズは、どんなに有名になり売れても「先達を尊敬する気持ち」を忘れませんでした。

元々は後の「HONEY DON'T」同様に、ジョン・レノンが得意とし歌っていた曲です。リーダー:ジョンは、自分の十八番をリンゴに譲ったのです。やっぱ、偉いよナァ。だってさ、そんな事をしたのは、ジョンだけなのよさ。ポールは自分の十八番を「ビートルズ現役時代」には、ジョージやリンゴには歌わせなかった。ジョンは「眞のビートルズのリード・シンガー」だったので、レパートリーが豊富でした。だから「此れなら、リンゴでも歌えるナ」って思った楽曲を譲ったのです。

「偉いぞっ!ジョン・レノン」

アルバム「A HARD DAY'S NIGHT」には、リンゴが歌う曲が収録されていません。此れは「リンゴにも壱曲は歌わせる」と云う暗黙の掟に反する事で、結果的には「A HARD DAY'S NIGHT」を初期の最高傑作にした要因にもなりました。(おいおい、リッチーの立場って、一体、、、)でも、ちゃんと壱曲は歌わせていたわけです。「A HARD DAY'S NIGHT」はオリジナルだけで勝負する事に決めたので、リンゴの歌はEP盤に回されただけです。アルバム「A HARD DAY'S NIGHT」とEP盤「LONG TALL SALLY」は同時進行だったので、合計17曲で「A HARD DAY'S NIGHT」セッションと考えるのが妥当だと思います。(まあ、「CAN'T BUY ME LOVE」と同日録音の「ドイツ語接待版二曲」も入るのかもしれませんが。)

此の楽曲は、先に述べた通り元々はジョンが歌い、レコードでリンゴが歌いました。更には1989年からの世界ツアーでポールも歌いました。全てCDで容易に聴けますので、ジョン、ポール、そしてリンゴによる歌を聴き比べられる絶好の楽曲です。そんな珍しい曲は、他にはないと思います。おそらく、ジョージの歌唱も在るでしょう。だって、全員がカールを敬愛しているのだもの。結論から云えば「ジョン・レノンの圧勝」ですが、是非、皆さんも聴き比べてみて下さい。「百聞は一見に如かず」です。何故、あたくしが「ジョンは天才歌手」と断言するかが、はっきりと分るでしょう。


(小島藺子)


初出:「COPY CONTROL AGAIN」2008-7-10
REMIX-1:「COPY CONTROL」2008-10-10

(and this is REMIX-2 by 小島藺子)



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2009年05月03日

FAB4-043:A HARD DAY'S NIGHT
(ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!)

A Hard Day's Night − ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ! ハード・デイズ・ナイト [DVD] エキゾチック・ビートルズ 其の弐


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ジェフ・エマリック(4/16、6/22)、A.B.リンカーン(4/20)、
   デヴィッド・ロイド(4/23)、ケン・スコット(6/9)
 録音:1964年4月16日
 MONO MIX:1964年4月20日、23日、6月9日
 STEREO MIX:1964年6月22日

 1964年7月10日 シングル発売(最高位英米1位)
 パーロフォン R 5160(モノ)

 1964年7月10日 アルバム発売(「A HARD DAY'S NIGHT」 A-1)
 パーロフォン PMC 1230(モノ)、PCS 3058(ステレオ)


ビートルズのオリジナル・アルバムはすべて大好きです。でも其の中でも此のシングル曲で始まる「A HARD DAY'S NIGHT」は、格別に好きなんです。此の連載を始めて、駆け足で此処まで来て、いよいよ「A HARD DAY'S NIGHT」に関して書く事になり、絶句してしまいました。余りにも好き過ぎて、何を書けばいいのか分らなくなってしまった。英国盤のモノとステレオ、米国盤のサントラ、そして「SOMETHING NEW」などの関連アルバムを繰り返して聴き、映画を観ていたら「もう言葉なんかいらない」と思いました。そう、アルバムを聴いて、映画を観てもらえば好いだけなんです。アルバムの英国オリジナル盤には、A面が映画に使われた曲で、B面は他の新曲が入っています。両面通して聴いても30分一寸で終わってしまうので、何度も繰り返して聴くのです。45年近く前の音楽だけど、全然飽きない。

最初に其のアルバムを聴いたのは中学時代で、女友達からレコード(確か、日本盤のジョージが真ん中に映っているジャケのモノでした。女子はみんな「ジョージが好き」だったからネ)を借りてテープにダビングして、あんまりにも好きなのでいつも持ち歩いていました。当時(1970年代前半)の中学生は全作品なんかとても個人じゃ買えないから、全校でも数少ない「ビートルズ仲間の同級生や先輩、後輩(各クラスに一人位しか居なかった)」を探して、お互いにトレードしてダビングするのが普通でした。レンタル店なんてなかったんですよ。在る日、確か「マリリン・モンローの三本立て映画」を市民会館で上映するので、部活帰りにうっかり学生カバンを自転車のカゴに入れたまんまで観て戻ったら、置き引きされていました。カバンはゴミ箱に捨てられていたのですぐに帰って来たけど、此のアルバムのテープとかギターのストラップなどは盗まれていました。其れで、悔しくってお金を貯めてレコードを買ったのです。アノ時のテープは、一体どんな運命を辿ったのでしょう?もしも盗んだ人が聴いて気に入ってビートルズのファンになっていたりしたなら、其れは其れで、「素敵な話じゃないか」(セックル王子声で)

ジョン・レノンが爆発しています。

英国公式アルバムに於いて、全曲レノン・マッカートニーによる新作書き下ろし13曲中、ジョンは9曲で歌い、10曲を単独で書き、1曲はポールとの共作です。ポールの単独作はたったの2曲です。此れは「ジョン・レノンのソロ作品集」と云ってしまって好いでしょう。映画でも、一見リンゴの出番が多いので彼が主役に観えますが、一番輝いているのはジョンです。此の「A HARD DAY'S NIGHT」と云う一連のプロダクションは、正に「才気溢れるジョン・レノン当時若干23才の若者の為に在った」のだ。勿論、なかなか決まらなかった初主演映画のタイトルを発案したのはリンゴです。でも、其の文法を無視したセンスを採用し「先に題名が決まっている曲」を難なく書いて来たのはジョンでした。もしも、リンゴの何気ない言葉に「チーフ・ビートル」であるジョンが飛びつかなければ、初主演映画の題名は「ビートルマニア」になっていたんですねぇ、其れでね、「ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!」ってトンデモ邦題を付けたのは、「故・水野晴郎先生」なんですよ!「ヘルプ!4人はアイドル」も、そうなんですよ!「いやぁ、ビートルズって、本当に好いもんですね!」(山下奉文大将声で)

印象的過ぎるイントロとエンディングでの12弦ギターを弾くのはジョージです。書いたジョンがキーが高くて歌えなかったミドル部分を歌うのはポールです。此のミドル部分が、実はポール作なのでは?との説も在ります。彼らには「書いた奴が歌う」との暗黙の了解が在りましたし、譜面が書けないジョンが「自分が高くて歌えないライン」をどうやって書いたのか?との疑問も在るからでしょう。されど、此れは「200%、ジョンの単独作品」です。何の事は無い、ジョンはミドル部分を「裏声」で歌って書いただけです。其れは、ポールとの二重唱で在る「IF I FELL(恋におちたら)」のデモを聴けば、容易に導き出される結論です。確かに、四人が一丸となって弾けています。でも、其れでも、

此の時代のビートルズはジョンの為に在った!

相方のポールは、敗北感しかなかったでしょう。いや、ジョンに申し訳なくって仕方無かったでしょう。だって、共作とされた13曲の内、自分が書けたのは「たったの2曲」だったのですからね。ポールは3曲でリード・ヴォーカルを担当していますが、其の中で最も素晴らしいのは「AND I LOVE HER」です。アルバムに必ず一曲は在る「ポール節、炸裂!」の名曲です。そして其れは、ジョンとの合作なのだ。「ジョン、正直すまんかった。俺だって、いつかきっと!」ポールはそう誓いました。ジョンよりふたつ下の彼が23才になった時に、出逢った時からジョンも待ち望んでいた「約束の日」はやって来ます。そして、其れはビートルズと云うバンド内の「パワー・バランス」を、根底から覆す程の出来事になるのでした。只、其れは、もう少し後のお話です。

「I WANT TO HOLD YOUR HAND(抱きしめたい)」で始まった「4トラック時代」の最初に作られたのが、アルバム「A HARD DAY'S NIGHT」です。当時の彼らは其れでもステレオよりもモノラルを重視していました。其れはデータを見れば一目瞭然です。厄介な(いや、在る意味、サイコーな)米国キャピトルとユニバーサルでの編集盤やジャケット違いの各国盤も登場し、更には映画版まで在る為、いよいよ「泥沼のミックス違い道」探究者(ま、只のビーヲタなわけだが)にとっては堪らない時代に突入しました。此の曲でも「エンディングの長さが違うぞっ!」なんて些細な事に気付いては「鬼の首でも取ったかの様にはしゃぎまくる莫迦野郎ども」がいるわけですよ。ま、其れはあたくしもおんなじです。だってさ、楽しいんだよ。みんなも、本での知識じゃなくって、実際に聴き比べて発見して下さいね。絶対にハマります。

其れにしてもだ、イントロの印象的過ぎる「ジャーンッ!」って「G7sus4/D」を、12弦で格好良くキメてくれるジョージに憧れたあたくしに、「ウルトラ・レア・トラックス」は残酷でした。現在の若人は「アンソロジー」なんて公式海賊盤で「無様なジョージ」を簡単に聴けちゃうんだもんナァ。最初から何でも在るって、不幸だよ。其れで、オリジナルの英国盤は当然好きだけど、米国盤の赤いジャケットも相当好きです。映画の正真正銘のサントラ盤で、キャピトルではなく映画を製作した「United Artists」から当初は発売されたので日本盤が出ていません。だから幻のレコードのひとつでも在りまして、最初に入手して聴いた時には感動しました。普通は「幻の〜」ってのは、実際に聴いてしまうと「嗚呼、幻は幻の侭で好かったんだ、、、」って事になる場合が多いのですが、アルバム「A HARD DAY'S NIGHT」の米国盤は、数少ない例外でした。キャピトルではなかった為か、ジャケット・デザインも米国盤ではピカイチ!です。


(小島藺子/姫川未亜)


初出:「COPY CONTROL AGAIN」2008-7-13
REMIX-1:「COPY CONTROL」2008-10-11

(and this is REMIX-2 by 小島藺子)



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2009年05月04日

FAB4-044:THINGS WE SAID TODAY(今日の誓い)

The Very Best of Larry Carlton Tripping the Live Fantastic ミーツ・ザ・ビートルズ


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ケン・スコット(6/2、9)ジェフ・エマリック(6/22)
 録音:1964年6月2日
 MONO MIX:1964年6月9日
 STEREO MIX:1964年6月22日

 1964年7月10日 シングル発売
 パーロフォン R 5160(モノ)

 1964年7月10日 アルバム発売(「A HARD DAY'S NIGHT」 B-3)
 パーロフォン PMC 1230(モノ)、PCS 3058(ステレオ)


ポールは「昨日」とか「今日」とか「明日」とかが好きです。此の曲の邦題が「今日の誓い」だったので、約30年後に発表された「HOPES OF DELIVERANCE」(名曲!)の邦題は「明日への誓い」になりました。でも、何だかリンゴの大ヒット曲「明日への願い」(1971、原題:IT DON'T COME EASY)の二番煎じみたいで「トホホ」です。ちなみに「明日への願い」の作者はリンゴって事になっていますが、ジョージのガイド・ヴォーカル入りのデモが存在しますので「間違いなく、ジョージが書いた曲です!」(断言)おっと、いきなり脱線しちゃったナ。ま、あたくし「ジョージ、愛してる」ですので。

さてさて、此の頃からの英国オリジナル・シングル盤は、両面をジョンとポールが競い合い、出来の良い方がA面になります。其れが余りにも拮抗しちゃった時期には「両A面」って事にもなるのです。1964年前半のジョンには、其の点では「余裕」がありました。三枚目で、初めて全曲オリジナル作品で固めるアルバムで圧倒的優位に立ってしまうレノンは、先行シングル(「CAN'T BUY ME LOVE」)ではポール作品にA面を譲り、EP盤(「LONG TALL SALLY」)でも、ポール歌唱のカヴァー曲をタイトルに掲げました。

しかしだ、いよいよ映画と連動した元祖メディア・ミックスな「A HARD DAY'S NIGHT」で、ジョンは牙を剥いたのです。此の当時のポールは、未だ後の多作な彼では在りません。純粋なる新曲は、ほとんど書けてはいなかった。次作で発表する名曲「I'LL FOLLOW THE SUN」が実は随分と昔(なんと16才の頃!)に書かれた曲で在った事は有名ですが、初期のポールは過去の引出しから発表するのが精一杯だったみたいです。いや、「ジョン・レノンの創作意欲が桁違いだった」と云うべきでしょう。

ジョンの曲がA面なので、ポールはB面になりました。アルバム「A HARD DAY'S NIGHT」にポールが単独で書いた2曲は、目出度く両方ともシングルになったわけです。何度も云いますけど、きっとポールは嬉しくも何ともなかったばかりか、屈辱感に苛まれていたと思います。きっと、ジョンは余裕をぶっこいて、こんな風に言い放ったでしょう。「映画の二枚目のシングルも片面はお前の曲だぞ。えっと、ああ、あと1曲しか録音してなかったっけ?じゃあ選ぶ手間が省けて好かったじゃん。ケケケ」しかも、此のポール作品を際立たせているのは、ジョンがイントロから高らかに奏でるアコギなのです。

「1964年のジョン・レノン、おそるべしっ!!」

ところで、此れは「名曲」です。確かにポールは「A HARD DAY'S NIGHT」に合作を含めても、たった三曲しか貢献していません。されど、其の彼が歌った三曲(「CAN'T BUY ME LOVE」、「AND I LOVE HER」そして此の「今日の誓い」)は、すべてスタンダート化した「ビートルズの代表曲」です。此の曲なんかB面なのに、日本のGS「ジャガーズ」の代表曲「マドモアゼル・ブルース」にモロパクされています。作曲は、御存知「筒美京平」大先生!挙句にB面は「哀れなジョン」なのだ。おいおい、、、。ポールには「駄曲」も多いってのは、彼が「書の人」だからです。下書き無しで描いてしまうわけですよ。そんな「やっつけ仕事」で曲を書いてしまうポールの楽曲が、たとえ13曲中で「たったの三曲」だったとしても、全部好いってのは奇跡的な事です。

正直に云いますと、中学生の時に初めてアルバムを聴いた時には「つまんない捨て曲だな」と思っていました。其れが数年後には「素晴らしい楽曲だ!」と評価が一変してしまったのです。此の時、ジョンもポールも、いやさ「レノン・マッカートニー」は「ほろ苦い大人の世界」に足を踏み入れていました。もう、既に「SHE LOVES YOU」でも「I WANT TO HOLD YOUR HAND(抱きしめたい)」でも無くなって、たった数ヶ月前と、明らかに変わっていました。だから、ビートルズは面白いんだよ。おんなじモンなんか作らないんです。二番煎じをやりません。常に、先しか見てなかったんです。美しいよ。芸術だよ。初めて観たポールが此の曲を歌った時には、涙ぐんでしまいました。よくぞ、歌ってくれたと、感謝しました。「CAN'T BUY ME LOVE」も歌ってくれたけど、「今日の誓い」の方に軍配を上げた。此れは、名曲です。「最初はつまんないと思っても、何度も聴くうちに、深みが増して好きになってしまう」、ビートルズの楽曲には、そんな不可思議な魅力があります。


(小島藺子/姫川未亜)


初出:「COPY CONTROL AGAIN」2008-7-16
REMIX-1:「COPY CONTROL」2008-10-12

(and this is REMIX-2 by 小島藺子)



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2009年05月05日

FAB4-045:I SHOULD HAVE KNOWN BETTER
(恋する二人)

Party! (Stereo & Mono) AHardDaysNightUSalbumcover.jpg


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:リチャード・ランガム(2/25、26)、A.B.リンカーン(3/3)、ジェフ・エマリック(6/22)
 録音:1964年2月25日、26日
 MONO MIX:1964年3月3日
 STEREO MIX:1964年6月22日

 1964年7月10日 アルバム発売(「A HARD DAY'S NIGHT」 A-2)
 パーロフォン PMC 1230(モノ)、PCS 3058(ステレオ)


大昔に、NHK-FM で「山下達郎のサウンド・ストリート」と云う番組が在りました。彼だけではなく、月曜日から金曜日まで其のプログラムは放送されていて、あたくしにとって「音楽の先生」と云える存在でした。何せ、1980年代前半には、あれほどに多様な音楽を聴かせてくれる番組はなかったのです。未だ「タワーレコード」も「HMV」も無かったのです。レコードは高価で、レンタル店も未だ存在していなかった1970年代から1980年代前半に、頼れるのは「ラジオ」だけでした。其のラジオ番組でも、AMやFMで洋楽を流してくれるのは稀有な存在でした。だから中学生時代から「FEN」ばっか聴いていました。洋楽を聴いている友人とも話が合わなくなって行きました。現在とは違い、当時の洋楽はかなりのタイムラグが在って日本で発売されていたからです。あたくしはリアルタイムで「最新ビルボード・チャート」を追っかけていたのです。ずっと「FEN」ばっか聴いていたら、いつの間にか「ニュース」や「スポーツ実況」も楽しく聴ける様になっていました。英語が、日常言語になってしまったのです。

そんな10代に聴いていた「日本のラジオ番組」は、「オールナイト・ニッポン」、「ヤング・ジョッキー」、「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」、「GO! GO! ナイアガラ」ってなモンでした。単純に、洋楽を流してくれるから、聴いていました。其の流れで「サウンド・ストリート」に繋がり、タツローの日は全部エアチェックして気に入った曲だけ編集し、何度も繰り返し聴きました。当時は手に入らない楽曲を、タツローは惜しげも無く嬉々として流してくれました。リクエストも読んでもらいました。正に、「山下達郎」サンは「洋楽の先生」でした。でも、彼にも師匠がいたのです。御存知、大瀧詠一大先生です。其の師弟が、現在も「新春放談」を継続しているわけですが、其の始まりが「サウンド・ストリート」だったのです。

「長い枕だにゃあ。」(長万部キャッツ声で)

其の時、二人の先生が「エヴァリー・ブラザーズ」を弾き語りしました。其の音源は、今では「ようつべ」などで容易に聴けます。其の中で「キャシーズ・クラウン」を演奏した時に、大瀧師匠がギターを弾きながら「音楽の魔法を解説」しやがったのよさ。

「コレさ、ジョンの『恋する二人』の元ネタなんだよね」と。

実際に、頭からコード進行がおんなじである事を、歌いながら明かしてくれたのですよ。

師匠に告ぐ。「途轍も無い衝撃でした!」

ジョンは当時、締め切りに追われて、半ばイヤイヤながらに楽曲を量産していました。其れでもクオリティが高かったのです。相方のポールが未だ発展途上だった為、全ては「チーフ・ビートル」で「ボス」で「リーダー」で在る「ジョン・レノン」の肩に重くのしかかっていました。「1964年の俺は、三文ライターだったんだ。下らない曲を書き飛ばし、下らない映画にまで出たんだよ」とレノンは述懐しました。されど、ジョン・レノンの才気が其れを「永遠の美」にしたのです。

此の曲がエヴァリーを元ネタにしている様に、ジョンの曲には「原型」が在るモノが多いのです。ソロ時代の代表曲になってしまった「イマジン」が、ベルベッツの「バナナ」から戴いたってのは、かなり有名な噺ですし、「THE BALLAD OF JOHN AND YOKO(ジョンとヨーコのバラード)」なんてリード・ギターまで完コピで原曲(しかも、BBCライヴでカヴァーした楽曲)のマネをしまくっています。殺される前に最後に書いてデモを録音したと云われる「DEAR JOHN」では、途中で♪セプテンバー、ノベンバー♪と「元ネタ曲」をそのまんま歌っています。「COME TOGETHER」の盗作問題もありました。でもね、音楽なんてもんは「全て先達の偉大なる遺産の上に成り立っている」のです。其れは、遠い神代の昔からの決まりなのです。何にも無いトコから突然に何かは生まれません。では「パクリ」とか「盗作」と「オリジナル」の境界線は何処に在るのか?って事になりますね。其れは、此の楽曲なんかが好い例でしょう。此れがエヴァリーだって事実を云われなきゃ分らないんですよ。ジョンとポールが大のエヴァリー好きって知っていたのに、大瀧師匠に種明かしされるまで、少なくともあたくしは気付かなかった!

大好きな曲です。理屈抜きに楽しくなっちゃう。在る意味、コレこそが「1964年のビートルズ」でしょう。生き生きしていて、ジョンの「あはは〜ん♪」に萌えます。映画ではポールも歌っているのだけど、声は聞こえません。其れは「口パク」ではなく「逆口パク」なのです。確かに、ポールも歌っています。でも、音声が「レコード版」なだけです。

「嗚呼、ポール、哀れなりっ!」


(小島藺子/姫川未亜)


初出:「COPY CONTROL AGAIN」2008-8-5
REMIX-1:「COPY CONTROL」2008-10-13

(and this is REMIX-2 by 小島藺子)



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2009年05月06日

FAB4-046:IF I FELL(恋におちたら)

Woman/Lady Godiva To Dream the World


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:リチャード・ランガム(2/27)、A.B.リンカーン(3/3)、ジェフ・エマリック(6/22)
 録音:1964年2月27日
 MONO MIX:1964年3月3日
 STEREO MIX:1964年6月22日

 1964年7月10日 アルバム発売(「A HARD DAY'S NIGHT」 A-3)
 パーロフォン PMC 1230(モノ)、PCS 3058(ステレオ)


ジョンとポールが仲良くハモっている初期の名曲のひとつですが、作者はジョン・レノンです。此の楽曲で、ジョンは恐ろしいまでの音域を使いコーラスを作りました。実際に、此の曲も作曲段階のデモが残されていて、其処でジョンがファルセットでポールの歌うパートを作曲している様子が聴けます。其の上作曲段階では、前出の「I SHOULD HAVE KNOWN BETTER(恋する二人)」と此の楽曲が合体していたと分ります。「恋する二人」と「恋におちたら」は、ジョンの初期構想では「ひとつ」だったのです。余りにも複雑な展開になってしまい、二つに分けたってわけだ。此の「レノン流」な作曲法は、クラシック的な考え方から云えば「出鱈目」とも云えます。自由奔放なんだよね。つまり、完成した「恋におちたら」でも充分に複雑な展開の曲なのに、当初は「更に難しい曲を作ろうとしていた」のでした。

で、ポールは、結構「音痴」です。

特に「A HARD DAY'S NIGHT」セッションでの彼は、酷い。いや、此の曲に関しては、余りにも音域が広く高音域まで到達してしまう為に「歌えない」のです。リトル・リチャードを完璧にマネ出来たポールの高音すらをも超えた音域まで、レノンは書いたのです。ジョンのソロで静かに始まり、ポールが絡んで来て二重唱になってから、メロディーがドンドンと上昇して行き、遂にはポールさえも歌えない音域へまで上がり切ってしまうのですよ。摩訶不思議な「ジョン・レノンにしか書けない」名曲です。此れが、レノン流です。我流だからこそ、こんな展開の楽曲を彼は書けました。しかも、其れが「ちゃんとした美しいメロディーを持つ大衆音楽」として成立しているのです。「IF I FELL」って綺麗な曲だから、自分でも歌ってみよう、なんて軽く考えてコピーしてみて吃驚仰天ってな経験を持つ「ビーヲタ同志」は少なくないでしょう。

ジョンは、常に「実験」を試みる人でした。「A HARD DAY'S NIGHT」では、全13曲中10曲を書き、さらに「AND I LOVE HER」も合作していますので、10.5曲がレノン作品です。更に云えば、EP盤「LONG TALL SALLY」収録の4曲も「A HARD DAY'S NIGHT」セッションと云えます。其処には、カヴァー3曲とオリジナル1曲が収録され、唯一のオリジナルがレノン作品なのです。つまり、オリジナル14曲中で、「11曲と半分」を書いたのが「ジョン・レノン」だったのだよっ。「レノマカ」ってクレジットされてるのに、ポールが書いたのは14曲中で「2曲と半分」なのよさ。

「11.5 対 2.5」!絶望的な格差です。

そんな「絶対王者」ジョン・レノンが書いた作品のほとんどが、アルバムの大半を占める楽曲群が、なな、なんと「G」を基調に書かれています。故に、トータルなアルバム単位でひとつの世界観が在るのです。後の「REVOLVER」などでも、頑なに同様のコード進行ばかりで全ての収録曲を書こうと云う「縛り」を作り実行しています。其れが「単一コードでの音階無し」まで発展して行きます。ジョンは、常に、同じ様な曲は二度と書きたくなかった。同じコードの縛りを自ら強いても、多彩な楽曲を生み出します。だからこそ、ビートルズは常に変化して行きました。

映画「A HARD DAY'S NIGHT」で、不機嫌な太鼓叩き「リンゴ」の機嫌を直そうと、ジョンが此の曲を歌いながらリンゴの回りをウロチョロして、渋々ドラムを叩き出したリンゴが「太鼓を叩けば幸せさ」とばかりに笑顔になる名場面が在ります。彼らの当時の日常を映画化したとされる「A HARD DAY'S NIGHT」の、そんな場面を観る時、僕らは「ジョン・レノンと云うボスの、懐の深さ」を痛感します。ジョンこそが、リーダーでした。だから、彼が不幸な最期を迎えた時に、世界は「ビートルズが逝った」と認識したのです。そして、何故「ポールがフラットしまくっている」のかの謎は、「ポールが実は音痴だから」って事ではありません。此の曲は、ジョンとポールの要望で、4チャンネルなのにも関わらず、「二人の二重唱を、一本のマイクで録音した!」のでした。ポールは愛するジョンと、彼の合意で、彼の野心作を、たった二人きりで、たったひとつのマイクに向かい合わせて歌ったのです。

「そりゃ、のぼせ上がって、フラットするっしょ?」

ライヴでは二人のどちらかが笑い出して二人で大笑いしちゃって、滅茶苦茶になっちゃうテイクも海賊盤で聴きました。ジョンとポールって、仲が好いんですよ。子供なんだもん。少年二人がじゃれ合ってるみたいなんだよ。其れが「レノマカ」の正体です。彼らは「トムとハックルベリー」でした。


(小島藺子/姫川未亜)


初出:「COPY CONTROL」2008-10-14

(REMIX by 小島藺子)



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2009年05月07日

FAB4-047:I'M HAPPY JUST TO DANCE WITH YOU
(すてきなダンス)

ネオン(紙ジャケット仕様) hdnj.jpg


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:リチャード・ランガム(3/1)、A.B.リンカーン(3/3)、ジェフ・エマリック(6/22)
 録音:1964年3月1日
 MONO MIX:1964年3月3日
 STEREO MIX:1964年6月22日

 1964年7月10日 アルバム発売(「A HARD DAY'S NIGHT」 A-4)
 パーロフォン PMC 1230(モノ)、PCS 3058(ステレオ)


レノン・マッカートニーは、最早「かわいこちゃんアイドル」では無くなっていました。特に此の当時「絶対的な主導者」で在ったジョン・レノンは、可愛いポップ・ソングだって書けたけれど、もうそんなモンは歌う気がなかったのです。ポールもジョンを追い、寡作ながらマイナー調の「大人のラヴソング」へと進んでいました。ポールは一方、お気楽なジャンクを書き飛ばしていて(「アホみたい」な楽曲です)、出来が悪い其れらは他の後輩にあげて、「レノマカ」の名前だけでヒットさせていました。いや、ホントに酷い曲ばっかですよ。例えば「Tip Of My Tongue」とか「One And One Is Two」とかさ、題名を聴いただけで「とほほ、、、」じゃん。実際に目も当てられない「駄曲」です。でも、売れた。其の点、ジョンには「プロ意識」が在りました。流石はキャロル姐御を尊敬しているだけ在って、他人に提供した楽曲もしっかり練られた名曲ばかりです。

さて、そんなジョンが、当時は未だマトモな曲を書けなかった「弟分:追っかけジョージ」の為に書いたのが「すてきなダンス」でした。「A HARD DAY'S NIGHT」セッションでは、ジョージの為に曲を書き、リンゴには自分の十八番カヴァーを譲る「余裕たっぷり」なボス振りを遺憾なく発揮したわけです。もうすぐ息子(ジュリアン)も生まれる既婚者で「大人」なレノンには、此の曲を歌うモチベーションが湧きませんでした。いや、当初からジョージの為に「職業作家」として書いた曲でしょう。言わば此れは、ジョン・レノン版「ロコモーション」です。キャロル姐御がリトル・エヴァに自信作を提供した様に、レノンはやってみたかったのです。バックに徹したジョンが盛大に盛り上げます。ポールも呼応して、鉄壁な「レノマカ合いの手」を叫びまくります。エンディングまで♪おーお、おーーお、うおーっ!♪とやりたい放題ですよっ!

そして、其れに乗せられた「いたいけジョージ」の若々しく甘い声が「可愛い」のだ。「ジョージ・ハリスン、21才。」思えば、映画「A HARD DAY'S NIGHT」でパティと共演し、二人は「恋におちた」のです。其の共演シーンでジョンとポールが歌っていたのが「I SHOULD HAVE KNOWN BETTER(恋する二人)」なのだ。出来過ぎた様なドラマティック過ぎる出来事でした。其れが「1964年のビートルズ」であり、世界は彼らに跪きました。そして、其の中心に居たのが「ジョン・レノン」です。世界は、ジョンのモノになったのです。其れで好い気になって腑抜けにならなかったのが、ジョンの恐るべき才気でした。彼は、思った。

「おい、此れは、何かおかしいぞ?」と。

其れは、たった数ヶ月後の次作で早くも表面化します。日本盤のジャケットにも使われた映画での演奏シーンは、素晴らしいです。ジョージの活き活きとした歌や軽やかなステップも好いけれど、やはり、作者で在るジョンのギターですよ。ジョンは天才歌手であると同時に、類い稀なる「天才リズム・ギタリスト」でも在りました。圧倒的な存在感です。ジョンのギターだけで、充分に「音楽」になってしまっている!正に「才能」です。完全なる我流なのに、如何なる名手よりも、ジョンのギターは高らかに歌っています。名曲!名演!!大好きです。


(小島藺子/姫川未亜)


初出:「COPY CONTROL」2008-10-15

(REMIX by 小島藺子)



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2009年05月08日

FAB4-048:AND I LOVE HER

日本の人 AndILoveHer.jpg ailh-iif.gif


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:リチャード・ランガム(2/25〜27)、A.B.リンカーン(3/3)、ジェフ・エマリック(6/22)
 録音:1964年2月25日〜27日(完成品は27日版)
 MONO MIX:1964年3月3日
 STEREO MIX:1964年6月22日

 1964年7月10日 アルバム発売(「A HARD DAY'S NIGHT」 A-5)
 パーロフォン PMC 1230(モノ)、PCS 3058(ステレオ)


♪あいしてるわ♪(冬美ちゃん声で)

「キヨシちゃん」こと「忌野清志郎さん」は、心底、此の楽曲が好きなのでしょう。僕が知る限り、公的なカタチで三回もカヴァーしています。最初は「ロックが生まれた日」だったかナ。野音で、「SMI」として、坂本冬美をヴォーカルに抜擢して「日本語の替え歌」で披露したのでした。其の時に、キヨシちゃんはウクレレを弾いていました。其れで、僕は「ウクレレ弾き」になったのです。キヨシちゃんとおんなじお店で、ジョンが最期に愛用していたオベーション・アコギのウクレレ版を買いました。

其の替え歌は、細野サンをも巻き込んだ「HIS」で正式録音されます。でも、キヨシちゃんは原曲のまんまの英語詞でもカヴァーしているのですよ。其れは、TBSのドラマだったと思います。彼は、弟である主人公の「真面目できれいなおねえさん」が間違って好きになっちゃった「売れないミュージシャン役」でした。でも、二人の愛は本物だったので、お父さんに挨拶にゆくわけです。ぎこちない場面がつづき、破談か?って展開で、キヨシちゃん演じる恋人が除け者にされた彼女の家の片隅で、一人ぽっちで此の曲をギターで弾き語るのでした。其れを聴いた弟や親父が感動して、目出度く結婚するってエピソードだったと記憶しております。主役の弟役は、緒方直人クンだったかナァ。ドラマのタイトルすら思い出せませんが、キヨシちゃんが歌った場面だけは鮮明に覚えています。主題歌もキヨシちゃんの名曲のひとつ「サラリーマン」で、劇中で「きれいなおねえさん」と結婚後にも「よーこそ」を演奏したりしたと記憶しております。てか、おそらく、キヨシちゃんが観たくて毎週観ていたのでしょう。相変わらず、枕が長くて、どーもすいません。

アルバム「A HARD DAY'S NIGHT」での、唯一の「本当のレノン・マッカートニー作品」が、此の至上の名曲「AND I LOVE HER」です。メインの部分はポールが書き、中間部をジョンが書く(もしくは、其の逆パターンも在り)と云う、其の後の合作の名作(例えば「MICHELLE」「WE CAN WORK IT OUT(恋を抱きしめよう)」「A DAY IN THE LIFE」など)の、最初期の試みが「ズバリ!当たった」わけです。其れまでの彼らの楽曲とは明らかに違う「新たなるスタンダード・ナムバー」の誕生でした。レコーディング・データを御覧になって戴ければ分る通り、多忙だった彼らは此の楽曲に、なな、なんと「三日間、21テイク」も費やしました。「アンソロジー 1」で聴ける初期テイクでは、其れまでと同じ「エレキ・バンド・スタイル」で演奏しています。リンゴの太鼓が煩くって、名曲が台無しですよ。其れが、完成型では「アコースティックなバラード」へと変貌します。ジョンもジョージも、アコギに持ち替えたのです。其の編成は、映画「A HARD DAY'S NIGHT」にも、しっかりと記録されました。

「アコギの名手:いたいけジョージ」がクラシカルなソロを奏でる横で、蟹股で「ジャンジャカジャンジャン!」と大仰にストロークし続ける「俺様:ジョン」、我関せず自分に酔ってフラットしまくりで歌う「ボクちゃん大好き:ポール」、そして、デカイ音で太鼓が叩けなくって不機嫌な「太鼓莫迦:リンゴ」、、、全くもってアンバランスな世界です。なのに、其れが美しいのです。「ミックス違い道」でも、大変お世話になった楽曲です。多くのミックス違いが存在すると云う事は、ビートルズが此の楽曲に其れだけ時間を掛けたと云う証明なのです。彼らは、大いに自覚して、此の楽曲を現在のカタチにしました。後の世の「アンプラグド」を作ったのです。彼らが此の楽曲で発明したのです。だからこそ、ポールは万感の想いを込めて「MTV」で此の曲を歌ったのだよ。先駆者の誇りを賭けて奏でた30年後の名演に、僕らは涙した。ベースを弾かず、亡きジョンの奏でたアコギのフレーズを高らかに鳴らしながら歌うポールに惚れ直したんだ。

其れにしても、此の曲でのポールも「音痴」杉ですね。

無茶苦茶、音を外しまくってます。でも、其れすらも魅力になる程、いや、寧ろ「ポールが辿々しく危うく歌う」からこそ、此の楽曲は「永遠のスタンダード」になったのでしょう。いや、あの、あたくし、「ポール大好きサン」ですよ。でも、完全に「フラットしてる」んだもん。「音痴」なんだもん。ポールとリンゴは、音痴だよ。いや、ホント。聴けば分るじゃん。そして、此の記事を書いてから、那奈ヶ月も経たずに、キヨシちゃんは逝ってしまった。キヨシちゃんは、公式盤だけでも此れ以外にも「イマジン」(日本語)、「HELP !」(日本語)、「DON'T LET ME DOWN」等、多くの「FAB4カヴァー」を披露してくれました。でも、僕にとってキヨシちゃんが演奏してくれた最高の「ビートルズ関連カヴァー」は此の曲です。此の曲を聴いたり、自分でウクレレで奏でる度に、僕はキヨシちゃんの事を考えるでしょう。今までも、此れからもずっと。キヨシちゃんの魂は、ずっと遺る。此の曲が愛おしいのは「キヨシちゃんの心そのもの」だからだと思います。キヨシちゃんは、此の曲みたいな人です。繊細で優しくって強い「本当の大人」です。愛しています。


(小島藺子/姫川未亜)


初出:「COPY CONTROL」2008-10-16

(REMIX by 小島藺子)



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2009年05月09日

FAB4-049:TELL ME WHY

ソングス・オブ・ザ・ビートルズ〜オール・ユー・ニード・イズ・カヴァーズ Classic Masters


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:リチャード・ランガム(2/27)、A.B.リンカーン(3/3)、ジェフ・エマリック(6/22)
 録音:1964年2月27日
 MONO MIX:1964年3月3日
 STEREO MIX:1964年6月22日

 1964年7月10日 アルバム発売(「A HARD DAY'S NIGHT」 A-6)
 パーロフォン PMC 1230(モノ)、PCS 3058(ステレオ)


本当なら「Beach Boys' Party!」の画像を貼りたいのはコッチだったのです。でも「I SHOULD HAVE KNOWN BETTER(恋する二人)」で貼っちゃったからさ。

THE BEACH BOYS を強烈に意識していたのは、実は、
ポールでは無く「ジョン・レノン」だったのではないか?


そう云う仮説が成り立つのが、此のジョン曰く「映画用にアップテンポの曲も要るってゆーから、仕方無く其の場で捏ち上げた」のに名曲になっちゃったコレです。ジョンの発言は、強ち間違って無いのでしょう。だって、タイトルだって「ASK ME WHY」の焼き直しですよ。「こんなもんで、ええやん?」って書いちゃったんでしょう。そして「こんなクズ曲は、俺様ひとりで歌っちゃうぜ、バカヤロー!」とばかりに、お得意のリズム・ギターを「ジャカチャ、ジャカチャ!」とかき鳴らしながら、全部ひとりで歌っちまったんだよ〜んっ!!

最早、他の参人は「只のバックバンド」です。でも、其れは「世界最強の楽団」でした。完全なる「ジョンの下僕」と化した「ポール、ジョージ、リンゴ」を従えて、「1964年のジョン・レノン」がやりたい放題に歌い倒します。「天才歌手:ジョン・レノン」が、三人に分身の術を使って歌っているのですから、最早「忍者武芸帳」状態ですよ。何なんですか?此のハーモニーは。常軌を完全に逸しています。笑いながら歌ってるじゃまいか。其れなのに、突っ走って、愉快痛快奇々怪々なのだ。いえ、ポールとジョージがコーラスだとも云われています。普通はそう思うし、其れが正解なのかもしれません。でもですね、あたくしはジョンがひとりでやらかしたとしか思えないのだ。ゆえに、此の項は「妄想記事」と思って頂いて結構です。

此の楽曲は「AND I LOVE HER」の再リメイクと「IF I FELL(恋におちたら)」と云う、「日本盤シングル最強盤!」(杉真理たん声で)を正式録音した日に、其の「狭間ケンヂ!」(ふたたび、杉真理ちゃん声で)に「やっつけ仕事の8テイク」で録音されたのです。もしかしたら、ジョンは「ポールとジョージ用のパートも、其の場で捏ち上げて、自分でデモ録音した」のではないかと思うのです。

されど、彼らには時間が無かった。本人たちも「AND I LOVE HER」と「IF I FELL(恋におちたら)」に時間を掛けたかった。彼らの理解者であるマーティンも、其れは分った。ならば、マーティンは云う。「ジョン、此れで行こう。君の三重唱で完璧だ。さあ、お待ちかねの新曲を聴かせてくれないか?ジョニー」と。そして、其れはジョンにとって色んな意味で好都合だったのでしょう。「THIS BOY(こいつ)」が、THE BEACH BOYS の、いや、ブライアン・ウイルソンの「SURFER GIRL」に影響されて書かれたのは、確実です。アノ名曲での「四声コーラス」は、諸説在りますが、ブライアンの多重録音(大瀧師匠説)だと、あたくしも思います。ジョンも、そう思ったのです。だから、彼は「俺様だって、俺様のバンドの三部コーラスくらい、お茶の子サイサイでやれちゃうんだよ〜ん、ベロベロベーっ!」と云いたかったのだよ。時は「1964年」、米国で、ワナワナと震えながらリベンジに萌える「永遠の少年」が居ました。彼は、誓った。

「僕は、絶対に、ビートルズに勝つんだっ!」と。

少年は、双子の様なポールを畏怖したのでは無いのです。彼が恐れたのは「ジョン・レノン」でした。だからこそ彼は1966年に、こう歌った。

「ねえ、ジョン兄さん、寝ちゃったの?」

レノマカとブライアンの「仁義なき闘い」を仕掛けたのは、「世紀の悪漢:ジョン・レノン」です。ブライアンは「英雄」になろうとしたのです。自分達を侵略した「エイリアン:ビートルズ」から米国を守ろうとしたのです。壮大な夢を見て、永遠に覚めずにいます。ジョンの悪戯は、多くの人の人生を狂わせました。そう、あたくしも「犠牲者」のひとりです。でも、彼に感謝しています。

ジョン・レノンは「愉快犯」です。世紀の「ペテン師」です。


(小島藺子)


初出:「COPY CONTROL」2008-10-17

(REMIX by 小島藺子)



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2009年05月15日

FAB4-050:ANYTIME AT ALL

Code of the Road Code of the Road: Greatest Hits Live


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ケン・スコット(6/2)、リチャード・ランガム(6/4)、ジェフ・エマリック(6/22)
 録音:1964年6月2日
 MONO MIX:1964年6月4日、22日(英米盤用2種)
 STEREO MIX:1964年6月22日

 1964年7月10日 アルバム発売(「A HARD DAY'S NIGHT」 B-1)
 パーロフォン PMC 1230(モノ)、PCS 3058(ステレオ)


「ジョン・レノンのソロ作品集」(断言!)で在る、アルバム「A HARD DAY'S NIGHT」のA面は、先行シングルだったポール作の「CAN'T BUY ME LOVE」で終わります。ジョンは「美味しいトコ」を、ちゃんと相棒に用意していました。最新ヒットです。ポールの曲です。映画のサントラ面のラストです。A面の那奈曲は、リード歌手としてなら、「ジョン&ポール:2、ジョン:2、ポール:2、ジョージ:1、リンゴ:0(此処が重要!試験に必ず出ますよっ!)」と、絶妙のバランスを取っています。完璧です。然して、其の作者は、「ジョン:5、ジョン&ポール:1、ポール:1」と云うカラクリになっているわけです。此れじゃ「レノマカ」じゃないじゃん。「レノマ」でもないじゃん。「ジョン・レノン、マ」くらいなモンじゃん。

そーやって、対外的には「三人でやってますよ、ええ、僕らは均等な関係です。(おいおい、リンゴは?)」と見せかけつつ、実権を完全に握って居たのが「1964年のジョン」でした。他の連中は「下僕」です。そんでもってだ、映画のサントラって事で、レノンは敢えて「我を捨てた」わけです。でもね、B面は「映画とは関係の無い新曲集」なのだよ。

「最早、ジョン・レノンの独壇場ですっ!」

現在では大好きな曲になったポール作の「THINGS WE SAID TODAY(今日の誓い)」を、中学生だった僕は捨てた。此のアルバムのB面は、真ん中の三曲目を飛ばして聴いていました。すると、其れは、つまり、

「ジョン・レノンのソロ・アルバム」になっちまうのだよ。

其の最初が此れです。「タン!」で「えにたいあとおー!」です。其の後にポールが「えにたいあとー!」と高音で返しますが、彼の出番は其れのみなのでした。其の後は「今日の誓い」まで全く出番無しですよ。一曲だけ歌わせてもらったら、其の後もずっと、ジョンだけです。ジョンの声しか聴こえないのです。掛け値無しの名曲である「ANYTIME AT ALL」は、1964年6月2日に録音されました。其の日は、三曲が録音され、最初に此の曲を「那奈テイク」、次にポールB面唯一の貢献「今日の誓い」を「たったの3テイク」で完成し、「WHEN I GET HOME(家に帰れば)」を「11テイク」もやらかして、再び此の曲の「8〜11テイク」を録音し完成させ、家に帰ったのです。

何故、此の曲は「昼休みまで挟んで、二曲も別の楽曲を録音してから最終テイクへと向かった」のでしょう?なな、なんと、午前中の初めの「那奈テイク」時には、、、

「ジョンはミドルエイトを書いてなかったのだよっ!」

未完成の曲を、那奈回も手下どもに演奏させていたのです。そしてポールの自信作に付き合ってやる親分肌を見せつけた振りをして、昼休みになってから慌てて「ミドルエイト」を書き足し、そんな素振りすら見せずに自作の「家に帰れば」を録音した後で、

「じゃあ、最初に途中までだったアレも、やっつけちまおうか?」

とばかりに、さも最初から全部出来ていたと思わせて初めて完成作を披露したのでした。実際に、ポール、ジョージ、リンゴの下僕どもは、本気で「ジョンのペテン」に完璧に騙されていたのですよ。まさか未完成だなんて思ってなかったのです。つまりだ、此れは「時間を隔てた二つの曲を別々に書いて録音しひとつにまとめた楽曲」なのです。なのに、此の一貫した疾走感は一体何なんでしょう?

「ジョニー、恐るべし。」


(小島藺子/姫川未亜)


初出:「COPY CONTROL」2008-10-18

(REMIX by 小島藺子)



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2009年05月16日

FAB4-051:I'LL CRY INSTEAD(ぼくが泣く)

The Anthology Extracts_from_the_Album_A_Hard_Day's_Night.jpg


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ケン・スコット(6/1)、リチャード・ランガム(6/4)、ジェフ・エマリック(6/22)
 録音:1964年6月1日
 MONO MIX:1964年6月4日
 STEREO MIX:1964年6月22日

 1964年7月10日 アルバム発売(「A HARD DAY'S NIGHT」 B-2)
 パーロフォン PMC 1230(モノ)、PCS 3058(ステレオ)


と云うわけで、「ANYTIME AT ALL」で幕を開けた「ジョン・レノン劇場」は、目くるめく「至上の快楽と絶頂」へと向かいます。「ANYTIME AT ALL」では、所謂ひとつの「スーパー・インポーズ」で「ポールの声」を足した「悪漢:レノン」は、続く此の摩訶不思議な楽曲で、相棒を蔑ろにします。此処で聴けるのは、ジョンの「ダブル・トラック」の歌声です。「二人のジョンが歌います。」「4トラック」と云う「自由自在」に、ジョン・レノンは多くの試みを企み実現しました。彼は、知ってしまった。

「何だよ、俺様だけで、全部やれちゃうわけだ。」と。

そして、「英雄:ブライアン・ウイルソン」を嘲笑うかの様な「実験」を敢行し成功します。ジョンは、此のオリジナル英国盤では、たったの「一分四十四秒」で終わってしまう楽曲を、在ろう事か、二部に分けて録音し繋げました。其れは、当初から「決まりだもの」の、計画的な企みだったのでしょう。だってさ、こんなにも短い曲を「一発録り」出来ないなんて、常人の感覚なら考えられません。確かに、当時の「レノン式」なる楽曲は、音楽的知識を持つ方々には通じなかった。たった二分にも満たない楽曲にも、多くのドラマが潜んでます。つまりだ、ジョンが「二つの異なるヴァージョンを、ひとつに繋いでくれとマーティンに最初に御強請りしたのは、1966年の終わりではなかった」のだ。其れは、1964年だったのです。だから、1964年の米国初上陸時の映像で、あの曲のイントロをレノマカはピアニカで吹いてのけた。

此の小品は米国サントラ盤では「二分六秒」の長さに編集されました。映画の冒頭にも流されたから、純粋なサントラ盤にも収められています。此れは何を意味するのかと云うと、此の曲が二部構成で別々に録音されたのは「苦肉の策」では無く、ジョンにとっては「編集を見越しての計画通り」で「自信作」ゆえの「実験」だったとの事実です。曲も複雑怪奇ですが、詩も「自虐的に後悔するダメ男」が主役と云う「人気アイドル集団の初主演映画の冒頭に流すべき曲とは違うのではないのか?」と云うモノです。物事は、突然に何も無い処から出現したりしません。全てには「0」では無く「1」が存在するのです。「無」からは何も生まれないのだ。其れは、其れ以前に「有った」のです。「有」からしか始まらないのです。もう壱度、云いましょう。

「片瀬を、観よっ!」

あ〜れ、まっ?いつの間にか、

「片瀬噺」になっちょるよっ!てへへ☆


(小島藺子/姫川未亜)


初出:「COPY CONTROL」2008-10-19

(REMIX by 小島藺子)



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2009年05月17日

FAB4-052:WHEN I GET HOME(家に帰れば)

bjfth.jpg Fried Glass Onions: Memphis Rocks Beatles 1 ジョン・レノンに恋して


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ケン・スコット(6/2)、リチャード・ランガム(6/4)、ジェフ・エマリック(6/22)
 録音:1964年6月2日
 MONO MIX:1964年6月4日、22日(英米盤用2種)
 STEREO MIX:1964年6月22日

 1964年7月10日 アルバム発売(「A HARD DAY'S NIGHT」 B-4)
 パーロフォン PMC 1230(モノ)、PCS 3058(ステレオ)


ポール作の「THINGS WE SAID TODAY(今日の誓い)」でお茶を濁して、ふたたび「ジョニー・ゲット・バック!」するのが、「WHEN I GET HOME(家に帰れば)」とは憎い演出です。此の曲から、先行シングルのB面!だった「YOU CAN'T DO THAT」、そして「I'LL BE BACK」へと雪崩れ込む展開は、桃源郷です。「ジョン好きサン」いや、其れは正にビートルズのファンなら、跪き感涙せねばおれない世界です。思えば「今日の誓い」ですら前述の通り、曲を際立たせて居るのは「レノンのアコギ」なのです。バックに回ったレノンも侮れません。つまり、アルバム「A HARD DAY'S NIGHT」のB面とは、完全なる「ジョン・レノン劇場」です。

ジョンは、実際に「締め切りに追われ、急場しのぎで多作していた」のでしょう。相方のポールは未だ「覚醒」しておらず、其れでも契約上の問題で何としてでも年間二枚のアルバムを出さねばならなかった。でも、もう「カヴァー曲」で逃げるのも避けたかった。追い詰められた時、ジョン・レノンと云う「世紀の悪漢」は爆裂します。何なんだよ?此の曲の出だしは?きっと、我が愛しの片瀬那奈ちゃんが聴いたなら、こう云うでしょう。

「ジョン、いきなりだナァ」

最早、問答無用です。

「おうおはぁーーーっ!おうおはーーーっ!!」

と「二人のレノン」が絶叫し、ザラついた、喉をぶっ壊した「ジョン・レノン節」が、がなり立てて二分一寸で唐突に終わってしまうのです。

「ジョン、やりっ放しだよ、ジョン」

云いたい事だけ云って、お終いですよ。「やっぱ、カッコいいナァ。」と、ポール&ジョージは思ったでしょう。ん?リンゴ?彼は「何も考えてなかった」と思います。そろそろ「リンゴのファン」から脅迫状が届きそうですね。ほら、リンゴが「もう手紙は送ってよこすなよっ!オラは忙しいんだから、今後は送って来ても読まずに捨てるぞ、ごらぁっ!!」なんて云っちゃったからさ、困った「リンゴちゃんヲタ」があたくしに手紙を書くのよさ。「あっ。そんなコアなリンゴちゃん好きなんて、存在しないか。安心だね☆」其れでね、こんなマイナーな曲をカヴァーする奴って、よっぽどの「ビーヲタ」だと思います。此れは、なかなか見つからなかったんですよ。そしたら「ザ・ハッスルズ」なんて聞いた事も無い売れないバンドがカヴァーしていました。

でさ、ジョンはテキトーな事を歌っているのよさ。彼は「家になんか帰りたくなかった」と思うもの。だって、帰ったら赤ん坊が夜泣きして眠れないじゃん。此の曲を歌った時、ジョンが家に帰れば「生後二ヶ月弱のジュリアン」が、「でき婚したシンシア」と一緒に待っていたのですもの。


(小島藺子/姫川未亜)


初出:「COPY CONTROL」2008-10-20

(REMIX by 小島藺子)



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2009年05月18日

FAB4-053:I'LL BE BACK

Roger Nichols & the Small Circle of Friends ジョン・レノン


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ケン・スコット(6/1)、リチャード・ランガム(6/10)、ジェフ・エマリック(6/22)
 録音:1964年6月1日
 MONO MIX:1964年6月10日(未使用MIX)、22日(英米盤用2種)
 STEREO MIX:1964年6月22日

 1964年7月10日 アルバム発売(「A HARD DAY'S NIGHT」 B-6)
 パーロフォン PMC 1230(モノ)、PCS 3058(ステレオ)


怒涛の「ジョン・レノン劇場」は、先行シングルのB面に敢えて甘んじた自信作「YOU CAN'T DO THAT」で高らかに絶頂に達します。「ポール、出番無しですよっ!」(キチホンさん声で)そして、鬼のレノンは最後に必殺技を未だ用意していました。其れが此の楽曲です。世界は「レノン節に包まれた」のです。興味深いのは、英国用と米国用に違う「モノMIX」を意識的に彼らが作った事実です。当時は「モノラル」こそが主流でした。ビートルズも、モノラルのミックス時にしか立ち会わなかったと云われています。実際に「THE BEATLES(ホワイト・アルバム)」までのモノラルとステレオの両方で発売されていたアルバムでは、圧倒的に「モノラル」の方が素晴らしいのです。此の楽曲なんか、最初のモノMIXは、結局はレコードにならなかったんですよ。何やってんだよ、マーティン。

ポールには、いや、他の如何なる作曲家にも永遠に書けないのが「レノン節」です。其の初期に於ける頂点を究めたのが、アルバム「A HARD DAY'S NIGHT」で在り、特に「B面」でした。其の中でも、最も美しいのが此の曲です。嵐の様な熱いレノン節が続いた後に、唐突に三本のアコギが鳴ります。「ロッカ・バラッド」の誕生です。さっきまでとは打って変わった穏やかなレノンの歌声が聴けます。曲は、例によって「自由自在」に展開してゆくのです。なのに壊れないんです。ジョンは自由だ。思うが侭に歌う。美しいよ、本当に、綺麗だ。ポールはジョンの死後に「合作だ」と主張しておりますが、此の曲のテーマを考えると首をひねるしかないですナァ。と申しますのは、此の曲はジョンが幼い頃に別れた父親を歌ったと云われているからです。

「英雄と悪漢」で在る「ブライアン・ウイルソン」と「ジョン・レノン」には、他の連中には無い「決定的な共通点」が在りました。其れは「父親への愛憎」です。故に、彼らは自身の息子や娘に対しておんなじ仕打ちをしてしまい、同じ様に「憎まれる」のでした。ジュリアンが「親父の噺は、もうウンザリだっ!」と云ったり、カーリー&ウエンディが「パパなんて大っ嫌いよっ!」と語る度に、僕らは悲しんだ。けれど、ジョンは其の「複雑な愛憎」さえも、こんなにも美しい曲へと昇華したのです。彼は「芸術家」でした。本物の「アーティスト」でした。ジョンは、自分が有名になったらノコノコと現れた父親に、彼が亡くなるまで何度も金を無心されつづけますが、黙ってずっと送金していたのだそうです。後に「お父さんは俺を捨てたけど、俺は捨てられなかった。帰って来て!」と絶叫したのは「真実」でした。だから、僕らは「ジョン・レノン」を信じた。其れは、彼の歌は、彼の「コトノハ」は、「真実」だったからです。

ジョンが生きている時に、彼を好きになれた。此れは、一生の財産です。1980年12月8日(日本時間:12月9日)に、僕は哭いた。此の世の終わりが来たと思ったよ。当時の僕は浪人生で、ジョンが引退していたなんて全く知らず何故新作を五年も出さないのか不思議だった。そんな時、新曲が発売された。シングル盤を買って、何度も聴いた。そして彼が殺される直前に、夢にジョンが現れた。僕がジョンの夢を観たのは、後にも先にも其の時だけで、やけにリアルな夢だった。僕は大学生になっていて、ジョンはヨーコと一緒に客員教授として招かれ、其れを受講している夢だった。そして、在ろう事か、僕は天下のジョン・レノンと口論していた。当然、英語で激しく罵り合った。原因が何だったのか分らないけど、兎に角、本気で喧嘩してしまったのだ。

目覚めて、とっても嫌な気分になった。何故?此の世界で最も尊敬する人が初めて夢に出て来たのに、僕は喧嘩なんかしたんだろう?と、不可解だった。そして、彼は殺された。「絶望」と云うコトノハの意味を、僕は知った。もう、何もかも嫌になった。何故、ジョンが殺されなきゃいけないんだ?次の日は受験用の健康診断だったのだけど、僕は一睡も出来なかった。ラジオで内田裕也が泥酔して泣いていた。早朝、自転車で駅へ行った。新聞は全部「ジョンが死んだ」って、一面で報じていた。ポールが「くだらない!」と云ったと書いてあった。ジョン・ライドンは「世界は何も変わらないさ!」と吐き捨てた。スプリングスティーンが「明日なき暴走」を20分間も演奏した。僕の「ROCK」が、確かに死んだ。泪も出なかった。何が何だか、さっぱり分らなかった。物凄い「喪失感」が襲って来て、気が狂いそうだった。壱度も実際に逢った事も無い異邦人が死んで、あんなに気持ちになったのは生まれて初めてだった。そして、もう二度と無いだろう。


(小島藺子/姫川未亜)


初出:「COPY CONTROL」2008-10-21

(REMIX by 小島藺子)



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2009年05月19日

FAB4-054:I FEEL FINE

FROM LIVERPOOL TO TOKYO〜 Beatles_I_Feel_Fine.jpg


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ジェフ・エマリック(10/18)、ロン・ベンダー(10/21〜22)、マイク・ストーン(11/4)
 録音:1964年10月18日
 MONO MIX:1964年10月21日〜22日
 STEREO MIX:1964年11月4日

 1964年11月27日 シングル発売(最高位英米1位)
 パーロフォン R 5200(モノ)


2008年の世界で、我が愛しの「御本尊様」で在らせられる「片瀬那奈ちゃん」が、寝る間も惜しんで僕らの為に「芸術活動」を弛まなく続けられている様に、

「1964年のビートルズには、休息など無かったっ!」

大傑作アルバム「A HARD DAY'S NIGHT」が発売されたのは、1964年7月10日でした。映画が英国で公開されたのは、7月6日です。タイムラグが在った日本では、8月1日に公開されています。ところが其の頃 1964年8月11日には、彼らは次作「BEATLES FOR SALE」の録音を開始していたのです。其れは10月まで続き、先行シングルが11月末には発売され、アルバムもクリスマス・シーズンに合わせて12月の頭には店頭に並んでいたのでした。当時はライヴ活動も行っておりましたので、最早、何が何だか分りま「シェーーーンッ!カンバァーーーック!!シェーーーンッ!!!」状態で、彼らは闘っていました。しかも、通例通りに此のシングルは両面共に「BEATLES FOR SALE」には収録されませんでした。「WITH THE BEATLES」同様に、クリスマスの贈り物は、「全曲、新曲、二度売り反対!」を貫いたのです。真摯です。真っ当です。

「ビートルズは、正義ですっ!!」

結果的に先行シングルのA面となった「I FEEL FINE」は、実は「1964年10月6日」に、本来ならシングル候補だった「EIGHT DAYS A WEEK」(実際に、米国や日本などではシングル化されました)を録音中に発想され、其の僅か12日後にはレコーディングされたのでした。イントロで、所謂ひとつの「フィードバック」が聴けます。其れが「偶発的な事」ではなく、ジョンの、いやビートルズによる「意図的な試み」で在ったのは確実です。多くのミックス違い(在ろう事か、此の楽曲は「5種類」もの「モノ・ミックス」が日付超えで敢行されました。其の内、二種は英米盤に別のモノが使われますが、他の三種は、基本的には「ボツ」なのです!)が存在します。其れらの中で、イントロが「フィードバック」の前から聴けるヴァージョンも在るのです。其れを聴くと、ポールが「ドーゾ」と云ってから、ジョンが「当時は未だ名前も無かった新たなる奏法」をやらかしてしまう「歴史的な瞬間」に出逢えるのです。

ジョン・レノンと云う「芸術家」は、常に新たなる実験を試みながら其れを「大衆音楽」として成立させる術を知っていました。アルバム「A HARD DAY'S NIGHT」で「第一期:ジョン・レノン劇場」を完結させた彼は、早くも次のステージへと向かっていました。其れは、つまり、「ヘビーメタル」への道でした。「I FEEL FINE」は、「ハードロック」の創造だったのです。そして其れが「ヘビーメタル」へと変態してゆくのです。後の「パンク」だって、全部、何もかも、ジョンは先取りしてしまった。「ラップ」ですら、彼が元祖です。「レゲエ」を広めたのも、レノンなのだよ。

僕たちは、其れを、リアルタイムで観てしまったから、
「ロックの人」になった。全部、ジョンが教えてくれたんだ。


さてさて、数多在る「ビートルズの曲は全曲カヴァーされている」世界でも、あたくしが驚愕した作品のひとつが「ほり☆まさゆき」サン歌唱の此の楽曲の日本語版でした。最初に聴いた時に、其れが「I FEEL FINE」だとは認識出来ませんでした。本人もスタッフも、本気でカヴァーしていたであろう事は確実なのですが、其れは全く別の宇宙を創造してしまったのです。だからさ、ナウでヤングな「若人」に告ぐ。

「東京ビートルズ」は、単なる「入り口」です。世界は、いや、宇宙は広大なのだよ。

「ま、自分で探して聴いて御覧なさいナ☆話は其れからよ、小羊ちゃん達(はーと」


(小島藺子/姫川未亜)


初出:「COPY CONTROL」2008-10-22

(REMIX by 小島藺子)



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2009年05月20日

FAB4-055:SHE'S A WOMAN

Blow by Blow Long Play Collection: the Original Albums Plus


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ケン・スコット(10/8、10/12)、マイク・ストーン(10/8)、ロン・ベンダー(10/21)
 録音:1964年10月8日
 MONO MIX:1964年10月12日(英国用)、21日(米国用)
 STEREO MIX:1964年10月12日

 1964年11月27日 シングル発売
 パーロフォン R 5200(モノ)


1964年とは「ビートルズが全米を制覇した時」でした。

其の壱年前に、ビルボード・チャートの首位に「日本語」で立った楽曲が在りました。御存知「スキヤキ」こと「上を向いて歩こう」です。坂本九ちゃんが「また『上向き』かい?」とイヤになる位に「不慮の事故」で亡くなるまで歌わされた楽曲が、日本発売されたのは1961年10月です。公的に発表されたのは、先駆けること二ヶ月前の1961年8月、NHK「夢であいましょう」での「今月の歌」としてでした。其れから二年近く経って「天下無敵のビルボード首位!1963年6月15日に週間首位、ビルボード誌1963年年間ランキングでも第10位!!」と云う、「前人未到」の今後おそらく起こらないであろう「ミラクル」を成し遂げたのですが、何故にそんな「東洋の島国でのヒット曲」が、FENでも「普通に日本語で流れ、来日アーティストが日本語で歌う」のかを説明するには相当の時間が必要です。

只、10代の頃「FEN」ばかり聴いていた時に、突然「上を向いて歩こう」が日本語で流れた瞬間の「疑問」と「感動」が忘れられないのです。確かに、中学生から「ポップス少年」だったので「スキヤキ」が「世界的に有名な唯一の日本の曲」って知識は在りました。でも、其れは「英語で歌われた」と思っていました。でも、そうぢゃなかった。日本語のまんまで、ビートルズの「I WANT TO HOLD YOUR HAND(抱きしめたい)」よりも前に、全米制覇してしまっていたのです。さて、枕が長過ぎで、どーもすいませんですますまんねん。

大傑作A面「I FEEL FINE」がレノンの会心作だったので、ポールは「B面で恋」をします。粋なレノンの実験作の裏で、野暮な歌をがなったのです。此の「レノマカ」の対比こそが、彼らを「完全無欠」にしました。お互いに無い部分を、常に補ってしまうのです。そりゃ、ファンは堪らんよ。「ハズレ無し」ですもん。此の曲ってさ、マーティンが約10年後にジェフと最録音したのが納得出来る位に、

「酷過ぎですっ!」

全く以て、天然莫迦ボンのポールは、何故にこんな「駄曲」を作り、他の三人もやる気なしで、無茶苦茶な演奏をし、ポール自身も「世紀の音痴」振りを遺憾なく発揮しまくった楽曲を平気で「シングルB面」として発表しやがったのでしょう?レコードになったのは「テイク6」ですが、全那奈テイクでやっつけちまったセッションの最終テイクである「那奈ちゃん」は、少しは彼らの「未発表音源」に興味を持った片なら、すぐに辿り着く「魔境」です。「那奈分」にも及ぶ「出鱈目な演奏とポール発狂!の絶唱」は、彼らが「1964年に既に到達していた」事実を教えてくれます。彼らは、間違いなく、意図的に「ラフな演奏」を試みています。A面「I FEEL FINE」同様、此のB面も「大いなる実験」でした。そして、此の楽曲で、ポールは「やってはイケナイこと」をやらかします。其れは、、、ハッキリ云いましょう。

「盗作」です。

此の楽曲には、瓜二つの「インスト」による「スマッシュ・ヒット」が存在します(JOHNNY AND THE HURRICANESの「Crossfire」、1959年、全米23位)。だから彼は翌年に「覚醒」した時、「此れは夢で聴いた旋律だから、もしかしたらパクリかもしれない。潜在盗用を、弟分のジョージよりも遥か前にやらかしてしまうかもしれないっ。イカン!みんなに聴いてもらおうっと。」となるわけよ。

そう、ポールには「前科」が、いっぱい在ったのよさ。

勿論、ジョンやジョージにも「元ネタ」は在ります。でもね、其れらは「云われなきゃ分んない」って類いなのですよ。つまり、其れは最早「盗作」では無いのです。されど、「天然・ポール」には「捻り」が無かった。だからこそ、彼は「スタンダード」を書けたのです。でも、大丈夫。彼が目覚める日は、もうすぐでした。ええ、たったの半年後には、彼が「THE BEATLES」を「ビートルズ」にしちゃうんだよ。「卵」は、もう、ポールの中に宿っていました。だからこそ、彼は「咆哮」しました。

「音楽よ、お前は俺の女だっ!」と絶叫したのです。

てかさ、ポールとリンゴって「音痴で女好き」なのよさ。「長生き」の秘訣だよね。「生き残り二人」に見習うべきは、其処だね☆


(小島藺子/姫川未亜)


初出:「COPY CONTROL」2008-10-23

(REMIX by 小島藺子)



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2009年05月21日

FAB4-056:NO REPLY

Beatles for Sale The Best of Tommy Quickly, Johnny Sandon, Gregory Phillips & the Remo Four Looking for the Light


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ケン・スコット(9/30)、マイク・ストーン(9/30、11/4)、A.B.リンカーン(10/16)
 録音:1964年9月30日(take 8)
 MONO MIX:1964年10月16日(2種制作、1種未使用)
 STEREO MIX:1964年11月4日

 1964年12月4日 アルバム発売(「BEATLES FOR SALE」 A-1)
 パーロフォン PMC 1240(モノ)、PCS 3062(ステレオ)


1964年のビートルズに、休息は有りませんでした。まるで現在の「片瀬那奈ちゃん」の如く、鬼神のような「ファンの為に全てを捧げる」芸術活動に邁進しました。EMI との契約は「年間アルバム二枚、シングル三枚」と云う「おいおい、アイドル歌手じゃあるまいし、、、」ってな過酷なモノだったのです。いや、彼らは「アイドル」でも在ったのです。ファンを大切にする彼らは、在ろう事か「シングル曲はアルバムには収録せず、アルバムからもシングル・カットはしない!」と云う縛りを自ら選択しました。彼らの英国でのオリジナル・アルバムは「PLEASE PLEASE ME(1963年)」から「LET IT BE(1970年)」まで、12作品です。其の中からサントラ盤で在る四枚を除くと8作品になります。なな、なんと、其の内、5作品が英国オリジナル・シングル曲を収録していません!其れは「WITH THE BEATLES(1963年)」「BEATLES FOR SALE(1964年)」「RUBBER SOUL(1965年)」「SGT, PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND(1967年)」「THE BEATLES(1968年)」です。地獄のスケジュールだった「1964年」の「BEATLES FOR SALE(ビートルズ大売り出し中!)」も、本国では完全なる新録盤として登場しました。

流石の「レノマカ」も、オリジナルだけで14曲を埋めるのは困難でした。其れで、前作「A HARD DAY'S NIGHT」で折角「全曲レノマカ」と云うより『レノン(10.5):マ(2.5)』と完璧なオリジナル作品を作ったのに、「オリジナル8曲、カヴァー6曲」へ戻ってしまいます。然し乍ら、ジャケットからして僅か半年後のビートルズは「全く別のバンド」へと変貌していました。此の疲れ切った表情の、何処が「アイドル」なのでしょう?特に大きく変わったのが、当時「絶対リーダー」だった「ジョン・レノン」でした。「A HARD DAY'S NIGHT」の録音や撮影、そしてツアー、ラジオ&TV出演など、「何やってんのかわかりましぇーん!」な、正に「A HARD DAY'S NIGHT」だった1964年に、彼らは全米制覇を成し遂げました。そして、2月に伝説の「エド・サリヴァン・ショー」への初出演を中心とした「米国初上陸」が敢行されます。其の時、在る男がケネディ空港で彼らを待っていたのです。

其の名は、「ボブ・ディラン」。

ビルボート首位に立った「I WANT TO HOLD YOUR HAND(抱きしめたい)」を、ディランは「空耳」しました。「I CAN'T HIDE」と盛り上がる部分を「I GET HIGH !」と聴き違えた彼は、彼らに「葉っぱ」を教えてしまいます。レノンは、強烈にディランから影響を受け、アメリカの全てから強烈過ぎる衝撃を受けました。そして作られたのが「BEATLES FOR SALE」です。其の一曲目に収められたのが此の楽曲でした。

イントロ無しで、いきなりジョンが歌い出します。其れは、最早「抱きしめたい」の彼では無かった。此れは、何かを悟ってしまった人間だけが書いて歌える作品です。「一歩先」を、レノンは確かに踏み出しました。当時、彼らの楽曲を管理していた「ディック・ジェイムス」が、わざわざジョンを呼び出し「君も成長したもんだ、此れは詩も曲も、ちゃんとまとまっているよ。こんなのを書いてくれたのは初めてだな、ま、今後とも此の路線で頼むぜ」と珍しく褒められたと、ジョン本人が語っています。と云うのも、実は此の楽曲は「うほっ!:ブライアン・エプスタイン」のお気に入り「トミー・クイックリー」への提供曲として書かれたのです。トミーは、ポールの駄曲「Tip Of My Tongue(1963年)」でデビューしますが、全く売れませんでした。1966年にはシーンから消えてしまいます。其処で、莫迦ポールとは違い「提供曲も手を抜かない漢:ジョニー」に書かせたのです。でもね、ジョニーは本気で書きました。其れで「こんなに好い曲なら、本隊(ビートルズ)でも録音しなきゃイカンだろ?」って事になっちゃったのよさ。哀れ也、トミー・クイックリー。本当に「早いトミー」でした。

アルバムのジャケットから示唆される「暗い内省的な世界」が展開されます。留守電に此の曲を使ったビーヲタは多いでしょう(あたくしもやりました)が、人気アイドル楽団の絶対的主導者で在ったレノンは「悲恋」を歌います。絶望的な恋の終わりを、彼女の浮気現場を目撃し、電話をしても出ても貰えないのに忘れられない自虐莫迦男の噺を語るのです。「人間失格」じゃん!此の世はレノン色に染まったのに、彼は「嘘だっ!」と叫んだのです。作者ジョン自身に寄れば、元ネタは、ザ・レイズによる1957年のヒット曲「シルエット」だそうです。後に、ハーマンズ・ハーミッツもカヴァーした名曲です。でも、ジョンがそうして自らネタバレをしてくれて、実際に其れを聴いても、「一体、何故、此の曲から『NO REPLY』が生まれるのだ?」って思うのよさ。其れは、ディランからの影響にも云えます。ジョン・レノンは、全てを咀嚼してしまいます。全部「レノン色」に染めてしまうので、最早「元ネタ」とは掛け離れた作品になってしまうのでした。だからこそ、彼は「カヴァーの天才」なのでしょう。

名曲です。シングルで出せば大ヒット間違い無し!です。されど、ジョンは「二度売りはしないぜ!」と頑なに拒みました。カッコいいナァ。でも、其の「レノンの意志」が尊重されたのは、残念ながら本国英国だけで、日本では堂々とシングル・カットされました。なな、ななな、なんと、我が日本では、英国では壱曲たりともシングル・カットされなかった「THE BEATLES FOR SALE」の全14曲中、驚くべき事に「五枚、10曲!!」がシングル化され発売されました。酷過ぎるぜ、東芝ちゃん!ま、本国や米国でも四曲入り「EP盤」で発売されたんですけどね。でも、其れは高価なLPを買えない子供の為に行った「ファン・サービス」なのです。

ハッキリ云って、我々日本人は「キャピトル守銭奴、氏ね!」なんて口が裂けても云えません。此の銀河系で最も多くのビートルズのレコードを乱発したのは、米国キャピトルでは無く、日本が誇った「東芝音楽工業」なのですよっ!!赤いレコードなんて、日本盤だけじゃん。海賊盤だって、ほとんどが「西新宿」製じゃんっ!!ぜいはあ、、、其れ故、其の後の展開では考えられない事ですが、当時のジョン・ウィンストン・レノンは日本のレコード会社を「何やってんだ?」と嫌っていたらしいです。


(小島藺子/姫川未亜)


初出:「COPY CONTROL」2008-12-1

(REMIX by 小島藺子)



posted by 栗 at 00:17| FAB4 | 更新情報をチェックする

2009年05月22日

FAB4-057:I'M A LOSER

Marianne Faithfull BeatlesBfS.jpg


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ロン・ベンダー(8/14)、トニー・クラーク(10/26)、マイク・ストーン(11/4)
 録音:1964年8月14日(take 8)
 MONO MIX:1964年8月14日(ラフ・ミックス)、10月26日
 STEREO MIX:1964年11月4日

 1964年12月4日 アルバム発売(「BEATLES FOR SALE」 A-2)
 パーロフォン PMC 1240(モノ)、PCS 3062(ステレオ)


一曲目の「NO REPLY」に続いて、ジョンの傑作が登場です。前曲の「NO REPLY」は「アンソロジー1」にも収録された「リハーサル・テイク」を聴くと、かなり明るい楽曲だった事が判明します。アレンジは其れ以前の「I WANT TO HOLD YOUR HAND(抱きしめたい)」の様なスタイルで、最後は大笑いして途中でヤメてしまうのでした。其れは、矢張り当初はトミー用に書いた提供曲だったからなのでしょう。テキトーなガイドとして録音されたのだと思います。所謂ひとつのブートでも、「NO REPLY」は其のテイクが有名です。しかし、最初から自分たちで演奏する楽曲として作られた「I'M A LOSER」は8テイクの全てを聴く事が可能です。其処には、真剣を持ったジョン・レノンが居ます。

続けざまに8テイクを録音するのですが、ジョンが殺気立っているのがハッキリと分ります。エンジニアに怒鳴り散らし、ジョージ・ハリスンに駄目出しをする「絶対支配者:ジョン・レノン様」が、音を聴いただけで目に浮かびます。ジョンはアコギをかき鳴らしハモニカを吹きながら、枯れた声で力強く歌います。明らかにボブ・ディランから影響を受けたスタイルなのですが、最早「ディラン」では無い「何か」になってしまいました。と云うのも、此の「BEATLES FOR SALE」と云う作品が、ディランだけでは無く「全米への敬愛」から作られたからです。サウンド的には、ディランと云うよりも「ロカビリー」です。ジョージのギターなんて、丸っきり、そうです。つまり、とても「チグハグ」なんです。全体的にカントリー&ウエスタンの風味も在る「BEATLES FOR SALE」ですが、当時「C&W」に精通していたのはリンゴ・スターだけでした。根っからの「カントリー好き」だったリンゴの貢献も大きいと云えるでしょう。「あっ。珍しく褒めちゃったよ!」

衝撃的なのは、当時人気絶頂の世界一のアイドル・バンドの絶対リーダーが書いたのが此れだったと云う事実です。ジョンは夢を叶え、世界制覇を成し遂げました。でも待っていたのは「勝利の美酒」ではなかった。「ほろ苦い虚しい薬」しか無かった。ジョン・レノンと云う「莫迦正直者」が正しかったのは、其の心境を楽曲にして全世界に配信した事です。此の世界観は、実は既に前作から始まっていました。父親への複雑な愛憎を歌った「I'LL BE BACK」で終わったソロ作品集「A HARD DAY'S NIGHT」の次作だった「BEATLES FOR SALE」の冒頭の二曲である「NO REPLY」と「I'M A LOSER」は、完全なる続編です。

「BEATLES FOR SALE」は、過密スケジュールゆえ、オリジナルは8曲しか用意出来ませんでした。其の内訳は、「ジョン:3」「ポール:3」「レノマカ:2」です。一見、遂に「レノマカ覚醒」と思わせる割合ですが、正直に云えば未だ「レノン=那奈ちゃん(7):マカ=みーちゃん(3)」位なのです。大体やね、ポールが此の時に単独で書いたのは「EVERY LITTLE THING」「WHAT YOU'RE DOING」だけじゃん。「EVERY LITTLE THING」はジョンが歌っているし、もう壱曲の「I'LL FOLLOW THE SUN」は五年前に書いた作品の焼き直しです。更には6曲収録されたカヴァー曲での主役も、当然ジョンです。1964年とは「THE BEATLES が世界制覇した年」では無く、「JOHN LENNON の時代」でした。

其の「世界の王者」が、「俺は負け犬」と歌ったのです。


(小島藺子/姫川未亜)


初出:「COPY CONTROL」2008-12-2

(REMIX by 小島藺子)



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2009年05月23日

FAB4-058:BABY'S IN BLACK

アストリット・キルヒヘア ビートルズが愛した女 Beatle Country


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ロン・ベンダー(8/11、14)、トニー・クラーク(10/26)、マイク・ストーン(11/4)
 録音:1964年8月11日(take 14)
 MONO MIX:1964年8月14日(ラフ・ミックス)、10月26日
 STEREO MIX:1964年11月4日

 1964年12月4日 アルバム発売(「BEATLES FOR SALE」 A-3)
 パーロフォン PMC 1240(モノ)、PCS 3062(ステレオ)


アルバム「BEATLES FOR SALE」は1964年8月11日に此の楽曲から録音が開始されました。正真正銘の「レノン・マッカートニー」作品です。ライヴでも御馴染みの、レノマカの「エバリー風二重唱」が存分に楽しめる曲を、ジョンとポールは過酷なツアーのホテルで書いたと云われております。絶対主導者:レノンは、ツアー中のホテルで相棒ポールとの二人部屋を要求し実行していました。世界中の憧れだったジョン・レノンと、ポール・マッカートニーだけが一緒だったのです。其の場所を得る為に、ポールは14才の時から努力を重ね、時には非情な手段まで使い、遂にはレノンに「俺と同室はポールだ。ジョージとリッチーは他の部屋にしろよな。」と云わせたのです。レノンの楽曲が二曲続き、此の「レノマカ」楽曲に繋がります。ワルツ風で、ポールによる高音のハモりが印象的ですが、おそらく詩はレノンでしょう。

「BABY'S IN BLACK」は、ビートルズのメムバーでジョンの親友であるスチュアート・サトクリフの婚約者アストリッド・キルヒヘアを歌った曲と云われています。スチュが夭折したショックから立ち直れないアストリッドを見て、ジョンは辛かったのでしょう。「自分が無理矢理スチュをバンドに入れなければ、もしかしたらスチュは21歳の若さで死ぬこともなく、芸術家夫婦としてアストリッドと幸せな人生を送れたのではないか?」と悔やんだのかもしれません。此の暗い世界観こそが当時のジョン・レノンでした。「NO REPLY」(アノコから返事がないから死にたい)、「I'M A LOSER」(俺は負け犬)と来て、トドメが此の「BABY'S IN BLACK」(アノコが喪服を着ている、どうしたらいいんだ?)です。世界制覇を成し遂げた楽団の王様:ジョン・レノンは「俺は裸の王様だ」と自ら宣言したのです。

暗く疲れ切った表情を晒したジャケットに象徴される様に、ビートルズは変わってしまいました。時間的な制約からカヴァーを6曲入れてお茶を濁したのだけど、オリジナル8曲だけを並べれば余りにも暗く落ち込んだ楽曲が連なっています。1964年のジョンは、悟ってしまったのです。「此れは嘘だ!」と「成功を手にして待っていたのは、絶望だった!」と、正直に吐露したのです。其れが遂に次作で「HELP !」と云う叫びになります。ジョン・レノンは真摯です。彼は生涯、真実を歌った。だからこそ、僕たちは彼が創った楽団を愛したのです。四時間にも及んだアルバム「BEATLES FOR SALE」セッションの初日は、結局、此の楽曲の14テイクに費やされました。しかも、完奏出来たのはたったの5回でした。其の原因は、追っかけジョージのリード・ギターがへっぽこだったからです。海賊盤で聴ける録音風景では、絶対王者ジョニーが「弟分ジョージ・ハリスンに駄目出しをする鉄拳制裁発言」が聴けます。其れを受けたジョージ・マーティンまでもが、ジョンに従うのです。ジョン・レノンは、最早「プロデューサー」でも在ったのでした。


(小島藺子)



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2009年05月24日

FAB4-059:ROCK AND ROLL MUSIC

Chuck Berry: The Autobiography ヘイル!ヘイル!ロックンロール(完全限定版 4枚組コレクターズ・エディション) [DVD] rms.gif


 w & m:CHUCK BERRY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ジェフ・エマリック(10/18)、トニー・クラーク(10/26)、マイク・ストーン(11/4)
 録音:1964年10月18日(take 1)
 MONO MIX:1964年10月26日
 STEREO MIX:1964年11月4日

 1964年12月4日 アルバム発売(「BEATLES FOR SALE」 A-4)
 パーロフォン PMC 1240(モノ)、PCS 3062(ステレオ)


1964年10月18日、ビートルズは追い詰められていました。8月11日に「BABY'S IN BLACK」で始まったセッションは、続いて8月14日の「I'M A LOSER」「MR. MOONLIGHT」、「LEAVE MY KITTEN ALONE」と、明らかに「ジョン・レノン劇場」として進みます。然し乍ら、1964年の彼等は余りにも多忙でした。次に彼等がアルバム録音を敢行出来たのは、9月末です。10月に入っても全英ツアーが始まり、最早オリジナルを中心とした新作をクリスマスまで間に合わせるのは不可能となります。既に、オリジナル楽曲は10曲が録音終了していましたが、半数は未だ未完成の状態でした。しかも例によって「I FEEL FINE」「SHE'S A WOMAN」はシングル化するのでアルバムには収録しない事になったのです。傑作カヴァー「LEAVE MY KITTEN ALONE」もボツになりました。時間が無い!!レノンは、決めた。「カヴァーだ、残りはカヴァーでやろう!」と。

そして、彼は「英雄:チャック・ベリー」の其の名も「ロケンロール音楽」を、正真正銘のスタジオ実演一発録りで決めました。此の日は後述しますが、ポールにもジョージにも基本的には一発録りをさせました。此のカヴァーは、ビートルズの四人にピアノ担当のマーティンを加えたの五人でライヴ録音されたのです。オーバー・ダビングなど全く無く、生演奏そのまんまが記録されました。オリジナルのチャック・ベリーを聴いた事が在るのなら、此のジョン・レノン主導による「1964年のビートルズ」のカヴァーが如何に凄いのかがお分かりでしょう。確かに、此の世界に「ロケンロール」を創造したのはチャック・ベリーです。3コードの其れを演れば、所詮はチャック・ベリーの模倣に過ぎません。チャック・ベリーこそが「ロケンロール」を発明した創始者です。だからこそ、レノンは後に「マイ・ヒーロー!」と紹介し、只のファンになってしまい、「お前の歌だぜ!」と云われて一緒に歌った「JOHNNY B GOOD」で涙目になってしまいました。

されど、レノンは間違いなく「英雄」を超えました。此の楽曲は多くのレノンによるカヴァー同様に「ビートルズのオリジナル作品」と思われている人も多く存在するでしょう。来日公演の一曲目も此れでした。「世紀の天才歌手:ジョン・レノン」の才気を見せ付ける美しい奇跡の名唱です。「BEATLES FOR SALE」は、奇妙な作品集になりました。オリジナルでは基本的には暗い内省的な「ジョン・レノン劇場」で在り、カヴァーでは溌剌としたみんなのアイドル「ジョニー」が居ます。何にせよ、ジョニーは絶対的な王者でした。最早、彼の類い稀なる声だけで音楽になってしまった。此の時代に多くのビートルマニアが熱狂したのは「ジョン・レノンの声」です。


(小島藺子/姫川未亜)



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2009年05月25日

FAB4-060:I'LL FOLLOW THE SUN

All You Need Is Covers Led Zeppelin Heartsounds


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ジェフ・エマリック(10/18)、ロン・ベンダー(10/21)、マイク・ストーン(11/4)
 録音:1964年10月18日(take 8)
 MONO MIX:1964年10月21日
 STEREO MIX:1964年11月4日

 1964年12月4日 アルバム発売(「BEATLES FOR SALE」 A-5)
 パーロフォン PMC 1240(モノ)、PCS 3062(ステレオ)


さて、ようやくポールの出番が来ました。名曲の誉れ高い「僕は那奈ちゃんを追う」こと「I'LL FOLLOW THE SUN」は、基本的にはポールの単独作品です。然し乍ら、此れは旧作の焼き直しだったのです。ポールが此の曲を書いたのは録音される五年も前で、彼が未だ16才だった頃の習作でした。でも、流石は後に「20世紀最大のメロディー・メイカー」と賞賛されるポール・マッカートニーです。若干16才で名曲を書きました。ボス:ジョニーも「好い曲じゃん!」と認め、無名時代から実演で演奏していました。されど、此のフォーク・バラードは、なかなか発表されなかった。データでお分かりの様に、此の曲は追い詰められた彼等が何とかしてアルバムを埋める為にカヴァーに逃げた「1964年10月18日」に録音されたました。つまり、ポールは旧作を引っぱり出して来たわけです。

「BEATLES FOR SALE」のセッション用にポールが書けた新曲は、シングルB面で発表された「SHE'S A WOMAN」(インスト曲「CROSS FIRE」の盗作です!)と「EVERY LITTLE THING」(ジョンがリード・ヴォーカルを担当!)と「WHAT YOU'RE DOING」(全曲カヴァーで最後に見つかった程の駄曲です!)の、たったの三曲でした。ジョンとの共作も二曲(「BABY'S IN BLACK」「EIGHT DAYS A WEEK」)在りますが、貢献度は未だ未だ低かった。ジョンにオンブに抱っこ状態での「レノマカ」でした。もたもたしていると、何やらチャッカリと「YOU KNOW WHAT TO DO」なんて曲を書いていたジョージ・ハリスン如きに負けてしまうかもしれない!との危機感もあったでしょう。

此の楽曲も、苦肉の策で録音されたと思われます。しかも、以前から演奏されていたポール作の其れとは明らかに違っています。其れは、レノンのハーモニーです。かつては「ポールによるダブルトラック」なんて出鱈目が罷り通っていた程に息の在った「レノマカ」の二重唱が、此の楽曲を光らせました。おそらく、ジョンが大いに手伝って完成版へ向ったのでしょう。そして、ジョージが奏でるギターも好いです。苦楽を共にした三人が10代から演奏して来た楽曲をほろ苦い20代前半にリメイクした佳曲です。何とも愛らしいのは、元々が10代の感性で書かれたからです。「明日は雨かもしれない、だから僕は太陽を追う」と云う「意味不明」な歌詞が逆に切ないのです。更に、既に大人になってしまった三人がリメイクした事で何とも云い難い「苦み」が加わりました。此の楽曲で「リンゴの立場は、在りません。(キッパリ!)」クオリーメン時代から一緒だった三人だからこそ出せた味です。美しい。傑作です。いえね、リンゴだってちゃんと参加してはいるんですよ。太鼓じゃなく、脚を叩いてます。ま、アンプラグドですからね。

さて、此の楽曲を当時カヴァーした三流歌手がいます。其の名は「Glyn Johns」。ええ、そうです。後の「ビートルズ物語」で重要な役割を果たしますし、Led Zeppelin なる集団のデビュー盤でエンジニアも務め、有名なプロデューサーへと成長して行く「グリン・ジョンズ」其の人です。凡庸な唄い手にすぎなかった彼ですが「太陽を追う志」は、本物でした。ビートルズに関わってしまった方々は、みんな何かを成し遂げて行く事になります。彼らにとっては、ビートルズこそが「太陽」でした。其れにしても、16才の少年が作ったとは思えない程に「暗い世界観」が描かれています。ジョンが用意した新曲ともリンクします。おそらく、此処で歌われる「太陽」とは、ポールの母親でしょう。ジョンとポールには、決定的な共通点が在りました。其れは、お互いに10代で母親と死別した事実です。其の二人が歌う「慕情」に、僕たちは感動するしか在りません。此れは「女性賛歌」です。「1964年の太陽」が「そうじゃないんだ、本当の太陽は、女の子さ」と歌ったのです。


(小島藺子/姫川未亜)



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