松本隆が作詞した作品は、軽く二千作を超えていますし、現在でも尚その数は増えつづけています。
コムビを組んだ作曲家も、「エイプリル・フール」や「はっぴいえんど」のメムバーに始まり、南佳孝、鈴木慶一、あがた森魚、財津和夫、矢沢永吉、吉田拓郎、井上陽水、加藤和彦、佐藤健、瀬尾一三、穂口雄右、馬飼野俊一、馬飼野康二、筒美京平、三木たかし、浜圭介、森田公一、平尾昌晃、川口真、都倉俊一、中村泰士、大野克夫、荒井由実、浜田省吾、原田真二、松任谷正隆、弾厚作、桑名正博、長渕剛、林哲司、タケカワユキヒデ、堀内孝雄、杉真理、濱田金吾などなど、もう止めときますがこのへんまでで、まだ1980年です。
これらの1970年代は、「元・はっぴいえんど」色が強く、茂やティンパン系への作詞が本道としてありましたが、一方、歌謡界でも、アグネス、太田裕美、岡田奈々、木之内みどり、中原理恵、などの作詞を継続して行っていました。そうした女性アイドルへの「統一感のある物語世界」が、後の「松田聖子」で開花します。
その時代の作詞界の巨匠は「阿久悠」でした。ジュリーとピンクレディーを同時にすべて書くひとだったのですからね。ですが、歌謡曲の権化の様な彼も、もともとはモップスの「朝まで待てない」を書いて頭角を現したし、「筒美京平」もGSへの提供曲から作曲家としてスタートしています。さらに、松本が歌謡曲に手を染めたアグネスの「ポケットいっぱいの秘密」を作曲した「穂口雄右」(キャンディーズの「春一番」は、作詞作曲編曲すべて彼の手による作品)は、あのカルトGS(元祖)「アウトキャスト」のキーボードを担当していたのです。
もっと言うなら、平尾先生だって元々はロカビリー歌手だったのだし、弾厚作こと若大将はビートルズとスキヤキを食べたひとなんですよ。都倉俊一や森田公一も、隙あらば自分でバンドをやってしまうわけで、つまり松本が小馬鹿にしながら進出した歌謡界には、実は同じ様な志を持った連中が、ちゃんと待っていたのです。
そんな先達との共同作業で人脈を作った松本が、「同年代の仲間」を引っ張り込むことを画策し、実行したのが1980年代でした。「松田聖子」と「近藤真彦」を同時に書くひとになった彼は、ついに天下を取ります。特に「松田聖子」プロジェクトは、作曲陣に大瀧、細野、財津、呉田(ユーミン)と畑違いとも思われていたお友達ばかりを投入しましたが、さらに重要な点は編曲もそのチームに委ねた点でしょう。
例えば、大瀧作曲の「風立ちぬ」を聴いた時の衝撃とは、その「多羅尾伴内」によるアレンジが(流石に本家「ロンバケ」の緻密さには劣るものの)それまでのアイドル歌謡の「編曲なるもの」をせせら笑うがごとき挑発的な音だったことです。あの曲が鳴り響いた瞬間に、日本語ロックと歌謡曲の狭間にあったはずの「何か」は、音もなく静かに、でも力強く雪崩れたのです。
さらに、松本と大瀧は翌1982年の「NIAGARA TRIANGLE vol.2」での大瀧サイドを、あろう事か「風立ちぬ」A面(所謂、大瀧サイド、当然、松田聖子歌唱)のアンサー・ソング集にしてしまったじゃないですか。
松本隆は歌謡曲を「はっぴいえんど色」に染め上げてしまったのでしょうか?
いや、そうぢゃないんだ。
「日本語でうたった瞬間に歌謡になる」という大瀧の言葉は、こうした実体験からしか出て来ないと思います。松本の挑戦で確かに歌謡曲は変化したのだけど、それは間違った道ではなかった。もしかしたら、本来あるべき方向へと進んだのかもしれません。結論から言えば、歌謡曲は日本語ロックを呑み込みました。松本隆は、もはや「日本語ロックの先駆者」ではなく「歌謡界の巨匠」なのです。
松本との究極のコラボ作である大瀧の(今でも)最新アルバム!!「EACH TIME」(1984年)の一曲目は「魔法の瞳」と言う饒舌な曲です。そのタイトルから、前年に松田聖子に提供した「瞳はダイアモンド」(作曲・呉田軽穂)へのセルフ・アンサー・ソングと思われます。
でも、その歌でふたたび「スキダヨ」を縦読みさせ、大瀧が「すすすきだだだ」とコーラスを加えるのは、聖子の次作「Rock'n Rouge」での「君がス・ス・スキだと 急にもつれないで 時は逃げないわ」へと、つづいているのです。懲りないなぁ。
そして、本当に「時は逃げない」と知ったのは、それから20年後の2004年に片瀬那奈が「Rock'n Rouge」をカヴァーした時でした。それが「歌謡曲」でも「日本語ロック」でも、もうなんでもかまわない。ただただ、彼の言葉は、今でも確かに生きていました。
(第2章、STOP,)
参考サイト(全作品リストは圧巻です)
松本隆 公式サイト「風待茶房」「夢みる歌謡曲」第2章:松本隆(2006-8-7〜9)
取材・文:未亜
語りまくり:イコ
(文中、敬称略)
初出「COPY CONTROL」 (小島藺子/姫川未亜)