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2006年06月24日

「夢みる歌謡曲」プロローグ

RELOADED~Perfect Singles+DVD~(DVD付)


やっと、ファットボーイ・スリムに辿り着いたよ。購入したものの、どうしてもポールやスティーヴィーを先に聴いてしまうわけだ。すると、そっちの方にドンドンと嵌っていって、なかなかぬけられませんナ。てか、ベスト盤だからね。全部聴いたことあるよ。

ファットボーイ・スリムのCDを購入したのは今回が初めてです。あたくしとしては「片瀬那奈ちゃんのおまけ」でしかないからね。これまでも、例えば、アンダーワールドとかサシャとか2manyDJ'sとか、この手の音源は全部「片瀬那奈ちゃんが聴いているから買って聴いてみた」わけだ。でも、収録されている曲は、ほとんど全部CDで持っていましたよ。それはどーゆーことかってぇと、サンプルのコンピ盤を「物欲を満たす為」に大量購入することが在るからです。それで、飛ばし聴きしなかった曲ばっかが入っていたので、とても便利だぞ。田中さんの解説も良かった、ま、(談)だけどさ。

ダンス・ミュージックは昔から「ひとを踊らせる為にだけ存在するのではない」ってことが、よ〜く分ったよ。きっと片瀬クンは、コレを聴いて何も考えないで踊っているのかもしれないけど、それはそれでいいのだ。理屈ぬきに気持ちがいいのが、幸せを呼ぶ音楽なのだろう。で、どうやったら売れるか?とかを超えた処にそれはいるな。もちろん売れた方がいいに決まってるんだけど、それだけじゃないって気にさせるのも音楽だ。

音楽を考えるのに意味なんてない。数式じゃないんだから、明確な結論も出ないじゃないか。そうかな?やっぱり、あたくしにとっての音楽は「解けるはずの謎」だよ。ファットボーイ・スリムが何処から来たのか位なら簡単に解けるけど、問題はそんなトコには無いのだ。そんなこんなで、田中知之氏の解説とミックスには「ドキッ!」としたよ。

さて、前置きが長くなったけど、「歌謡曲」について書こうと思うのだ。お待たせ致しますたーぶらすたー。これは「大変なテーマ」だよ。で、ファットボーイ・スリムもスティーヴィーもビートルズも、何もかんもを呑み込む世界なのだ。が、あまりにも枕でひっぱっちゃったので、今日はここまで。だって、これから「小早川妙子の恋」を観るんだもん、わかってぇっ!

「いいかげんだなぁ、ぼかぁ「コピコン」にいる時が、一番ええ加減なんだぞ」っと。


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子)



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2006年06月25日

「夢みる歌謡曲」第1章の1:
片瀬那奈「DJ : NANA」

TELEPATHY(初回)(CCCD)(DVD付)


片瀬那奈の第一期歌手時代の音源は「RELOADED〜Perfect Singles〜」と云うベスト盤CDで、其の全シングル曲を容易に聴くことが出来ます。嬉しいことに大傑作アルバム「TELEPATHY (CCCD)」と、ミニ・アルバム「EXTENDED (CCCD)」も絶賛発売中で(出来ればCDで再発して欲しいのですけど)、この三枚を入手すれば「歌手・片瀬那奈」が目指した世界がほぼ完全に音源的には検証可能です。是非、お買い求め下さいナ。

さて、片瀬那奈が行った歌手活動とは、一体なんだったのでしょう?シングル全曲を収めた「Reloaded(2005)」を聴くと、その多様な音楽性と揺るぎない大衆性に驚かされます。片瀬那奈の音楽は、一貫して歌謡曲であろうとしながら、明らかに洋楽志向であり、到底「女優の余技」を超えています。事実、彼女は女優を休業して音楽活動に専念したのですよ。

そこまで真摯な歌手時代の片瀬が、ライヴで歌うだけではなく「DJ : NANA」として自ら皿を回して居た事実は、永遠に語り継がれるべきです。当時、その意味を理解出来なかったとしても恥じることは全く在りません。彼女が進み過ぎていただけです。

コアな洋楽ヲタとしても(一部で)知られる片瀬那奈は、明らかに新たな音楽を作ろうとしていました。それが、カイリー・ミノーグの歌謡曲化から始まったのは伝統でもあり、ある意味盲点だったのです。現在でこそ一般的になった「カイリーの翻訳」を、あの時点でやったのだからね。これだけでも歌謡曲史上に残る快挙です。ちなみにカイリーの元ネタは、何度でも云いますけど、マドンナです。

問題は、それまで有り得なかった洋楽の歌謡曲化が「片瀬那奈」によって実現したことです。洋楽者からは当然「パクリだ」と揶揄されました(あたくしもそのひとりでした)けど、先駆者ってのはそんなもんです。兎に角、片瀬の冒険なしには、以後の「日本語ダンス・ミュージック」の歴史は違っていました。

そして、唯一のフルアルバム「TELEPATHY(2003)」で展開された世界観には、目眩がしそうです。この作品はコアなハウス好きな片にさえ注目されましたけど「甘いナ」って云われましたね。当然ですよ、ソコを狙ったんだもん。それが「歌謡曲」なんだもん。でも、「歌謡曲」としては行き過ぎていたんだよね。で、今聴くと全然普通なんだけどな。(ぼそっ)

そんな片瀬那奈が到達したのが「Extended(2004)」でした。このカバー・アルバムにこそ「歌謡曲の謎」が詰まっています。先行シングルとして発売された「ミ・アモーレ」を自らリミックスしてライヴ前に流した(他は全部洋楽)「DJ : NANA」に、あたくしは「歌謡曲の未来」を観ました。そして、それはその通りになったよ。

片瀬那奈が、ふたたび歌うなら、またきっとそんな魔法が生まれるのさ。(つづく)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子)



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「夢みる歌謡曲」第1章の2:
片瀬那奈「MY LIFE」

Babe(通常)  (CCCD)


片瀬那奈の歌手デビュー作「GALAXY / TELEPATHY / FANTASY(2002)」は、明らかなカイリー・ミノーグ日本語化路線であり、「GALAXY」に関しては北京語盤(「Dun Dun Dun」容祖兒)と英語盤(「Dangerous To Me」Ladybird)もほぼ同時に発売されました。それだけカイリーの「Can't Get You Out of My Head(2001)」は革命的なヒットチューンだったのです。

面白いのは同じ楽曲でありながら、片瀬那奈だけが「GALAXY」と「TELEPATHY」の二曲で「Can't Get You Out of My Head」の翻訳を試みている点です。「Dun Dun Dun」と「Dangerous To Me」は「GALAXY」と「TELEPATHY」を足した様な出来映えになっていて、これは「Can't Get You Out of My Head」から片瀬那奈の二曲へ発展してから再び統合された様な印象を受けます。

もう一曲の「FANTASY」は、アニメの主題歌であった為かよりポップな路線になりましたが、後にアルバムに収録される際にアレンジが一新されます。この楽曲は、ユーロビート時代のカイリーを彷彿とさせるもので、デビュー三曲がカイリーへのオマージュであるのは疑う余地はありません。リアルタイムで洋楽のキラーチューンを翻訳するのは、ヒッパレ時代からの歌謡曲の常套手法です。さらに「GALAXY」と「TELEPATHY」のリミックスを収録した5曲入りのシングルは、avexのお家芸とはいえ、もはやミニアルバムとすら言える体裁です。しかもピクチャーレーベル6種封入り。内3種の追加プレス「ウインターヴァージョン」は公式告知なしのレア・アイテムです。

つづくセカンド・シングル「Babe(2003)」は、タイトルトラックこそ再びカイリーの「Love at First Sight(2001,2002)」の「完全なるショートケーキ」ですが、カップリングの三曲「MY LIFE」「for you」「Babe(Huge remix)」では、ダンスミュージックへの果敢な挑戦が試みられていました。

「Babe(Huge remix)」は2003年6月夭折した天才サウンドクリエーターHugeによるリミックスで、片瀬那奈と同い年の彼による斬新なこの作品はライヴ時代の片瀬那奈がセットチェンジの際に頻繁に流した為「テバサキ5のテーマ曲」としても知られています。「MY LIFE」「for you」の作詞は片瀬那奈自身が担当し、そのアレンジははっきり言えば「古いハウス」です。特に「MY LIFE」はマドンナに例えるなら「Erotica(1992)」を連想させます。10年掛かって、やっと歌謡曲がマドンナに追いついたとも言えるでしょう。そして、このまるで「Deeper and Deeper」を翻訳した様な楽曲で地団駄する片瀬那奈に、あたくしは限りないシンパシーを感じるのでした。(つづく)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子)



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2006年06月26日

「夢みる歌謡曲」第1章の3:
片瀬那奈「Shine」

Shine/REVENGE~未来(あす)への誓い~(初回)(CCCD)(DVD付)


第二弾シングル「Babe(2003)」からは、ピクチャーレーベル3種封入りに加えて初回限定盤にはDVD(前シングル曲の編集プロモ映像とインタビューを収録)が付属された為、片瀬那奈の歌手活動は「やはりビジュアル重視で、モデル出身女優の片手間なお遊び」と捕えられたりもしましたが、前出の通り楽曲の質は高く、評価は上がって行きました。

そんな中、歌手デビュー決定時より封印していた「女優・片瀬那奈」が、少しの間復活します。第三弾シングル「Shine / REVENGE〜未来(あす)への誓い〜(2003)」収録の「Shine」が主題歌となったドラマ「こちら本池上署」の第二話(4/21放映)にゲスト出演したのです。

個人的な当時の正直な思いは「片瀬那奈は歌手なんかやってないで、さっさと女優に復帰しろっ!」でした。「確かに「GALAXY / TELEPATHY / FANTASY」も「Babe」も良く出来ていたけど、別に片瀬那奈がやらなくともええじゃん。てか、カイリー聴くって。思い出つくりにアルバム一枚出したら、女優復帰だねっ!いない間にアノコやコノコがどんどん出世してくじゃないかっ!!片瀬那奈が女優をつづけていたら、今頃もう主演してたはずなんだよ。」ってな感じでした。そんな時に束の間の女優復帰。ドラマを観て「やはり片瀬那奈は女優だ」と強く思ったものです。が、しかし、そこで流れた「Shine」との出逢いが「歌手・片瀬那奈・絶対肯定」へとあたくしを変えることとなります。

前二作とは違って、バラード二曲とそのカラオケを収録した一見普通のシングルには、片瀬那奈のライヴ参加券が付いていました。それは渋谷のタワーレコード限定だったので、シングル発売日前日に別の店で既に入手していたものの、発売日(5/28)に渋谷までまた買いに行きましたよ。「なるほど、ジャケットやピクチャーレーベルが色々出てるのはこのためか。」などと既にすっかりavexの販売戦略に騙されつつ、6月22日を待ちました。ちなみに「Shine」のストリングス・アレンジは、KANちゃん「50年後も」や森高千里、初期モー娘。などでも御馴染みの前嶋康明氏が担当。「REVENGE〜未来(あす)への誓い〜」は SMOOTH ACE の「SHINE」の歌詞タイトル違いのカヴァーで、同日発売。これは、もしかしたら「Shine」が何作か競作され、選ばれた二曲がカップリングされたのでは?とも考えられます。

何度も言って来たことですけど、また言います。突然目の前に現れて「Shine」を歌った片瀬那奈には、後光が射していました。それまでも片瀬に逢える機会は何度もあったのだけど、あたしは最初に観たのがこの時で良かったと思います。あたしが最初に目撃したのは「歌手・片瀬那奈」以外の何者でもなかった。その瞬間、あたしは「完全なる那奈ヲタ」へと変貌を遂げたのでした。「いつまで片瀬那奈の話がつづくんだよ?コレはONDOカテゴリで歌謡曲論を展開するってことじゃねーのかよっ!これじゃいつものNANAカテゴリの片瀬噺じゃん。」とお怒りの片へ。慌てない慌てない。てか、ココは「COPY CONTROL」です。すべては片瀬那奈なしでは始まりません。

結局、その後「YUMEKAYO」カテゴリを新設いたしました。(つづく)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子)



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2006年06月27日

「夢みる歌謡曲」第1章の4:
片瀬那奈「タイトル未定」

Necessary/EVERY***(初回限定盤)(CCCD)(DVD付)


現在の処、片瀬那奈唯一のフルアルバムである「TELEPATHY(2003)」は、歌手・片瀬那奈の金字塔となる傑作でした。それまでの三枚のシングルが何であったのか、そして片瀬那奈が目指す音楽とは何なのか、そのすべてが集約されたこの作品までの「一年余の期間(2002-4〜2003-7)」は、おそらく当初の予定通りに進められた綿密なプロダクションだったと思います。もし、片瀬那奈の音楽作品を一枚だけ選ぶとしたらCCCDと言うハンデこそあれ、迷わずこのアルバムを推します。捨て曲なしのそれぞれ独立した13トラックが、美しいトータル性を持って連なる流れにデビュー作で完成品を作ってしまった片瀬那奈の「強さ」と、それゆえの「不運」すら感じます。

ライヴ活動も軌道に乗り、アルバム発表後初となるシングルが9月に発売告知され、正に順風満帆に思えたのですが、このシングルが発売中止となったことから雲行きがおかしくなって行きます。結局10月に仕切り直しで発売された第四弾シングル「Necessary / EVERY***(2003)」は、当初の予告とは大きく違う作品となっていました。

9月10日に発売予定だった「タイトル未定」は、後に「Necessary」になるCMタイアップ曲に、カップリングとして初回盤には「他アーティストとのコラボレート作品」を、通常盤には「アルバム収録曲のリミックス音源」を収録すると公式発表されました。これぞ「TELEPATHY」以後を予感させるものとして計画されていたのは明らかです。しかし、実際に発売(10/16)されたシングルは、初回盤も通常盤も音源としては同じ新曲が入ったものでした。お得意のピクチャーレーベル3種も無く、その代わり(?)avexで5種のピンナップをシングル持参一枚につき1種ずつランダムに手渡しすると言う「前代未聞のキャンペーン」までやってしまいます。

しかも、延期したにも関わらずレコーディング時の片瀬那奈は「人生最大の風邪」をひいている状態。(その哀れな姿は、初回盤の付属DVDに収録されています。重病で鼻をすすりながら掠れた声でインタビューを受けるアイドルって、一体、、、。)楽曲は、片瀬那奈のシングルの中でもかなり上位に入る二曲です。「シングル最高傑作!」との声も多くありました。体調不良とはいえ、片瀬那奈のポテンシャルは揺るぎなかった。いや、でもね、DVDで悲惨な姿まで晒し、プロモも同作品映像をフルで収録すると言う「出血大サービス!」な展開(つまり、もう後がないっ!)には、一抹の不安を感ぜずにはおれない秋でした。(まだまだ、つづく)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子)



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「夢みる歌謡曲」第1章の5:
片瀬那奈「Past Masters」

GALAXY/TELEPATHY (CCCD)


さて、ここで片瀬那奈ちゃんの歌手デビューまでの流れをざっと振り返ってみましょう。片瀬那奈ちゃんの芸能界デビューは、1998年まで遡ります。

スカウトによってモデル業を中心とした事務所(インセント)に所属した小島那奈子は、本名でファッションモデルとしてほんの僅かな期間活動した後、「1999年度旭化成水着キャンペーンガール」のオーディションに合格し、自ら命名した「片瀬那奈」としての道を歩み始めました。お披露目は1998年10月5日、当時16歳の彼女は有名な「ハプニング」にも動じず、堂々のデビューを飾りました。(余談ですが、片瀬那奈が現在も所属する「インセント」には他に、同じく「研音」とマネジメント契約している「大女優!」伊東美咲さんと「インセント」の「大看板!」井上和香さんがいます。片瀬那奈はこの「インセント三人娘」では最年少ですが、芸歴は一番長いのです。ん?一番地味だって?そこがええんだよ。ぼそっ)

キャンギャルとして(そしてハプニングによって)世に出た片瀬那奈ですが、「ヤングサンデー」誌を中心にグラビア・アイドルとして活躍すると共に、翌1999年初頭からは「JJ」のモデルにも抜擢され最年少表紙モデルにもなっています。さらに3月には「未来の月9女優養成番組」と言われた「美少女H2」(第18話「最後のデート」)で主演、女優デビューも果たします。

その後の活躍は、御存知の通りです。女優としては、「GTOドラマスペシャル(CX)」の準主役を皮切りに、「天国のKiss(EX)」で連ドラ初出演、秋には早くも月9(「氷の世界(CX)」)にレギュラー出演し、翌2000年には「FLY(NHK)」で実質的な主演を果たします。CMでは若干19歳で「三代目きれいなおねえさん」にも抜擢され、お約束の「スキャンダル」も経験しました。

ココでのポイントは「片瀬那奈」と言うタレントの、デビュー時からの「全方位戦略」です。彼女は最初から、そのファン対象を絞れなかった。デビュー直後の「週刊プレイボーイ」誌(1998年 No.48 12/1日号、11月17日発売)で、「幅広く活躍して、女の子にも、男の子にも好かれる人になることが、今の課題!」と発言した片瀬那奈は「本気」だったのです。

片瀬那奈に歌手デビューのオファーが正式なカタチで舞い込んだのは、遅くとも2000年でしょう。既に本格的なグラビア初登場である「ヤングサンデー」誌(1998年 No.48 11/12号、10月29日発売)で、冗談半分ながら「歌手デビューに向けて歌のレッスンを毎日3時間もしてるの。」と発言していますが、より具体的になったのはドラマ出演が本格化した頃であろうと考えられます。2000年からの、片瀬那奈がレギュラー出演した連ドラで在京局制作の作品を追って見ましょう。「新宿暴走救急隊(NTV 2000)」「できちゃった結婚(CX 2001)」「プリティガール(TBS 2002)」、この流れを、その主題歌やサントラ盤を中心に考えると、自ずと「avex からの歌手デビュー」が、見えて来るでしょう。

満を持しての歌手デビューを前に、片瀬那奈サイドは大きな賭けに出ました。これは彼女のマネジメント契約が、2002年から完全に「研音」へ移ったことも影響していたのかもしれません。片瀬那奈は、長年お世話になった「ヤングサンデー」誌上(2002年 No.23 5/23号、5月9日発売)で「グラビア卒業宣言」と同時に「今年後半、みんなをあっと驚かせるかもよ?」なるメッセージを残し、「2001年のおとこ運」→「できちゃった結婚」→「プリティガール」で、せっかく真のメインキャストまでのし上がった女優業すら、あっさりと休止してしまいます。そこまでストイックな姿勢で望んだ「歌手・片瀬那奈」が、最初につまずいたのが、前回述べた「第四弾シングルの発売中止事件」だったのです。そして、そこから、片瀬那奈の歌手活動は怒濤の展開へと進むのでした。(もうすこし、つづく)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子)



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2006年06月28日

「夢みる歌謡曲」第1章の6:
片瀬那奈「777への迷走」

Necessary/EVERY***(CCCD)


アルバム「TELEPATHY」とそのイベントまでは「ほぼ完璧に進行していた」片瀬那奈プロジェクトが、何らかの事情によって「次なる展開に迷いがある」ことを露呈してしまった「発売中止事件」は、どんなに隠蔽しようとも、隠し切れない歴史的事実です。しかしながら、結果的に発売された「Necessary / EVERY***(2003)」と、立ち直り再び始動したライヴでの片瀬那奈は、いよいよ歌手街道を邁進する気まんまんであり、事実、歌手時代の片瀬那奈は休む間もなく「ファン」の前に立ちつづけました。

念願のソロ・ライヴ(2003年11月1日、日本工業大学での「NANA KATASE LIVE2003」)も達成した片瀬那奈は、次なる構想を着々と練っていました。それは、まず年末の「Supa☆Star」(12/22 @六本木ベルファーレ)で、唐突に発覚します。ベルファーレの各テーブルには「WEEKEND FEVER 777」のフライヤーが、無造作に置いて在りました。曰く「片瀬那奈と新たなパーティースタイルが全国を駆け巡る」、どうやら「冠イベント」を最低でも月一で開催するとの告知の様でした。当然、集まった那奈ヲタのボルテージは最高潮になり、あたくしなんか片瀬那奈ちゃんからのプレゼントを最初にゲットするわ、出待ちを始めるわ、エライこっちゃエライこっちゃ、になったもんです。

翌2004年初頭、片瀬那奈の新たなリリース情報が明らかになりました。それは、わずか一ヶ月半の期間に「シングル二枚とミニアルバム一枚」を発売すると言うものでした。但し、それはすべて「1980年代のアイドル歌謡のカヴァー」であるとも発表されたのです。「こーなったら、冠イベントで、ライヴと何か(念願の「DJ」だった)を、マンスリーでガンガンやってやるっ!」と「80年代アイドル・カヴァー路線での新譜リリース・ラッシュ」って「ふたつの情報」に、何かチグハグな印象を受けました。

片瀬那奈のそれまでの歌手活動は、確かに「トップ10」入りのヒットこそなかったもののシングル4枚とアルバム1枚は、すべて「トップ20」入りしたのです。これは充分に誇れる成績だと思うのですが、制作サイドは(セールス的に)もっと上を目指していたのでしょう。その結果、オリジナル路線ではなくカヴァーと言う選択だったのではないでしょうか。こうなると、前作のゴタゴタは、おそらく今後の方向性を模索しての結果だったと思えても来るのです。

しかし、当初の路線を推進する「777」と言うイベントと、カヴァー企画はある意味「相反するもの」でもあるわけです。果たして、片瀬那奈はどうするのか?(以下、やっと「第1章:最終回」へ、つづく)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子)



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2006年06月29日

「夢みる歌謡曲」第1章の那奈:
片瀬那奈「Extendedの彼方」

EXTENDED(初回)(CCCD)(DVD付)


2004年の片瀬那奈は、冠イベント「NANA KATASE WEEKEND FEVER777 Vol.1」(2/6 @ 六本木 Velfarre)で新たな試みをスタートしました。片瀬那奈の「ライヴ」と「DJ」が観れる画期的なイベントは、マンスリーで開催されるはずでした。Vol.1 では、発売に一ヶ月以上も先駆けて「ミ・アモーレ」が披露されましたが、その肌の露出の多い衣装に「片瀬那奈の本気度」が現れていました。自らブースに入っての「DJプレイ」も、ヲタには理解不能な展開だったかもしれませんが、彼女の音楽志向からは当然の流れでした。このイベントが半年くらい継続されていたなら「きっと何かが生まれていた」と、未だに悔やまれます。と言うのは、鳴りもの入りで始まったこのイベントが、たったの三回で終了を余儀なくされたからです。

イベントが不評だったわけではなく、運悪く常設会場として予定していた「六本木 Velfarre」の改装工事が3月下旬から始まったのです。カヴァー企画であるシングル「ミ・アモーレ」(3/10発売)「禁断のテレパシー」(3/31発売)、そしてミニアルバム「EXTENDED」(4/21発売)の連続リリースを前に、肝心の月一イベントが頓挫(結局、3/5と3/6の六本木〜名古屋での、Vol.2、Vol.3で打ち止め)すると言う「最悪なプロモーション展開」でした。

このシングル二枚は価格を下げた分、タイトル曲とそのリミックスとカラオケしか収録されず、名物の多種レーベルや初回特典盤などもない「那奈ヲタを舐めた仕様」でした。その結果、セールスは上向くどころか「トップ40」に入るのが精一杯と言う「何の為の方向転換だったんだっ!!」なトンデモ展開になります。カヴァーであっても、片瀬那奈の音楽性は充分に出ていたのですが、やはり今更カヴァーでは「ニーズ」がなかった。ファンは「TELEPATHY」で、既に目覚めてしまっていたのです。

ミニアルバムは、お得意の「3パターン・ピクチャーレーベル封入り初回限定DVD付き」と「ジャケット&ピクチャーレーベル違いの通常盤初回生産盤」で登場しました。この戦略は、以前「那奈ヲタの良心・アンテツあにい(既婚)」と話したことがありますけど、明らかに間違っています。3種でも300種でもいくらでも出すのは結構だけど、中味が分っていれば那奈ヲタは勿論、ソフトな片瀬那奈ファンですら確実に「全種を購入」します。音源もジャケットも同じで、単にピクチャーレーベルだけが違うものを集める為に「トレカもどき」の販売方法を取るのは、如何なものか?余談ですが、中古店やオークションで片瀬に限らずこうした商品の「肝心な部分」を売りにしないのは、全くもって戴けませんね。「中味はこのレーベルですよ」と明かせば、絶対に現状よりも売れます。何故、そんな単純なことを誰もやらんのだ?

そんなこんなで起死回生のカヴァー企画は、ミニアルバムも24位止まりと「ファン拡大」を狙った志とは正反対の結果となりました。冠イベントを失った片瀬那奈は、それでもライヴを続行しますが(そしてその完成度は高まっていったのですが)、夏を迎えて「月9での女優復帰」が発表されます。片瀬那奈の性格からいって「女優に還る」ということは「歌手を休止する」とイコールであるのは、長年彼女を追って来たヲタには「瞬時で理解出来る」ことでした。

2004年秋「ラストクリスマス」で女優復帰を果たした片瀬那奈は、翌2005年3月にシングル集「Reloaded」を発表し、歌手活動に区切りをつけます。片瀬那奈の歌手時代は新作リリースだけを対象にすれば、わずか1年半弱(2002-12〜2004-4)となりました。

しかし、2004年12月25日に、星村麻衣のライヴにゲスト出演し「Shine」をバンド演奏をバックに生で歌った片瀬那奈を、あたくしは観てしまった。現在のところ「歌手・片瀬那奈」は、あたくしにとって「Shine」と共に現れ、その曲の未来型を示してたトコで止まっているのです。さらに、2005年11月7日の誕生日に、ギターをプレゼントされ練習を開始したとの言葉を聴いてしまった。

きっと「夢のつづき」は、あるのでしょう。でも最初の夢は、第一期歌手時代の全活動期間を「2002-5(グラビア卒業宣言=歌手活動予告)〜2005-3(ベスト盤リリース)」と拡大解釈しても、あまりにも短かった。でも、だからこそ、その濃密で芳醇な記憶は決して消えない。ずっとずっと、あたくしは「歌手・片瀬那奈」を忘れないな。まだまだ、分らないことが多過ぎる。もっと考えなきゃダメだ。もっと、もっと、もっとだっ!そこからしか、音楽の謎は解けないってことだけは、やっとわかったんだよ。それに、ぼやぼやしてたら「片瀬那奈は音楽活動をまた公にしてしまう」よ。ちょっとまって、まだ振り返ることがあるんだ。あんまり急がないでくださいナ、ただ君の思うままにいてくれたらもうそれでいいんだ。さあ、歌謡曲の話をしよう。何故、この長い話が「片瀬那奈」から始まったのかは、きっとそのうち分るよ。

(第1章、STOP,)


【後記】『「夢みる歌謡曲」第1章:片瀬那奈』は、これにて終了です。長い間、御愛読してくださって感謝しております。本日までに終わらせなければならない「大人の事情」もありましたので、言葉足らずの部分も多々あったと思いますけど、今後の展開(第2章以降も、確実に近日公開します)に御期待戴ければ幸いです。最後にひとこと「イコちゃんの本音が読めるのはコピコンだけっ!!」、じゃ、またね☆


「夢みる歌謡曲」第1章:片瀬那奈(2006-6-25〜29)

 取材・文:未亜
 語りまくり:イコ

(文中、敬称略)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子/姫川未亜)



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2006年07月14日

「夢みる歌謡曲」番外篇

コリーヌ・ベイリー・レイ


ついに、コリーヌ・ベイリー・レイの日本盤が発売された。輸入盤もジャケットが変わってしまって、日本盤も新装版を使っているみたい。欲しい。たぶん、週末に買います。シングルも全部ほしい。同じ曲でも、ジャケットが違えば別の作品だ。同じ曲でも何度でも聴きたくなるから、レコードだったら擦り切れてしまって、また買ったりするんだ。

最近、「サザン」や「ミスチル」や「スピッツ」や「ケツメイシ」や、「ケンはケンでも飛来犬」や、ま、その他諸々の方々の新曲が J-WAVE でヘビロされてて聴いたのだけど、あたくしは「ラベンダーの香りに酔ってしまったのか?」としか思えないのです。

かつて近田さんは、桑田さんの「白い恋人たち」を「こんなに同じ曲ばかり書いて、彼は何がしたいのだろう?」と評したし、ピストンは「大人」のさわりだけ聴いて「林檎節だね」のひとことで片付けた。例えば、サザンの新曲はジョンのフレーズを使っているし、綺麗な曲だ。でもそれは、1978年の夏と全く違わない。はっきり言って「サザン」も「ミスチル」も「スピッツ」も「ケツメイシ」も、未発表ボツ音源でも発表したのか?と思ったぞ。

この世に「片瀬那奈」がウヨウヨしていたら、あたくしは一寸だけ嬉しいと思うかもしれないけど、やっぱそんな世界は意味がないって気付く。「LET IT BE」は、一曲しかないから、同じ曲をポールは延々と歌いつづけるんだ。彼は「LET IT BE 第13章」なんて曲は、絶対に書かないだろ?あの男こそが「ビートルズみたいな曲」なんて、いつなんどきでも書けるのにな。

どんな役をやっても同じに見えるコは「大根役者」と言われるし、作家だってマンネリじゃ廃業せにゃならんのよ。お笑いだったら、同じネタばっかやってたら誰も笑ってくれないでしょ。落語だって、いつも同じ噺をやってるわけじゃないんだぞ。音楽って、なんだ?ビートルズやスティーヴィーがやったのは、一体なんだったんだろう?

キヨシローは「君の知らないメロディー、聴いたことのないヒット曲」と歌い、「自分が聴いてないなら、何年前に出ていても新曲」と当たり前の様に言ってたっけ。つまり、アレだ。新曲は自分で見つけろってことだナ。うん。


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子)



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2006年08月07日

「夢みる歌謡曲」第2章の1:
松本隆「裏切り者のブルース」

風街図鑑 風編


松本隆氏は、元々・エイプリルフール、元・はっぴいえんどの太鼓叩きなのだけど、それよりも「ほとんどの作詞を担当していた」と言った方が、より分りやすいでしょう。

他の三人が解散後も「ミュージシャン」の道を選んだのに、彼だけは太鼓を叩くことを辞めてしまいました。1985年に「ALL TOGETHER NOW」で一夜限りの再結成をした時、なんと「1973年の解散ライヴ以来スティックを握った」と彼は告白しました。そして「すっかりドラミングなんて忘れていたので「C-C-B」の笠浩二くんにスティックを借り指導してもらった」と言う嘘の様なホントの噺を続けたのでした。

まず彼は、鈴木茂や南佳孝の作詞やプロデュースを担当することで、「はっぴいえんど」のつづきを展開しようと試みました。が、今でこそ評価されているそれらの作品は、当時はほとんど無視されたのです。そして、結局、彼は職業作詞家としての道を選択したのでした。そんないきさつで、彼は当初「歌謡曲」を小馬鹿にしていた様です。それは、歌謡曲へ進出したアグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」で、「アグネス」を縦読みで入れると言う「2ちゃんねらーの元祖」的な遊びをやったことでお分かり戴けるでしょう。それが『「この詩には曲をつけられないだろう」と作曲家の筒美京平に「木綿のハンカチーフ」の歌詞を持っていった所、あっさりと曲を付けられてしまいそれ以降作詞に没頭するようになる。』(『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)となるわけです。(流石、ドラゴン!!)

その後の歌謡界に於ける「作詞家・松本隆」の活躍と貢献は、単に「松田聖子」だけに限定しても大きすぎるでしょう。そして、当初は「裏切り者」とさえ言われた彼が、その仲間たちを歌謡曲へと引き込むことで、1980年前後から明らかに「歌謡曲」の世界が変化していくのです。それは簡単に言うなら、「はっぴいえんど」の逆襲でした。その頂点となる作品は、やはり、大瀧さんとの再会盤である1981年の「ロンバケ」だったのでしょう。そのアルバムがメガ・ヒットする世界に、当時のあたくしは歓喜すると同時に、何やら居心地の悪さも感じていました。

しかしながら、「ロンバケ」は、結局チャートの首位を取ることは出来ませんでした。何故なら、その時(その年のレコ大を文句なしに受賞した)寺尾聡さんの「ルビーの指環」を含む「Reflections 」が延々と首位に君臨していたからです。そして、そのアルバムのキラーリードチューンとなった「ルビーの指環」の作詞を担当したのは、他ならぬ「松本隆」だったのです。(つづく)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子/姫川未亜)



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2006年08月08日

「夢みる歌謡曲」第2章の2:
松本隆「君は天然色」

風街図鑑 街編


1981年は、作詞家「松本隆」にとって「我が世の春」がやって来た様な記念すべき年だったでしょう。「日本語ロック」の先駆者と当時から評価されていた「はっぴいえんど」の「言葉」を担っていた彼が「歌謡曲」へも進出したことは、当然、批判も受けました。かつての同志では「茂」だけは付き合ってくれていたけれど(そしてそれこそが「はっぴいえんど」とも言われたけれど)、「細野」「大瀧」の音楽面での核であったふたりは「脱・松本隆」路線へと転じました。

細野さんは、もともと「はっぴいえんど」時代から独自に作詞も担当しており、いや、よーするに「はっぴいえんど」とは「松本が作詞して大瀧が曲を書いて歌うバンド」だったわけで、その大瀧が解散後「NIAGARA MOON」の様な作品を発表したのですから、そりゃあもう、一大事だったのです。1978年には、細野さんがいよいよ「YMO」を始動させますが、そのインスト中心の音楽には、もはや「松本隆」の欠片も残っていなかった。そして、徹底的に歌モノにもこだわる大瀧も音頭路線まっしぐら!!

そんな時代に歌謡界には「ロック御三家」(Char、ツイスト、原田真二)が登場します。Charこと竹中尚人は、10代中頃からスタジオ・ミュージシャンとして活動を開始し、17歳でスモーキー・メディソンに参加、1976年(21歳)でソロ・デビューを果たしました。その彼が翌1977年に、阿久悠作詞の「気絶するほど悩ましい」で(確信犯的に)ブレイクしてしまったのです。同1977年にポプコン出身でデビューしたツイストが一緒にされた理由は、良く分かりません。吉田拓郎が発掘し1978年にアルバム・デビューした(シングル連続リリースは1977年)原田の作詞は(原田本人は未だガキのくせに大いに不満でダメ出しまでしたらしいけど)松本隆が担当しました。

同じく1978年にメジャー・デビューしたサザン・オールスターズも、歌謡曲と日本語ロックの境をなし崩しにしていきます。彼らのデビュー曲「勝手にシンドバッド」は、沢田研二「勝手にしやがれ」とピンク・レディー「渚のシンドバッド」(共に阿久悠が作詞)を合わせただけのふざけたタイトルで、曲はスティーヴィー・ワンダー「アナザー・スター」そのまんま(マイナー・コードをメジャーに替えただけじゃん、、、)、アルバムを聴いたらリトル・フィート「もろパク」(発売当時、あの泉谷しげるが指摘!!)とか、よーするに「洋楽のわけがわからない日本語?による替え歌」みたいな世界が展開されていたのです。(いや、コレは褒めているんですよ。)

ココに来て、日本語ロックは別のステージに向かっていました。つまり、例えば桑田さんには「ビートルズ」や「クラプトン」と同次元で「ザ・ピーナッツ」がいたわけです。それは、大瀧さんが「プレスリーと植木さんはおんなじ」と主張していたこととリンクしますが、残念ながら大瀧さんは「売れなかった」わけですナ。やっぱ、認知されなきゃ意味がないんだよ。

弟子である山下達郎が「RIDE ON TIME」でついにブレイクを果たした1980年、大瀧は「ロンバケ」を鬼の様にレコーディングしていました。1978年に前作「レッツ・オンド・アゲン」を完成させ(ちなみにそのアルバムには、第一期ナイアガラ最後の録音作でもある「河原の石川五右衛門」なる曲が収録予定だった)、沈黙期に入ったかに見えた大瀧は、1979年「カナリア諸島にて」の原型を書きあげ、次作の作詞を「旧友・松本隆」に依頼することを決意します。松本は「う〜ん、大瀧さん、でも音頭はイヤだよ」と答えたそうです。

「はっぴいえんど」の再会となったアルバムの一曲目は「君は天然色」と言う、複雑怪奇ながらポップな楽曲でした。ビートルズ風の効果音でのイントロから、ハニーカムズの「カラー・スライド」的な展開になり、さらにゲーリー・ルイスとプレーボーイズの「涙のクラウン」を下敷きにしたメロディーへとつづき、ロイ・ウッドそのまんまのフックを使いながら、根底にはキャロル・キングが流れ、しかも何故か間奏では「がんばれ!タブチくん」の主題歌(大瀧作曲)のフレーズが飛び出すと言う「ナイアガライズム炸裂」の曲に、松本は甘酸っぱい歌詞をつけました。余談ですが、後に「ちびまる子ちゃん」の主題歌として大瀧が書いて渡辺満里奈が歌った「うれしい予感」は、「君は天然色」のほぼ完全な焼き直しです。

そして「渚を滑るディンギーで手をふる君の小指から」と、大瀧が鼻歌まじりに歌うのが、同年に松本が初めて松田聖子に作詞する(以後延々とつづく序曲だったのだが)「白いパラソル」(作曲・財津和夫)を聴いて「風を切るディンギーでさらってもいいのよ」へと繋がっていると知るのです。(やっぱ、こいつは歌謡曲をおちょくってるんじゃまいか?)

1981年の松本隆は、「はっぴいえんど」の再会を果たし、元サベージの寺尾さんともコラボし、イモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」を本家・細野さんに作曲させ、マッチへ提供した「ギンギラギンにさりげなく」(筒美京平・作曲)ではタツロー、ミナコ、ターボーをバックコーラスで参加させ(その流れでタツローは翌年「ハイティーン・ブギ」を作編曲)、松田聖子のアルバム「風立ちぬ」に至っては「A面・大瀧サイド、B面・茂サイド」と言う暴挙にまで発展する(ちなみに挙げた楽曲及びアルバムは「ロンバケ」の2位止まり以外は全部チャート首位獲得)、まさに「イケイケ状態」なのでした。(つづく)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子/姫川未亜)



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2006年08月09日

「夢みる歌謡曲」第2章の3:
松本隆「それはぼくぢゃないよ」

新・風街図鑑


松本隆が作詞した作品は、軽く二千作を超えていますし、現在でも尚その数は増えつづけています。

コムビを組んだ作曲家も、「エイプリル・フール」や「はっぴいえんど」のメムバーに始まり、南佳孝、鈴木慶一、あがた森魚、財津和夫、矢沢永吉、吉田拓郎、井上陽水、加藤和彦、佐藤健、瀬尾一三、穂口雄右、馬飼野俊一、馬飼野康二、筒美京平、三木たかし、浜圭介、森田公一、平尾昌晃、川口真、都倉俊一、中村泰士、大野克夫、荒井由実、浜田省吾、原田真二、松任谷正隆、弾厚作、桑名正博、長渕剛、林哲司、タケカワユキヒデ、堀内孝雄、杉真理、濱田金吾などなど、もう止めときますがこのへんまでで、まだ1980年です。

これらの1970年代は、「元・はっぴいえんど」色が強く、茂やティンパン系への作詞が本道としてありましたが、一方、歌謡界でも、アグネス、太田裕美、岡田奈々、木之内みどり、中原理恵、などの作詞を継続して行っていました。そうした女性アイドルへの「統一感のある物語世界」が、後の「松田聖子」で開花します。

その時代の作詞界の巨匠は「阿久悠」でした。ジュリーとピンクレディーを同時にすべて書くひとだったのですからね。ですが、歌謡曲の権化の様な彼も、もともとはモップスの「朝まで待てない」を書いて頭角を現したし、「筒美京平」もGSへの提供曲から作曲家としてスタートしています。さらに、松本が歌謡曲に手を染めたアグネスの「ポケットいっぱいの秘密」を作曲した「穂口雄右」(キャンディーズの「春一番」は、作詞作曲編曲すべて彼の手による作品)は、あのカルトGS(元祖)「アウトキャスト」のキーボードを担当していたのです。

もっと言うなら、平尾先生だって元々はロカビリー歌手だったのだし、弾厚作こと若大将はビートルズとスキヤキを食べたひとなんですよ。都倉俊一や森田公一も、隙あらば自分でバンドをやってしまうわけで、つまり松本が小馬鹿にしながら進出した歌謡界には、実は同じ様な志を持った連中が、ちゃんと待っていたのです。

そんな先達との共同作業で人脈を作った松本が、「同年代の仲間」を引っ張り込むことを画策し、実行したのが1980年代でした。「松田聖子」と「近藤真彦」を同時に書くひとになった彼は、ついに天下を取ります。特に「松田聖子」プロジェクトは、作曲陣に大瀧、細野、財津、呉田(ユーミン)と畑違いとも思われていたお友達ばかりを投入しましたが、さらに重要な点は編曲もそのチームに委ねた点でしょう。

例えば、大瀧作曲の「風立ちぬ」を聴いた時の衝撃とは、その「多羅尾伴内」によるアレンジが(流石に本家「ロンバケ」の緻密さには劣るものの)それまでのアイドル歌謡の「編曲なるもの」をせせら笑うがごとき挑発的な音だったことです。あの曲が鳴り響いた瞬間に、日本語ロックと歌謡曲の狭間にあったはずの「何か」は、音もなく静かに、でも力強く雪崩れたのです。

さらに、松本と大瀧は翌1982年の「NIAGARA TRIANGLE vol.2」での大瀧サイドを、あろう事か「風立ちぬ」A面(所謂、大瀧サイド、当然、松田聖子歌唱)のアンサー・ソング集にしてしまったじゃないですか。

松本隆は歌謡曲を「はっぴいえんど色」に染め上げてしまったのでしょうか?

いや、そうぢゃないんだ。

「日本語でうたった瞬間に歌謡になる」という大瀧の言葉は、こうした実体験からしか出て来ないと思います。松本の挑戦で確かに歌謡曲は変化したのだけど、それは間違った道ではなかった。もしかしたら、本来あるべき方向へと進んだのかもしれません。結論から言えば、歌謡曲は日本語ロックを呑み込みました。松本隆は、もはや「日本語ロックの先駆者」ではなく「歌謡界の巨匠」なのです。

松本との究極のコラボ作である大瀧の(今でも)最新アルバム!!「EACH TIME」(1984年)の一曲目は「魔法の瞳」と言う饒舌な曲です。そのタイトルから、前年に松田聖子に提供した「瞳はダイアモンド」(作曲・呉田軽穂)へのセルフ・アンサー・ソングと思われます。

でも、その歌でふたたび「スキダヨ」を縦読みさせ、大瀧が「すすすきだだだ」とコーラスを加えるのは、聖子の次作「Rock'n Rouge」での「君がス・ス・スキだと 急にもつれないで 時は逃げないわ」へと、つづいているのです。懲りないなぁ。

そして、本当に「時は逃げない」と知ったのは、それから20年後の2004年に片瀬那奈が「Rock'n Rouge」をカヴァーした時でした。それが「歌謡曲」でも「日本語ロック」でも、もうなんでもかまわない。ただただ、彼の言葉は、今でも確かに生きていました。

(第2章、STOP,)


参考サイト(全作品リストは圧巻です)
松本隆 公式サイト「風待茶房」


「夢みる歌謡曲」第2章:松本隆(2006-8-7〜9)

 取材・文:未亜
 語りまくり:イコ

(文中、敬称略)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子/姫川未亜)



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2006年08月10日

「夢みる歌謡曲」第3章の1:
おニャン子クラブ「ス・キ・ふたりとも!」

BOMB presents「永遠の’80お宝アイドル大集合!」


さて、第3章ですよ。ココまで来て、そろそろこの「連載の構造」がお分かりになって来られた片もおられるでしょう。「夢みる歌謡曲」とは、片瀬那奈の「Extended」から「拡大」し「歌謡曲」を考察していく連載です。言わせて下さい「ざまあみろっ!」いや、誰にってわけじゃないんだけどサ☆

「そんな片瀬が到達したのが「Extended(2004)」でした。このカバー・アルバムにこそ「歌謡曲の謎」が詰まっています。」と「第1章の1」で結論づけているのですから、当然の展開なんだけどね。

「Extended」発表当時からあたくし同様、そのオリジナルをすべて聴き比較検証した片はおられたものの、その深層まで踏み込んだ文章に出逢うことはありませんでした。ならば「あたくしがやりましょう。」ってことですよ。それが「那奈ヲタ」クオリティ。

片瀬那奈の現時点での最後のシングル曲であり、カヴァー・アルバム「Extended」やシングル・ベスト盤「Reloaded(2005年)」にも収録された「禁断のテレパシー」は、工藤静香のデビュー曲(1987年)です。

彼女は「おニャン子クラブ」会員番号38番と、末期に加入したメムバーでした。そして「禁断のテレパシー」はあくまでもソロ・デビュー曲であり、彼女はそれまでに既に三回もレコード・デビューを果たしていたのでした。

「おニャン子クラブ」本体と三人組ユニット「うしろ髪ひかれ隊」のふたつは、「おニャン子クラブ」加入後のお仕事ですので「別にどーってことねーや」なのだけど、加入前に「セブンティーン・クラブ」と言う妖しげな三人組でシングルを二枚(「ス・キ・ふたりとも!」「バージン・クライシス」共に1985年)天下のCBSソニーから発表しているのです。このグループは、当時ほとんどオミットされた存在でしたが、現在では在籍した三人中ふたりが「超有名タレント」と「超有名プロ野球選手」の奥さんになったことでも有名になりました。

(ほとんど反則ギリギリの)工藤さんだけではなく、素人集団と言われた「おニャン子クラブ」とは、アイドル予備軍をかき集めて作られたセミプロ集団でした。例えば、国生さゆり(会員番号8番)は「ミス・セブンティーン・コンテスト」出身で、コンテストの同期には「歌唱賞」を受賞した「渡辺美里」がいます。10年後の1990年代中頃でさえ、椎名林檎が「ホリプロ・タレント・キャラバン」に出場したのですから(その時の優勝は上原さくら)、20年前に世に出る「きっかけ」なんて、もっともっと少なかっただけです。ついでに言っとくけど、片瀬那奈が「水着キャンギャル出身」であることを隠したり恥じたりしたことは、一度もありません。

それでも「おニャン子クラブ」の魅力とは「素人っぽさ」だったと言えるでしょう。当時トップ・アイドルのひとりだった中山美穂が番宣で「夕焼けニャンニャン」に出演したことがありましたが、誰の目にも明らかに「オーラ」が違いすぎたのを記憶して居ります。嗚呼、それなのに、「おニャン子クラブ」解散前のラストを飾った工藤静香の「禁断のテレパシー」は、なんと「おニャン子系71枚目」のシングル作品だったのです。1985年のデビューから、たったの二年あまりで71枚!!そのうち半数を軽く超える43枚がチャート首位になったのです。コレはいくらなんでも「ど素人がやれる芸当」ではありません。

秋元康の戦略や作詞の力も当然大きかったとは思いますが、ココではやはり、彼女たちの楽曲をもっとも多く作編曲した「後藤次利」の貢献に注目してみましょう。「元・サディスティック・ミカ・バンド〜サディスティックス」と云う経歴を持つ「天才ベーシスト」の彼は、ティンパン(細野、茂)のアルバムにも参加し、松本や大瀧とも当然ながら仕事をしています。そして、彼にベースを教えたのは「のっぽのサリー」こと「元・タイガースの岸部一徳」だそうです。

彼がやったのは、ジングルやCM曲の様な手法でした。「最も美味しいフレーズである「サビ」を、敢えて頭に持って来て強烈に印象付けて、わけもわからない侭にレコードを買わせてしまう」って言葉にすると詐欺みたいだけど、未だに彼が考案したその手法が有効なのだからなぁ。さらに言うなら、素人同然の歌唱のバックに「何故こんな贅沢なメムバーが揃っているんだ?」と思わせるに充分な「1980年代中期のアイドル歌謡」の頂点に君臨するのが「おニャン子クラブ」と言う「奇怪なプロジェクト」でした。(つづく)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子/姫川未亜)



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2006年08月11日

「夢みる歌謡曲」第3章の2:
おニャン子クラブ「西暦1985年」

工藤静香 ベスト


1981年の「白いパラソル」から、松田聖子プロジェクトのお抱え作詞家として君臨した松本隆は、1984年11月のシングル「ハートのイアリング」(作曲:Holland Rose こと佐野元春)を最後に、別の世界へと進みました。翌1985年1月発売の聖子の次作シングル「天使のウィンク」は尾崎亜美の作詞作曲による曲となります。その1985年度のレコード大賞を獲得するのは、中森明菜の「ミ・アモーレ」ですが、ま、それを語るのはもう少し後のことにしましょう。

「おニャン子クラブ」のデビューもこの年なのですが、その仕掛人であった「秋元康」は突然現れたわけではありません。作詞家以前には放送作家であったことも今では知られています。(ちなみに彼の放送作家としての師匠「奥山コーシン」は、青島幸男の弟子です。つまり、彼は青島の孫弟子なのです。)そして、おニャン子たちも「夕ニャン」で突然現れたわけではありません。当時「オールナイト・フジ」と言う女子大生をメインにした深夜番組が人気だったのですが、その「女子高校生版」なるものがプロトタイプとして制作されたのです。その時に「素人だけどハンパはしない」司会を担当したのが「国生さゆり」であり、当然ながら初期メムバーも素人女子高校生として出演したのでした。

このプロジェクトは、結局、その「制作段階からを詳らかにする」と言う点が「斬新だった」のだと思います。そして作品の質も、決してお粗末な代物ではなかった。この時代を経験した多感な少年少女が、その後おんなじ夢をみたいと思っても仕方がないくらいの幻想が「1985年」には、確かにありました。

1990年代末期に登場した「モーニング娘。」を中心とする「ハロー・プロジェクト」の表向きの顔であるプロデューサーの「つんく♂」が、そのモデルとして「おニャン子」を考えたなんてぇーのは、当たり前すぎる噺です。但し、たったの二年で散った「おニャン子」に対して、曲りなりにも十年近く存続している「モー娘。」では、もはや色んな意味で比較の対象にはなりません。もともと新たなるモノであった「おニャン子」と、多くの先達の上に存在するその後の「乙女塾」とか「桜っ子クラブ」とか「美少女H」とか、諸々のモンちゅーのは、志が違うのです。ま、嫌いじゃなかったし、寧ろ積極的に好意をもたざるえないのだけどネ。

さてさて、この年初頭に、何故か「卒業」と言う同名異曲がほとんど同時にヒットしています。それは、「カリスマ」尾崎豊(自作)、「あなたはマイナーだから」斉藤由貴(作詞:松本隆)、「ラ・ムー」菊池桃子(作詞:秋元康)によるものでした。この符号に「何かを感ぜずにはおれない」片は、是非、今後とも「夢みる歌謡曲」を、何卒よろしくお願い致します。

(第3章、STOP,)

「ん?短いって?おいおい、この章はハナからネタだぞ。まあまあ、あわてないあわてない、全構想は出来上がっておりますので、のんびりやらせてくださいナ☆」


「夢みる歌謡曲」第3章:おニャン子クラブ(2006-8-10〜11)

 取材・文:未亜
 語りまくり:イコ

(文中、敬称略)


☆予告☆
次章は、「小美人と三人娘」(仮)と言うタイトルで、じっくりイコーと、予定して居ります。お楽しみにネ(はーと


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子/姫川未亜)



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2006年08月12日

「夢みる歌謡曲」INDEX 予告篇

TELEPATHY (CCCD)


ええ加減なイコちゃんのことゆえ、予定は未定ですが、大体はこんな感じでイコー!!と構想しておるのですますまんねん。


#00.「プロローグ」

#01.「片瀬那奈」(全那奈回)→ 結論としての序章

#02.「松本隆」(全3回)→ 04. Rock'n Rouge

#03.「おニャン子クラブ」(全2回)→ 06. 禁断のテレパシー

#04.「小美人と三人娘(仮)」(じっくり)→ 02. 淋しい熱帯魚 & 05. C-Girl

#05.「慈愛の記号(仮)」(まったり)→ 07. 木枯しに抱かれて

#06.「月の女(仮)」(プログレの戦慄で)→ 01. ミ・アモーレ & 03. TANGO NOIR

#07.「片瀬那奈、ふたたび(仮)」(全那奈回)→ ココが書きたくてやってます。

# ∞.「エピローグ」


さて、どーなることやら。


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子)



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2006年08月13日

「片瀬はカエルぢゃないよ、楓だよ☆」

風街クロニクル~another side of happy end~


帰京する新幹線の車中で、今月号の「レココレ」を後ろから読んでいたら「FROM LIVERPOOL TO TOKYO 2」のレビューが載っていましたよ。

おいおい、いつの間にか勝手に発売しないで下さいナ。今回のジャケットは「オールディーズ」のパロディになってるのね。コレだけは入手しなきゃイカン!!と東京までの切符を買ったのに上野で途中下車し、秋葉原のタワレコへ行きますたよ。

ところが、置いてないんだよねぇ。挙げ句に「片瀬那奈」コーナーすらないんだよ。はっきり言いますよ。

「タワレコは、もうダメだな。」

それでもわざわざ行ったのだからと、「GSグレイテスト・ヒッツIII」「風街クロニクル〜another side of happy end〜」「Back to Basics」と、二枚組ばっか買ってしまったじゃまいか。

で、この無茶苦茶なセレクトに思える3セットを繋ぐのが「夢みる歌謡曲」なんですね。で、それは「片瀬那奈」とも言うわけだ。もういちど、言っとこうカナ。

「タワレコは、もうダメだな。」

あ、でも、愛撫ちゃんではお世話になりますので、そこんとこだけはよろしくネ★


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子)



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2006年09月24日

「夢みる歌謡曲」第4章の1:
小美人と三人娘「恋のキラキラ星」

アルティメイト・コレクション


片瀬那奈の「Extended(2004)」は、全那奈曲の1980年代女性アイドル・カヴァーで構成されています。中森明菜の楽曲が2曲選ばれていますので、カヴァーの対象となったのは6組です。(「何故、中森明菜だけ2曲なのか?」に関しては、後に詳しく述べます。)その6組とは「松田聖子」「中森明菜」「小泉今日子」「浅香唯」「工藤静香」「WINK」であり、何れも確かに1980年代を代表するアイドルではあります。

しかしながら、前者「聖子」「明菜」「キョンキョン」が、「間違いなく彼女たちでなければならなかった」のとは違い、「浅香」「工藤」「WINK」は「別に彼女たちでなくともよかった」と、あたくしは断言します。

ゆえに「聖子(第2章)」「明菜(第6章)」「キョンキョン(第5章)」と、それぞれの章でじっくり語らなければならないのですが、他の3組に関しては個人というよりも「ソレが代表するモノ」についてのお話になります。前章で述べた様に「工藤静香」とは「おニャン子クラブ」を象徴する為の選出です。ですから、別に「国生さゆり」でも「渡辺美奈代」でも「渡辺満里奈」でも、誰でも良かったのです。(流石に「山本スーザン久美子」では困りますけどね。)

事実、片瀬本人は「禁断のテレパシー」を「カヴァーするまで知らなかった」と語っています。ミニアルバムからの先行第二弾シングルでもあった楽曲ですが、ライヴでは歌う度に歌詞を間違えたり絶句したりしていました。(しかし、何故か、うたは流れていた。)そして、この第二弾シングルが当初一部メディアで「赤道小町 ドキッ」と告知されていた事実からも、選曲への迷いが伺えます。制作サイドには、全那奈曲で「何か」を伝えたい明確な意図があったと思われます。それが如実に現れたのが実は「浅香」「工藤」「WINK」のセレクトだと、あたくしは深読みしています。

繰り返しますが、工藤はあくまでも「おニャン子」と言う「集合体」を現しています。そして「WINK」は二人組の代表であるのは明白です。(WINKをカヴァーするのは、片瀬の意見が通ったと言われています。)さらに「浅香」は「風間三姉妹」のトップとして頭角を現したのですから、三人組の象徴として選出されているのではないでしょうか。

「聖子」「明菜」「キョンキョン」と誰もが認める重要アイドルを核とし、それらの楽曲に関わった作者陣をも巻き込むことで前史までもを示唆出来るのですが、そこに「二人組」「三人組」「集合体」という「ユニット」を加えることで、たった6組那奈曲の世界が「大いなる歌謡曲史」へと、正に「拡大」しえるのです。

「そんな片瀬が到達したのが「Extended(2004)」でした。このカバー・アルバムにこそ「歌謡曲の謎」が詰まっています。」(「第1章の1」より)との結論に、一点の曇りもありません。

前置きが長くなりましたね。てなわけで、この第4章では「浅香唯」と「WINK」が象徴する「ふたり」と「三人娘」について、じっくりと語らせて戴きますので、そこんとこ、ヨロシク☆(つづく)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子/姫川未亜)



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2006年09月25日

「夢みる歌謡曲」第4章の2:
小美人と三人娘「恋のバカンス」

THE PEANUTS “THE BEST 50-50”


6組那奈曲の選曲には、それを歌ったアイドルばかりではなく、楽曲を制作したスタッフにも大きな意味があると夢想させてくれるのが、片瀬那奈「Extended(2004)」の魅力のひとつです。

これまでに述べた通り、松田聖子を通して「松本隆プロジェクト」を想起させ(「赤道小町 ドキッ」が外されたのは、同じ松本作詞作品であったこともあるのかもしれません)、工藤静香からは「おニャン子クラブ(秋元康&後藤次利)」へと誘う道が見えていました。

この章で取り上げる 02. 「淋しい熱帯魚」 と 05. 「C-Girl」も、それぞれが「及川眠子/尾関昌也」「森雪之丞/NOBODY」と興味深い布陣による作品です。また、「Extended」のアレンジャーには Shinichiro Hirata、CMJK、Nao Tanaka とクラブシーンで著名なDJを起用していますが、オリジナルのアレンジャーにも目を向けると、この二作はそれぞれ「船山基紀」と「井上鑑」によるものであったことが分ります。

作家陣の豪華さは、「Extended」に選曲された那奈曲中の6曲ものオリジナル作品が、当時オリコン・シングル・チャートで首位を獲得したと言う事実からも説明がつくことです。(たった一曲だけが首位を取っていないのですが、それは「Extended」にどうしても必要な楽曲です。この件は、第5章にて語ります。)当時を知る片なら、誰もが知っている曲ばかりを選びながら、同じ作家によるものは選んではいない理由が、単なる「バランス感覚」では説明不足となるでしょう。

「淋しい熱帯魚」を作詞した及川眠子さんは、「片瀬」と(同時期にカヴァーした懐かしの)「W」による二作を聴いて「アレンジが酷い。船山基紀は偉大だ。」と一刀両断しました。そんなにご立腹されなくとも、オリジナルを凌駕するカヴァーなど在りはしないんですけどね。

WINKをカヴァーしたのは、前述の通りに「片瀬那奈」の意志が大きかったと言われています。そして、「工藤」や「浅香」が例え「集合体」や「三人娘」のアイコンであったとしても、それぞれの楽曲は(その他と同様)ソロであるのに対して、「淋しい熱帯魚」だけはオリジナルが二重唱なのです。それに対して「誰かをゲストに迎える」のではなく「ひとりで二重唱する」方法を選んでいるのがポイントですね。

「Extended」発表時に、多くの那奈ヲタは「那奈色の声」と、その多彩なヴォーカルを讃えました。一方、「モノマネ」した「カラオケ・カヴァー集」と揶揄する声もありました。しかしながら、片瀬がやったのは「大いなる道への招待状」と捉えるなら、見当違いな批判など口に出せないはずなのです。大体「そんなこと言って、誰がハッピーになるんだよ?」

初めて楽曲に出逢った片には「過去の遺産への道」を開き、オリジナルを知る片には「甘酸っぱい記憶」と共に「2004年の音世界」をも魅せてくれるのが「Extended」です。何より、それを歌うのが「片瀬那奈」なのですから、こんな「夢みるアルバム」は唯一無二なんでございます。

なかなか「小美人と三人娘」の噺になりませんナァ。ま、予告通りに「じっくり」イコー☆(つづく)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子/姫川未亜)



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2006年09月26日

「夢みる歌謡曲」第4章の3:
小美人と三人娘「恋のあやつり人形」

GOLDEN☆BEST/キャンディーズ


なかなか本題に入らない様で「サブタイトルで何かを語っていたりする」のが、分り易いイコちゃん流です。「二人組」と「三人組」は、洋の東西を問わず、アイドル・ユニットの基本型と言えるでしょう。例えば、日本での芸能プロダクション・システムを確立した「渡辺プロダクション(ナベプロ)」にも、その初期から「ザ・ピーナッツ」と「ナベプロ三人娘」が在籍していました。後のキャンディーズもナベプロです。

元々キャンディーズは、スクールメイツから抜擢された三人によるユニットでした。(同期にはアン・ルイスや太田裕美がいますが、間違って彼女らがキャンディーズになっていたら、それはそれで面白い展開だったかもしれません。)ドリフターズの人気番組にマスコット的な存在で登場した彼女たちは、当初それほど人気があったわけではありません。というよりも、さっぱり売れてなかったです。人気が出たのは、センターがスーちゃんからランちゃんに変更された「年下の男の子」からでした。

三人娘での人気者の登場に、対抗したのは「ふたり組」の「ピンクレディー」です。「スター誕生」出身のこのモンスター・チームは、社会現象とも言える大ブームを巻き起こしました。後の「おニャン子クラブ」では、贅沢にも組織内に「うしろゆびさされ組」「うしろ髪ひかれ隊」とふたりも三人も内包したうえ、「ニャンギラス」といった四人組までもヒットさせます。もう「なんでもあり」でした。それは、その後の多団体アイドルの雛形となり現在にまで至るのです。個人的には、おニャン子のメムバーがソロで歌う際に、サブでふたりがバックコーラスにつくカタチが「きゅんっ!」と来ましたね。ま、そのスタイルこそが「キャンディーズ」なのですが。

さてさて、キャンディーズがそうであった様に、デビューしてすぐには人気が出なかったアイドルもいます。そして1980年代で、その代表格と言えば「浅香唯」でしょう。彼女はその芸名が示す通り「ザ・スカウト・オーディション'84」で「浅香唯・賞」を受賞し、1985年6月に鳴り物入りで華々しく「夏少女」と言う曲でデビューします。が。「白豚ガエルと言われ、鳴かず飛ばず(トットちゃん・談)」の状況がつづきました。このデビュー曲はオリコン・チャートの100位以内にすらランクインせず、つづく「ふたりの Moon River」「ヤッパシ・・・H!」(怪作!!)「コンプレックス BANZAI!!」(やけくそか?)と圏外を彷徨い「10月のクリスマス」(もう滅茶苦茶)も88位止まりと、5作つづけて撃沈しました。

しかし、ここで奇跡が起こります。三代目スケバン刑事の襲名が決まったのです。「STAR」9位、「瞳にストーム」4位と狂い咲きし、8作目の「虹の Dreamer」でついにオリコン・チャート首位を獲得しました。デビューから、すでに二年以上経っての快挙であり、「デビュー曲がランクインせずに後に首位にまで登り詰めた唯一のアイドル」と言われています。

勢いは止まらず「風間三姉妹(大西結花、中村由真とのユニット)」名儀の「Remember」も首位をゲット!自身の9作目「Belive Again」も2位と、乗りまくった時期に記念すべき10作目のシングルとして(1988年カネボウ夏イメージソング)「C-Girl」が発売されました。その後も「セシル」など好調でしたし映画「YAWARA!」の主演もつとめますが、彼女のピークは「C-Girl」でしょう。個人的には末期の「恋のロックンロールサーカス」という、神をも恐れぬタイトルにもシビレました。

浅香唯は確かに「いちオクターブも出ない」音域しかない大根足のちっちゃなアイドルでした。でも、後に本人がセルフカヴァーした「C-Girl」には、例え技巧が上回っていても大切な「輝き」が消えていたのです。あたくしは(もうお分かりでしょうけど)「C-Girl」の亜紀ちゃんが大好きでした。だからこそ、片瀬那奈によって蘇った楽曲の輝きが本当に嬉しかったのです。(つづく)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子/姫川未亜)



posted by 栗 at 03:59| YUMEKAYO | 更新情報をチェックする

2006年09月27日

「夢みる歌謡曲」第4章の4:
小美人と三人娘「恋のインディアン人形」

リンリン・ランラン GOLDEN☆BEST


この章では「浅香唯」個人のことは書かないと言いながら、しっかり(誰も憶えてなくて知りたくもない)初期シングル履歴まで滔々と語ってしまったわけですが、ついでなので「別記事にしよー」と思っていた「時事ネタ」もココに加えて置きますね。

「週刊ファイト」紙が、現在発売中の1990号をもって、休刊しました。通巻2000号目前での撤退に、スタッフも長年の愛読者も、忸怩たる思いでしょう。あたくしも、四半世紀愛読して来た専門紙の休刊を、ただただ悼みます。この件で、あたくしのプロレスに対する興味は、完全に断ち切られたかもしれません。まだ休刊号を手にしたばかりで、何とも言えないのですけど、おそらく休刊の一因ともなった「ネット」でしか情報を得ない様になってしまうのでしょう。プロレス専門誌紙の歴史は、終わりました。あたくしには「大きな影響を受けた方々や紙媒体が志し半ばで散っていった」ことに対して、自分なりの礼儀を示したいとの想いがありますので、こんな駄文を書き散らしているのです。

ネット上でこうしたことをやらなければと、大袈裟に言えば「決意した」のは、同世代の「ナンシー関」さんが逝ってしまった時でした。「これから、あたくしは一体誰に『大食い』や『女子プロレスラー候補』の話をきけばええんだ?」と、途方に暮れたものです。愛読していた誌紙も「投稿写真」「噂の眞相」につづき、ついに「ファイト」までが消えました。嗚呼、なんてこった。残るは「BUBKA」だけかよ。と。哀しんでばかりいても仕方ないので、今日もあたくしは「コピコン」を書くのです。あたくしのモチベーションなんて、それ以外では「片瀬那奈ちゃん」しかありません。「底が丸見えの底なし沼( I 編集長語録)」になれればええな、と日々是れ呑んだくれているだけです。

さて、「C-GIRL」と「淋しい熱帯魚」の噺へもどりましょう。「C-GIRL」を作詞した森雪之丞さんは、公式サイトを御覧になって戴けば、なんとなく如何なる片なのかがお分かりになるでしょう。歌謡曲、アイドル・ポップス、日本語ロック、J-POP など何でもええのだけど、彼の様な作詞家の存在を中心にして見渡せば(それは松本隆にも共通するのですが)「全部おんなじじゃん」ってことになってしまいます。大分前にあたくしが、暴威の「イラネNY」を聴きながら「C-GIRL」を重ねて歌っちゃって「おんなじじゃん」ってな「バカ話」を書いたのは、こーゆーことです。

作曲した「NOBODY」(相沢行夫&木原敏雄)は、元「ヤマト」で、強制的に初期「キャロル」にも在籍させられ、後のソロ・ファミリーにも付き合わされた「永ちゃんの古くからのダチ」でした。最近ドラマ主題歌に使用されたアン・ルイスの「六本木心中」や、それをエロティックに共演した「漢の中の漢」吉川晃司さん(今週ずっとJ-WAVEでのお話を聴いてますよ、相変わらずええ男っぷりだナァ)の初期大ヒット曲の数々(「モニカ」「ユー・ガッタ・チャンス」などなど)は、彼らの作品です。さらに言うなら、片瀬那奈の実質的な初主演ドラマとも言える「FLY」で名目上の主演(失礼)だった大友さん(=ハウンド・ドッグ)がブレイクした「浮気な、パレット・キャット」で作家として世に出たのが彼らだったのです。

これは大変なことになってしまいましたね。「C-GIRL」を探るだけで、どれだけの金脈があるのでしょう?あたくしは、そのすべてを「例え上辺だけでも知ったうえでの批判」なら、堂々と受けて立ちますよ。でもね、あたくしが言いたいのは、正に「その深層まで探ろう」ってことなわけでして、「例え上辺だけでも知った」片は、もはや「同志」なんですよ。喧嘩になりません。

「淋しい熱帯魚」を片瀬那奈自身がカヴァーしたいと熱望した件も、掘り下げて行くと「無意識の理論武装」になってしまいます。WINK がブレイクした初オリコン首位曲を憶えていますか?それは「愛が止まらない」と言うカヴァー曲でした。日本語詞は及川眠子さんで、編曲は船山基紀さんです。そうです、その通りです。作曲以外はおんなじスタッフによって制作された「淋しい熱帯魚」(1989年度「日本レコード大賞」受賞曲)は、そのまんま、ユーロビートへの歌謡曲からの「ファンレター」です。(ちなみに「日本レコード大賞」は、作家陣が全員日本人でなければ対象外になります。)そのオリジナルを歌ったのは誰でしょう?はい、まだ初々しかった「カイリー・ミノーグ」ですね。

片瀬那奈は歌手デビュー当時の戦略で「和製カイリー」と呼ばれましたが、当然「上辺しか見えない世間(それが〜世間というものだ〜♪)」からは「パクリ」のひとことで大いに侮辱されましたよ。21世紀モードで復活した「エレクトリック・カイリー」の模倣とも取れる方法で歌手活動をスタートした「片瀬那奈」が、そのルーツまでもを詳らかにして魅せたのが「淋しい熱帯魚」なのです。そんなことはお首にも出さず、「ちっちゃい頃から歌っていたから、どうしてもカヴァーしたかった」と、片瀬那奈は笑って言いました。うん、それでいい。那奈ちゃんは、粋でカッコイイぞ。(つづく)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子/姫川未亜)



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