さて、ここで片瀬那奈ちゃんの歌手デビューまでの流れをざっと振り返ってみましょう。片瀬那奈ちゃんの芸能界デビューは、1998年まで遡ります。
スカウトによってモデル業を中心とした事務所(インセント)に所属した小島那奈子は、本名でファッションモデルとしてほんの僅かな期間活動した後、「1999年度旭化成水着キャンペーンガール」のオーディションに合格し、自ら命名した「片瀬那奈」としての道を歩み始めました。お披露目は1998年10月5日、当時16歳の彼女は有名な「ハプニング」にも動じず、堂々のデビューを飾りました。(余談ですが、片瀬那奈が現在も所属する「インセント」には他に、同じく「研音」とマネジメント契約している「大女優!」伊東美咲さんと「インセント」の「大看板!」井上和香さんがいます。片瀬那奈はこの「インセント三人娘」では最年少ですが、芸歴は一番長いのです。ん?一番地味だって?そこがええんだよ。ぼそっ)
キャンギャルとして(そしてハプニングによって)世に出た片瀬那奈ですが、「ヤングサンデー」誌を中心にグラビア・アイドルとして活躍すると共に、翌1999年初頭からは「JJ」のモデルにも抜擢され最年少表紙モデルにもなっています。さらに3月には「未来の月9女優養成番組」と言われた「美少女H2」(第18話「最後のデート」)で主演、女優デビューも果たします。
その後の活躍は、御存知の通りです。女優としては、「GTOドラマスペシャル(CX)」の準主役を皮切りに、「天国のKiss(EX)」で連ドラ初出演、秋には早くも月9(「氷の世界(CX)」)にレギュラー出演し、翌2000年には「FLY(NHK)」で実質的な主演を果たします。CMでは若干19歳で「三代目きれいなおねえさん」にも抜擢され、お約束の「スキャンダル」も経験しました。
ココでのポイントは「片瀬那奈」と言うタレントの、デビュー時からの「全方位戦略」です。彼女は最初から、そのファン対象を絞れなかった。デビュー直後の「週刊プレイボーイ」誌(1998年 No.48 12/1日号、11月17日発売)で、「幅広く活躍して、女の子にも、男の子にも好かれる人になることが、今の課題!」と発言した片瀬那奈は「本気」だったのです。
片瀬那奈に歌手デビューのオファーが正式なカタチで舞い込んだのは、遅くとも2000年でしょう。既に本格的なグラビア初登場である「ヤングサンデー」誌(1998年 No.48 11/12号、10月29日発売)で、冗談半分ながら「歌手デビューに向けて歌のレッスンを毎日3時間もしてるの。」と発言していますが、より具体的になったのはドラマ出演が本格化した頃であろうと考えられます。2000年からの、片瀬那奈がレギュラー出演した連ドラで在京局制作の作品を追って見ましょう。「新宿暴走救急隊(NTV 2000)」「できちゃった結婚(CX 2001)」「プリティガール(TBS 2002)」、この流れを、その主題歌やサントラ盤を中心に考えると、自ずと「avex からの歌手デビュー」が、見えて来るでしょう。
満を持しての歌手デビューを前に、片瀬那奈サイドは大きな賭けに出ました。これは彼女のマネジメント契約が、2002年から完全に「研音」へ移ったことも影響していたのかもしれません。片瀬那奈は、長年お世話になった「ヤングサンデー」誌上(2002年 No.23 5/23号、5月9日発売)で「グラビア卒業宣言」と同時に「今年後半、みんなをあっと驚かせるかもよ?」なるメッセージを残し、「2001年のおとこ運」→「できちゃった結婚」→「プリティガール」で、せっかく真のメインキャストまでのし上がった女優業すら、あっさりと休止してしまいます。そこまでストイックな姿勢で望んだ「歌手・片瀬那奈」が、最初につまずいたのが、前回述べた「第四弾シングルの発売中止事件」だったのです。そして、そこから、片瀬那奈の歌手活動は怒濤の展開へと進むのでした。(もうすこし、つづく)
初出「COPY CONTROL」 (小島藺子)