
松本隆氏は、元々・エイプリルフール、元・はっぴいえんどの太鼓叩きなのだけど、それよりも「ほとんどの作詞を担当していた」と言った方が、より分りやすいでしょう。
他の三人が解散後も「ミュージシャン」の道を選んだのに、彼だけは太鼓を叩くことを辞めてしまいました。1985年に「ALL TOGETHER NOW」で一夜限りの再結成をした時、なんと「1973年の解散ライヴ以来スティックを握った」と彼は告白しました。そして「すっかりドラミングなんて忘れていたので「C-C-B」の笠浩二くんにスティックを借り指導してもらった」と言う嘘の様なホントの噺を続けたのでした。
まず彼は、鈴木茂や南佳孝の作詞やプロデュースを担当することで、「はっぴいえんど」のつづきを展開しようと試みました。が、今でこそ評価されているそれらの作品は、当時はほとんど無視されたのです。そして、結局、彼は職業作詞家としての道を選択したのでした。そんないきさつで、彼は当初「歌謡曲」を小馬鹿にしていた様です。それは、歌謡曲へ進出したアグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」で、「アグネス」を縦読みで入れると言う「2ちゃんねらーの元祖」的な遊びをやったことでお分かり戴けるでしょう。それが『「この詩には曲をつけられないだろう」と作曲家の筒美京平に「木綿のハンカチーフ」の歌詞を持っていった所、あっさりと曲を付けられてしまいそれ以降作詞に没頭するようになる。』(『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)となるわけです。(流石、ドラゴン!!)
その後の歌謡界に於ける「作詞家・松本隆」の活躍と貢献は、単に「松田聖子」だけに限定しても大きすぎるでしょう。そして、当初は「裏切り者」とさえ言われた彼が、その仲間たちを歌謡曲へと引き込むことで、1980年前後から明らかに「歌謡曲」の世界が変化していくのです。それは簡単に言うなら、「はっぴいえんど」の逆襲でした。その頂点となる作品は、やはり、大瀧さんとの再会盤である1981年の「ロンバケ」だったのでしょう。そのアルバムがメガ・ヒットする世界に、当時のあたくしは歓喜すると同時に、何やら居心地の悪さも感じていました。
しかしながら、「ロンバケ」は、結局チャートの首位を取ることは出来ませんでした。何故なら、その時(その年のレコ大を文句なしに受賞した)寺尾聡さんの「ルビーの指環」を含む「Reflections 」が延々と首位に君臨していたからです。そして、そのアルバムのキラーリードチューンとなった「ルビーの指環」の作詞を担当したのは、他ならぬ「松本隆」だったのです。(つづく)
初出「COPY CONTROL」 (小島藺子/姫川未亜)