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2006年08月08日

「夢みる歌謡曲」第2章の2:
松本隆「君は天然色」

風街図鑑 街編


1981年は、作詞家「松本隆」にとって「我が世の春」がやって来た様な記念すべき年だったでしょう。「日本語ロック」の先駆者と当時から評価されていた「はっぴいえんど」の「言葉」を担っていた彼が「歌謡曲」へも進出したことは、当然、批判も受けました。かつての同志では「茂」だけは付き合ってくれていたけれど(そしてそれこそが「はっぴいえんど」とも言われたけれど)、「細野」「大瀧」の音楽面での核であったふたりは「脱・松本隆」路線へと転じました。

細野さんは、もともと「はっぴいえんど」時代から独自に作詞も担当しており、いや、よーするに「はっぴいえんど」とは「松本が作詞して大瀧が曲を書いて歌うバンド」だったわけで、その大瀧が解散後「NIAGARA MOON」の様な作品を発表したのですから、そりゃあもう、一大事だったのです。1978年には、細野さんがいよいよ「YMO」を始動させますが、そのインスト中心の音楽には、もはや「松本隆」の欠片も残っていなかった。そして、徹底的に歌モノにもこだわる大瀧も音頭路線まっしぐら!!

そんな時代に歌謡界には「ロック御三家」(Char、ツイスト、原田真二)が登場します。Charこと竹中尚人は、10代中頃からスタジオ・ミュージシャンとして活動を開始し、17歳でスモーキー・メディソンに参加、1976年(21歳)でソロ・デビューを果たしました。その彼が翌1977年に、阿久悠作詞の「気絶するほど悩ましい」で(確信犯的に)ブレイクしてしまったのです。同1977年にポプコン出身でデビューしたツイストが一緒にされた理由は、良く分かりません。吉田拓郎が発掘し1978年にアルバム・デビューした(シングル連続リリースは1977年)原田の作詞は(原田本人は未だガキのくせに大いに不満でダメ出しまでしたらしいけど)松本隆が担当しました。

同じく1978年にメジャー・デビューしたサザン・オールスターズも、歌謡曲と日本語ロックの境をなし崩しにしていきます。彼らのデビュー曲「勝手にシンドバッド」は、沢田研二「勝手にしやがれ」とピンク・レディー「渚のシンドバッド」(共に阿久悠が作詞)を合わせただけのふざけたタイトルで、曲はスティーヴィー・ワンダー「アナザー・スター」そのまんま(マイナー・コードをメジャーに替えただけじゃん、、、)、アルバムを聴いたらリトル・フィート「もろパク」(発売当時、あの泉谷しげるが指摘!!)とか、よーするに「洋楽のわけがわからない日本語?による替え歌」みたいな世界が展開されていたのです。(いや、コレは褒めているんですよ。)

ココに来て、日本語ロックは別のステージに向かっていました。つまり、例えば桑田さんには「ビートルズ」や「クラプトン」と同次元で「ザ・ピーナッツ」がいたわけです。それは、大瀧さんが「プレスリーと植木さんはおんなじ」と主張していたこととリンクしますが、残念ながら大瀧さんは「売れなかった」わけですナ。やっぱ、認知されなきゃ意味がないんだよ。

弟子である山下達郎が「RIDE ON TIME」でついにブレイクを果たした1980年、大瀧は「ロンバケ」を鬼の様にレコーディングしていました。1978年に前作「レッツ・オンド・アゲン」を完成させ(ちなみにそのアルバムには、第一期ナイアガラ最後の録音作でもある「河原の石川五右衛門」なる曲が収録予定だった)、沈黙期に入ったかに見えた大瀧は、1979年「カナリア諸島にて」の原型を書きあげ、次作の作詞を「旧友・松本隆」に依頼することを決意します。松本は「う〜ん、大瀧さん、でも音頭はイヤだよ」と答えたそうです。

「はっぴいえんど」の再会となったアルバムの一曲目は「君は天然色」と言う、複雑怪奇ながらポップな楽曲でした。ビートルズ風の効果音でのイントロから、ハニーカムズの「カラー・スライド」的な展開になり、さらにゲーリー・ルイスとプレーボーイズの「涙のクラウン」を下敷きにしたメロディーへとつづき、ロイ・ウッドそのまんまのフックを使いながら、根底にはキャロル・キングが流れ、しかも何故か間奏では「がんばれ!タブチくん」の主題歌(大瀧作曲)のフレーズが飛び出すと言う「ナイアガライズム炸裂」の曲に、松本は甘酸っぱい歌詞をつけました。余談ですが、後に「ちびまる子ちゃん」の主題歌として大瀧が書いて渡辺満里奈が歌った「うれしい予感」は、「君は天然色」のほぼ完全な焼き直しです。

そして「渚を滑るディンギーで手をふる君の小指から」と、大瀧が鼻歌まじりに歌うのが、同年に松本が初めて松田聖子に作詞する(以後延々とつづく序曲だったのだが)「白いパラソル」(作曲・財津和夫)を聴いて「風を切るディンギーでさらってもいいのよ」へと繋がっていると知るのです。(やっぱ、こいつは歌謡曲をおちょくってるんじゃまいか?)

1981年の松本隆は、「はっぴいえんど」の再会を果たし、元サベージの寺尾さんともコラボし、イモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」を本家・細野さんに作曲させ、マッチへ提供した「ギンギラギンにさりげなく」(筒美京平・作曲)ではタツロー、ミナコ、ターボーをバックコーラスで参加させ(その流れでタツローは翌年「ハイティーン・ブギ」を作編曲)、松田聖子のアルバム「風立ちぬ」に至っては「A面・大瀧サイド、B面・茂サイド」と言う暴挙にまで発展する(ちなみに挙げた楽曲及びアルバムは「ロンバケ」の2位止まり以外は全部チャート首位獲得)、まさに「イケイケ状態」なのでした。(つづく)


初出「COPY CONTROL」 (小島藺子/姫川未亜)



posted by 栗 at 01:30| YUMEKAYO | 更新情報をチェックする