
さて、第3章ですよ。ココまで来て、そろそろこの「連載の構造」がお分かりになって来られた片もおられるでしょう。「夢みる歌謡曲」とは、片瀬那奈の「Extended」から「拡大」し「歌謡曲」を考察していく連載です。言わせて下さい「ざまあみろっ!」いや、誰にってわけじゃないんだけどサ☆
「そんな片瀬が到達したのが「Extended(2004)」でした。このカバー・アルバムにこそ「歌謡曲の謎」が詰まっています。」と「第1章の1」で結論づけているのですから、当然の展開なんだけどね。
「Extended」発表当時からあたくし同様、そのオリジナルをすべて聴き比較検証した片はおられたものの、その深層まで踏み込んだ文章に出逢うことはありませんでした。ならば「あたくしがやりましょう。」ってことですよ。それが「那奈ヲタ」クオリティ。
片瀬那奈の現時点での最後のシングル曲であり、カヴァー・アルバム「Extended」やシングル・ベスト盤「Reloaded(2005年)」にも収録された「禁断のテレパシー」は、工藤静香のデビュー曲(1987年)です。
彼女は「おニャン子クラブ」会員番号38番と、末期に加入したメムバーでした。そして「禁断のテレパシー」はあくまでもソロ・デビュー曲であり、彼女はそれまでに既に三回もレコード・デビューを果たしていたのでした。
「おニャン子クラブ」本体と三人組ユニット「うしろ髪ひかれ隊」のふたつは、「おニャン子クラブ」加入後のお仕事ですので「別にどーってことねーや」なのだけど、加入前に「セブンティーン・クラブ」と言う妖しげな三人組でシングルを二枚(「ス・キ・ふたりとも!」「バージン・クライシス」共に1985年)天下のCBSソニーから発表しているのです。このグループは、当時ほとんどオミットされた存在でしたが、現在では在籍した三人中ふたりが「超有名タレント」と「超有名プロ野球選手」の奥さんになったことでも有名になりました。
(ほとんど反則ギリギリの)工藤さんだけではなく、素人集団と言われた「おニャン子クラブ」とは、アイドル予備軍をかき集めて作られたセミプロ集団でした。例えば、国生さゆり(会員番号8番)は「ミス・セブンティーン・コンテスト」出身で、コンテストの同期には「歌唱賞」を受賞した「渡辺美里」がいます。10年後の1990年代中頃でさえ、椎名林檎が「ホリプロ・タレント・キャラバン」に出場したのですから(その時の優勝は上原さくら)、20年前に世に出る「きっかけ」なんて、もっともっと少なかっただけです。ついでに言っとくけど、片瀬那奈が「水着キャンギャル出身」であることを隠したり恥じたりしたことは、一度もありません。
それでも「おニャン子クラブ」の魅力とは「素人っぽさ」だったと言えるでしょう。当時トップ・アイドルのひとりだった中山美穂が番宣で「夕焼けニャンニャン」に出演したことがありましたが、誰の目にも明らかに「オーラ」が違いすぎたのを記憶して居ります。嗚呼、それなのに、「おニャン子クラブ」解散前のラストを飾った工藤静香の「禁断のテレパシー」は、なんと「おニャン子系71枚目」のシングル作品だったのです。1985年のデビューから、たったの二年あまりで71枚!!そのうち半数を軽く超える43枚がチャート首位になったのです。コレはいくらなんでも「ど素人がやれる芸当」ではありません。
秋元康の戦略や作詞の力も当然大きかったとは思いますが、ココではやはり、彼女たちの楽曲をもっとも多く作編曲した「後藤次利」の貢献に注目してみましょう。「元・サディスティック・ミカ・バンド〜サディスティックス」と云う経歴を持つ「天才ベーシスト」の彼は、ティンパン(細野、茂)のアルバムにも参加し、松本や大瀧とも当然ながら仕事をしています。そして、彼にベースを教えたのは「のっぽのサリー」こと「元・タイガースの岸部一徳」だそうです。
彼がやったのは、ジングルやCM曲の様な手法でした。「最も美味しいフレーズである「サビ」を、敢えて頭に持って来て強烈に印象付けて、わけもわからない侭にレコードを買わせてしまう」って言葉にすると詐欺みたいだけど、未だに彼が考案したその手法が有効なのだからなぁ。さらに言うなら、素人同然の歌唱のバックに「何故こんな贅沢なメムバーが揃っているんだ?」と思わせるに充分な「1980年代中期のアイドル歌謡」の頂点に君臨するのが「おニャン子クラブ」と言う「奇怪なプロジェクト」でした。(つづく)
初出「COPY CONTROL」 (小島藺子/姫川未亜)