片瀬那奈ちゃんの入浴シーンを期待していた、全国那奈千万人の小羊ちゃんたち、サンキュー(はーと
すっかり「西豪寺エレナ様」を持ちネタと自覚した片瀬那奈は、また逞しくなりました。其れでも、「あと一、二ヶ月」ってネタの賞味期限まで予告してしまうのですから、世間が片瀬を捉え切れないのも宜なるかな、と云わざるをえません。折角みつけたんだから、飽きられるまで続ければええのに、
そして今回気づいたのは、「エレナ様」キャラが思いのほかウケてると言うことです。
プライベートでもエレナ様口調でしゃべると笑いがすぐ取れます。
なのであと1,2ヶ月は、ネタとして使っていこうと思います。
(「NANA DIARY」2006-12-23 より引用)
あのね、此れって、アノ天下のサー・ポール・マッカートニーが一番「ザ・ビートルズ」の価値を理解してなかったってのと近いと思うぞ。
此の試論は、時系列に順次して書いて行こうとは当初から考えてはいません。其れは「片瀬那奈全記録」の役目です。敢えて「コピコン」でも片瀬那奈を語りつづける意味がないでしょう。
さてさて、片瀬那奈は「プリティガール」(TBS 2002)を最後に、一旦、女優業を休止しました。決してオファーがなくなったからでは在りません。その理由は、歌手活動専念です。これほど明快な答えはありませんが、当時「女優・片瀬那奈」はようやく三番手まで歩を進め、いよいよ主役へと期待されていました。其処で、歌手デビューするのなら、尚更ドラマもつづけて行く方が「より世間へアピール出来た」はずです。
が。彼女は其れを良しとしなかった。「音楽が好きだから、中途半端なことはしたくない」其のあまりにも実直すぎる選択に、当初「歌手なんかやってないで、さっさと女優業を突き進め!」と思ったあたくしも、大きく心が揺れました。其の選択を許した所属事務所様の懐の深さにも驚いたものです。
そうして発表された音楽は、本来の片瀬那奈が嗜好するハウス系では在ったものの、よりポップなカタチへと作り替えられていました。現在では当たり前の様になった此の手法ですが、2002年の時点で、其の方向性を提示したのは見事としか云えません。其の後の日本語によるエレクトロ・ポップの歴史は、片瀬那奈抜きには語れないのです。
アンダーグラウンドやクラブシーンにも現役で精通している、本物のグローバル・ヲタで在る「片瀬那奈」が、其の知名度を最大限に有効に利用し「新たなる音楽を作った事実」を、あたくしは何度でも繰り返し語ります。彼女のヲタぶりを御理解して戴くには、2002年12月13日に仕事で福岡へ行き、とんぼ返りして「エレグラ」に参戦し SASHA で踊りまくった事実だけでも充分でしょう。そして、其の時、片瀬那奈がステージに立ちつづけたことこそが、其の後の「片瀬那奈」にとって大きな財産になったと断言します。2004年7月の終わりにズバリ訊いた時に、「8月もライブをやるぞっ!」と云えなかった片瀬那奈が、再度沈黙期に入ったのは、正直すぎる彼女ならではでした。そう、時は熟していました。また、次の「イメージ」へと進むのだと。
其れなのに、彼女がふたたび女優に復帰した「ラスト クリスマス」(2004 CX)を観て、私は大きく失望しました。今でも、其の評価は変わりません。「こんなつまんない役をやる為に、君は歌手を辞めるのか?」と「こんなことなら、歌手をつづけてくれた方がいい。ぼくらだけの那奈ちゃんで居て欲しい」と、全く女優休止時に思ったことを「女優」と「歌手」を入れ替えただけの「陳腐な感想」を呟くしかなかったのです。嗚呼、なんてこった。
私は、女優や歌手を「別の何か」と捉えて居たのかもしれません。けれど、片瀬那奈は、ずっと片瀬那奈だった。すべては繋がっていたのです。彼女は、純粋に「表現者」だった。そんな単純なことを、私は見逃していました。
「私が一番、片瀬那奈を理解していない。」いつもいつだって、そう思います。だから、私は片瀬那奈を知りたいんです。(つづく)
初出「COPY CONTROL」 (小島藺子)