アップル・レコードの崩壊でダメージを受けたのは、「ビートルズの弟バンド」だったバッドフィンガーだけではなく、「バッドフィンガーのお兄さんバンド」だった元ビートルズの4人こそが大打撃を受けました。引退を決めていたであろうジョン・レノン(版権はLENONO MUSIC)以外のメンバーは、ポール・マッカートニーがまだビートルズが解散する前の1969年2月に音楽出版会社「MPL」を設立していて抜け目がないのですけれど、ジョージ・ハリスンは1974年5月に「ダーク・ホース・レコード」を設立して、リンゴ・スターも1975年4月に「リング・オー・レーベル」を設立しています。その中で成功したのはポール自身と他のミュージシャンの版権ビジネスも手掛けたポールの「MPL」だけで、ジョンは自分とヨーコさんの名前から取った名の通り二人の作品しか管理していないし、リンゴの「リング・オー・レーベル」は1978年5月には閉鎖しています。後にポールは版権ビジネスで大儲けしている事をマイケル・ジャクソンに教えてしまい、自分が書いた「レノン=マッカートニー」作品のほとんどの版権をマイケルに買われると云う、天然バカボンなお人好しぶりもみせています。
最もゴタゴタしたのはジョージの「ダーク・ホース・レコード」で、1974年5月に設立して260万ドルの配給金で「A&M」の配下でレコードをリリースする事になったのですけれど、A&Mが求めていたのは当然ながらジョージ・ハリスンのソロ・アルバムだったのに、ジョージはアップル(EMI)との契約で1976年まではA&Mからはレコードをリリース出来なかったのです。それで、ジョージは、スプリンターや、ラヴィ・シャンカールや、元「第2期ウイングス」のヘンリー・マカロックなどのアルバムをリリースしてお茶を濁していたのですけれど、A&Mは我慢強く待ってくれていて、1976年1月にジョージとEMIの契約が切れる半年後の1976年7月までに新作アルバムを完成させてA&M配下のダーク・ホースからリリースする契約を結んでいたのです。ところが、1976年に制作していたジョージの移籍後初のアルバム「THIRTY THREE & 1/3」のレコーディングが遅れてしまい、待ちくたびれたA&Mはジョージを訴えそうになり、ワーナーが違約金1千万ドルを肩代わりして「ダーク・ホース・レコード」ごと移籍する事となりました。但し、ワーナーはジョージの作品以外は必要とせず、1979年以降はダーク・ホース・レコードは、事実上はジョージの個人レーベルになってしまいました。
さて、そんな「ダーク・ホース」と自らを「ビートルズの穴馬」と名乗るジョージが、1974年12月にリリースしたのが、アルバム「DARK HORSE」です。ジョージとしては、このアルバム「DARK HORSE」と翌1975年10月リリースのアルバム「EXTRA TEXTURE(READ ALL ABOUT IT)(ジョージ・ハリスン帝国)」の2作も、本来ならばアップルからではなくダーク・ホースからリリースしたかったのでしょう。特に1974年のアルバム「DARK HORSE」は、タイトルからして、気分はもう「ダーク・ホース」なのです。このジョージのアルバムに収録されている隠れた名曲が、B面3曲目の「FAR EAST MAN」で、ジョージと、元・ジェフ・ベック・グループで元・フェイセズで現・ローリング・ストーンズのロン・ウッドとの共作です。ロン・ウッドは1974年9月にリリースしたソロ・アルバム「I'VE GOT MY OWN ALBUM TO DO(俺と仲間)」のA面2曲目に「FAR EAST MAN」を収録しています。ロン・ウッドのアルバムには、フェイセズのロッド・スチュワートとイアン・マクレガンや、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズ、ミック・ジャガー、ミック・テイラーも参加していて、ロン・ウッドがフェイセズ解散からローリング・ストーンズ加入への橋渡し的なアルバムとも云えます。兎に角「FAR EAST MAN」は曲が抜群に良いので、ジョージのヴァージョンもロン・ウッドのヴァージョンも必聴です。何故、ジョージのベスト盤に選曲されないのか?と不思議な位の名曲です。
(小島イコ)