1973年9月から「失われた週末」時代に突入したジョン・レノンは、ロサンゼルスを拠点として精力的にレコーディングをする一方で、多数の酒好きなミュージシャンと共に呑んだくれていました。リンゴ・スター、ハリー・ニルソン、ザ・フーのキース・ムーンなどと夜な夜なつるんで呑んでいて、ジョンはそんなにお酒が強くはないので心配されていて、ポール・マッカートニー(ジョンがヨーコさんと離れていたので和解していた)がわざわざやって来て、忠告したものの自堕落な生活をやめませんでした。リンゴはアル中になったし、ニルソンは酒で美声を失ったし、キース・ムーンは酒とドラッグで1978年9月7日に32歳の若さで亡くなっています。この時期にジョンは、リンゴやニルソンには楽曲提供してレコーディングにも参加してプロデュースもしています。そして、1975年3月にキース・ムーンの唯一のソロ・アルバム「TWO SIDES OF THE MOON」がリリースされました。
内容は、A面が、1「CRAZY LIKE A FOX」、2「SOLID GOLD」、3「DON'T WORRY BABY」、4「ONE NIGHT STAND」、5「THE KIDS ARE ALRIGHT」で、B面が、1「MOVE OVER MS. L」、2「TEENAGE IDOL」、3「BACK DOOR SALLY」、4「IN MY LIFE」、5「TOGETHER」の、全10曲入りです。アルバムはチャート入りせず惨敗だったのに、キース・ムーンは2作目のソロ・アルバムも制作していて、現在ではアルバム「TWO SIDES OF THE MOON」にボーナス・トラックとして収録されています。楽曲は全てがカヴァーもしくは提供曲で、キース・ムーンはドラムスを叩いていたり叩いていなかったりして、ヴォーカリストに徹しています。「DON'T WORRY BABY」はビーチ・ボーイズのカヴァーで、シングル・カットもされていますが、アルバム・ヴァージョンでは地声で歌っていて、シングル・ヴァージョンではファルセットで歌っています。キース・ムーンが裏声で歌う「DON'T WORRY BABY」は、文字にしただけで背筋が凍ります。
ザ・フーのセルフ・カヴァーである「THE KIDS ARE ALRIGHT」はノリノリだし、リッキー・ネルソンのカヴァー「TEENAGE IDOL」(大瀧師匠作で西田敏行さんが歌った「ロンリー・ティーンエイジ・アイドル」の元ネタ)も気持ち悪くて良いです。ビートルズのカヴァー「IN MY LIFE」や、ニルソン作の「TOGETHER」と云った曲も聴きごたえがあります。そもそもキース・ムーンはビートルズに憧れていて、1965年にバーで呑んでいたビートルズの面々と初対面で「俺をビートルズに入れてくれ」と云ったのだそうです。そして、ジョン作の「MOVE OVER MS. L」が、ギラリと光ります。この曲はキース・ムーンもシングルB面にもしていて、ジョンは1975年4月にリリースしたシングル「STAND BY ME」のB面で、この「MOVE OVER MS. L(ようこそレノン夫人)」をセルフ・カヴァーしています。が、しかし、ジョンのヴァージョンはオリジナル・アルバム未収録で、1989年にCD化されたベスト盤「THE JOHN LENNON COLLECTION」や、2010年の箱「SIGNATURE BOX」などでしか聴けません。
キース・ムーンは、ビートルズのシングル「ALL YOU NEED IS LOVE(愛こそはすべて)」にも参加していて、ジョンのライヴに参加した事もあります。あの「LED ZEPPELIN」の名付け親(1966年にキース・ムーンがドラムスで、ジェフ・ベックとジミー・ペイジがギターで、ジョン・ポール・ジョーンズがベースで、ニッキー・ホプキンスがピアノでセッションした時に「もし、俺たちが今いるバンドを辞めたら、あいつらは鉛の飛行船=LEED ZEPPELINかな」と云ったのが由来)だったりもしますが、やはり、ザ・フーでの破天荒すぎるドラムスが魅力です。そのイメージで聴くと、このソロ・アルバム「TWO SIDES OF THE MOON」は、盛大にズッコケるでしょう。32歳で亡くなってしまったキース・ムーンですが、親友で呑み仲間であるリンゴの長男ザック・スターキーを可愛がっていて、キースおじさんと慕うザックにドラムスを教えたのはリンゴではなくキース・ムーンです。故にザックのドラムスのスタイルは完全にキース・ムーン直伝で、現在ではザックがザ・フーのサポート・ドラマーとしても活躍しています。
(小島イコ)