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2024年07月25日

「ポールの道」#442「FAB4 U.S. SINGLES」#35「THE LONG AND WINDING ROAD / FOR YOU BLUE」

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1970年4月10日のポール・マッカートニーの脱退宣言で、ビートルズは事実上では解散しました。11作目のアルバム「ABBEY ROAD」をリリースする1週間前、1969年9月20日のアップルの会議で、ポールはこれからのビートルズの方向性を熱く語ったものの、ジョンは悉く却下して「お前はアホか、俺はビートルズを辞めるんだよ」と云われてしまい、大きなショックを受けたポールはスコットランドの農場に引き籠ってしまったのです。が、しかし、ポールは1969年末にロンドンへ戻り宅録を中心に(一部偽名でスタジオ多重録音)したソロ・アルバム「McCARTNEY」を制作していて、1970年5月にリリースしようと考えていました。ところが、アップルはビートルズの12作目で結果的にはラスト・アルバムとなる「LET IT BE」とのバッティングを回避する為にポールのソロ・アルバムを前倒しにして、自分だけがフィル・スペクターのプロデュースでアルバム「LET IT BE」が制作されていた事すら知らされていなかったポールは発狂モードとなり、うっかりビートルズ脱退を宣言してしまったのです。リンゴが説得に行ったら、ポールはリンゴを殴って追い返したと云うのですから、ポールは常軌を逸していたのでしょう。

それまで、リンゴが1968年8月にアルバム「THE BEATLES(ホワイト・アルバム)」の途中で、ポールにドラムスをダメ出しされて脱退して、ジョージが1969年1月の「THE GET BACK SESSIONS」の途中で、ポールにギターをダメ出しされて脱退して、ジョンが1969年9月に、もうポールとはやってゆけないと脱退していました。当時は全て内密にされていたので、ポールも脱退宣言をしたら他の3人が止めてくれるだろうと期待していたのでしょうけれど、誰も止めてくれなかったのです。リンゴは殴られたし、ジョージは積年の恨みがあったし、ジョンの気持ちはビートルズにはなかったので、ポールの自業自得でした。ソロ・アルバムに関しても、既にジョン(&ヨーコさん)も、ジョージも、リンゴまでもが、前衛作品やサントラ盤やスタンダード集と云ったカタチですがリリースしていたので、だったら自分も出そう、と思ったのでしょう。ところが、ポールの脱退をジョンは「俺が先に辞めて公にしなかったのに、ポールは自分のソロ・アルバムの宣伝に利用した」と激怒されてしまったのです。

他の3人の仲は良好で、ジョージもジョンもコレ幸いとソロ・アルバムをレコーディングして、リンゴは両方でドラムスを叩いていて、ジョージもプラスティック・オノ・バンドのレコーディングに参加していて、映画「LET IT BE」で分かる通りに「ポール」VS「ジョン、ジョージ、リンゴ」のカタチが出来上がっていたのです。そして、1969年1月に行って頓挫してしまった「THE GET BACK SESSIONS」の映画化とサントラ盤の契約は残っていました。よく実質的なラスト・アルバムは「ABBEY ROAD」と云われていますが、リリース順ならばアルバム「LET IT BE」の方が後ですし、実際にアルバム「ABBEY ROAD」がリリースされた後にジョン以外の3人でレコーディングした楽曲(ジョージ作の「I ME MINE」)が収録されていますし、フィル・スペクターの意向で「ACROSS THE UNIVERSE」や「THE LONG AND WINDING ROAD」などにはオーケストラやコーラスなどが1970年3月にオーバーダビングされています。

そうして、1970年5月8日(英国)・同年5月18日(米国)にアップルからリリースされたのが、ラスト・アルバム「LET IT BE」です。英国(日本も)では最初は写真集付の箱入りでリリースされていて、A面が、1「TWO OF US」、2「DIG A PONY」、3「ACROSS THE UNIVERSE」、4「I ME MINE」、5「DIG IT」、6「LET IT BE」で、B面が、1「I'VE GOT A FEELING」、2「ONE AFTER 909」、3「THE LONG AND WINDING ROAD」、4「FOR YOU BLUE」、5「GET BACK」の、全12曲入りです。此の内で「ACROSS THE UNIVERSE」が1968年2月、「I ME MINE」が1970年1月にレコーディングされていて、他の10曲は1969年1月の「THE GET BACK SESSIONS」を元にした音源となっています。アルバム「GET BACK with Don't Let Me Down and 12 other songs」を1970年1月に再びまとめて却下されたグリン・ジョンズはお払い箱となり、新たにフィル・スペクターが1970年3月にリ・プロデュースする事となったのです。

ソレは、1970年1月27日にジョンがプラスティック・オノ・バンド名義のシングル「INSTANT KARMA!」をレコーディングしていて、ジョージも参加して、ジョンとジョージがプロデュースしたフィル・スペクターの手腕を認めて、リンゴも含めたビートルズの3人とアラン・クレインがフィル・スペクターへ依頼したのです。アラン・クレインと契約していなかったポールは蚊帳の外で、完成した「THE LONG AND WINDING ROAD」にオーケストラや女性コーラスがオーバーダビングされたのを聴いて、サー・ジョージ・マーティン曰く「ポールは、酷く動揺していたよ」となったわけです。元々はアルバム「GET BACK with Don't Let Me Down and 12 other songs」を「ノー・オーバーダビング」としたのはジョンだったので、サー・ジョージ・マーティンも、フィル・スペクターに任せてオーバーダビングしていると聞いた時には驚いたそうです。オーケストラを担当したリチャード・ヒューソンを、ポールは後に再起用しているので、気に入らなかったのはアレンジよりも自分だけハブにされた事でしょう。兎も角、ポールは脱退宣言をしたし、他の3人を訴えて裁判沙汰になりました。

当時はそんなこたあ知ったこっちゃなかったわけで、1970年5月11日に米国で33作目として「THE LONG AND WINDING ROAD / FOR YOU BLUE」がシングル・カットされました。音源の元となったのは両面共に1969年1月の「THE GET BACK SESSIONS」からですが、前述の通りA面のポール作の「THE LONG AND WINDING ROAD」(元の音源は1969年1月26日レコーディング)には派手なオーバーダビングがされていて、全米首位!となりました。B面にはジョージ作の「FOR YOU BLUE」が選ばれて、全米71位まで上がっています。レコーディングは1969年1月25日ですが、1年後の1970年1月8日にジョージがリード・ヴォーカルを録音し直して完成させています。元々のアルバム「GET BACK with Don't Let Me Down and 12 other songs」には、ジョージの曲は「FOR YOU BLUE」しか収録されていません。同時期に「SOMETHING」、「ALL THINGS MUST PASS」、「OLD BROWN SHOE」、「ISN'T IT A PITY」、「LET IT DOWN」、「HEAR ME LORD」等々、湯水の如く名曲を書いていたのに、たった1曲しか取り上げてもらえないんじゃ、辞めたくもなるでしょうなあ。

(小島イコ)

posted by 栗 at 23:00| FAB4 | 更新情報をチェックする