1968年2月から4月にかけて、ビートルズの4人はインドへ修行へゆきました。2月16日に、ジョンとシンシア夫妻、ジョージとパティ夫妻、パティの妹ジェニー、女優のミア・ファローと妹のプルーデンス、2月19日にポールとジェーン・アッシャー、リンゴとモーリン夫妻が、それぞれインドへ到着して、リンゴとモーリンは3月1日には逃げ帰り、3月26日にはポールとジェーンも帰国して、ジョン夫妻とジョージ夫妻はマハリシが女性に手を出したと云う悪質なデマで不信感を持って、4月12日には緊急帰国しています。しかし、ジョンとジョージは2か月近く、ポールも1か月半もインドにいたわけで、瞑想する以外には何もする事がなかったので、ドノヴァンが持参していたギターを借りて曲を作ったり、ドノヴァンにフィンガー・ピッキング奏法を習ったりしていました。そうして沢山の新曲が出来たので、帰国したビートルズは次のシングルとアルバムの為に、ジョージ宅でデモをレコーディングしました。ソレが通称「イーシャー・デモ」です。
「イーシャー・デモ」は、現在では2018年にリリースされたアルバム「THE BEATLES(ホワイト・アルバム)」の50周年記念盤で聴く事が出来ますし、ブートレグでも昔から定番音源のひとつでした。此のデモ音源だけでも既に27曲もレコーディングしていて、実際にインドで書かれた曲は40曲位あったと云われています。ポールが1993年リリースのアルバム「OFF THE GROUND」にサワリをシークレット・トラックとして入れて、シングルのカップリングで完全版をリリースした「COSMICALLY CONCIOUS」も、おそらく此の時期にインドで書いた曲のひとつでしょう。ビートルズは1968年4月に、1967年9月から推し進めていた音楽出版やエレクトロニクスやブティックなどの会社を、本業であるアップル・レコードを中心にした会社組織へと方向転換しました。それによって、パーロフォンから出ていたレコードは1968年3月15日にリリースしたシングル「LADY MADONNA / THE INNER LIGHT」が最後となりました。
アルバム「THE BEATLES(ホワイト・アルバム)」のレコーディングは、1968年5月30日から始まり、最初に取り上げたのがジョン作の「REVOLUTION」でした。しかし、10分を超えるスローテンポの「REVOLUTION」は、結局は前半を「REVOLUTION 1」として、後半を元にして「REVOLUTION 9」としてアルバムに収録されます。シングル化を強く望んだジョンに対して、他の3人はテンポアップしての再レコーディングを提案して、ソレがシングルB面の「REVOLUTION」となりました。A面はポール作の「HEY JUDE」で、コレマタ7分以上もある曲なのですけれど、ソレは狙ってやっています。ポールは「HEY JUDE」の曲を米国のザ・ドリフターズによる「SAVE THE LAST DANCE FOR ME(ラストダンスは私に)」を元にして書いて、詞はジョンの息子ジュリアンに向けて書いています。1981年に大瀧師匠がプロデュースしたザ・キングトーンズの「ラストダンスはヘイ・ジュード」は、2曲を今で云うマッシュアップした快作です。
ソレで、1968年8月30日に英国で18作目、同年8月26日に米国で28作目となる、ビートルズの新たなるレーベルであるアップルから第1弾シングル「HEY JUDE / REVOLUTION」がリリースされました。「HEY JUDE」は英国では3週連続首位!となりましたが、同日発売だったメリー・ホプキンの「THOSE WERE THE DAY(悲しき天使)」に首位!(6週連続)を奪還されてしまいました。が、しかし、メリー・ホプキンはポールがプロデュースしたアップル・レコードの身内だったので、レーベルとしての強さを見せつける事となったのです。米国では「HEY JUDE」が9週連続全米首位!で、B面の「REVOLUTION」も全米12位まで上がっています。米国だけでも4百万枚近くも売れたシングル「HEY JUDE / REVOLUTION」は、後期ビートルズの代表作です。両面共にプロモーション・フィルムも制作されていて、マイケル・リンゼイ=ホッグが監督しています。僅か半年後には映画「LET IT BE」を監督して崩壊するバンドを描いたのに、此の時点ではそんな気配はないどころか、4人共にヴォーカルだけ生で当て振りながら、ノリノリで演奏しています。つまり、映画「LET IT BE」の描写は、わざと険悪な場面を多用しているのです。
(小島イコ)