1964年のビートルズ米国上陸に始まった「ブリティッシュ・インヴェイジョン」で米国のポピュラー・ミュージックは大打撃を受けて、数多くのポップスターたちは消えてしまいましたが、そんな中で生き残ったミュージシャンはいて、ソレはビートルズの真の「好敵手」であったブライアン・ウィルソンが率いるビーチ・ボーイズであり、盟友ともなったボブ・ディランであり、他にもフォー・シーズンズやフィル・スペクターと云った面々もいたのですが、何と云ってもモータウンでしょう。モータウンは会社組織でヒット曲を量産していて、作詞作曲はホーランド=ドジャー=ホーランドやスモーキー・ロビンソンなどの専属ソングライターが担当して、演奏はファンク・ブラザーズ(其の中にはビーチ・ボーイズでもベースを担当していたキャロル・ケイも参加)が担当して、ソレをバックに多数のシンガーやグループが歌っていました。ビートルズもデビュー前からそれらの曲に親しんでいて、現にバレット・ストロングの「MONEY (THAT'S WHAT I WANT)」やマーヴェレッツの「PLEASE MR POSTMAN」やミラクルズの「YOU'VE REALLY GOT A HOLD ON ME」などをカヴァーしていて、更に、ジョンは「IN MY LIFE」はスモーキー・ロビンソンの「THE TRACKS OF MY TEARS」からの影響を公言していますし、ジョージもスモーキーの大ファンで、ソロになってから「OOH BABY (YOU KNOW THAT I LOVE YOU)」や「PURE SMOKEY」なんて曲を書いてマネして歌っていたりもします。そして、モータウンと云えばスティーヴィー・ワンダーやマイケル・ジャクソンも世に送り出した会社ですので、スティーヴィーとはジョンもポールもソロになって共演していますし、マイケルとはポールが共演した上に著作権ビジネスを教えてビートルズの版権を買われてしまうと云う、天然ポール満開の展開ともなるのです。
事実として、ビートルズが米国を制覇した1964年には、メリー・ウェルズの「MY GUY」や、シュープリームスの「WHERE DID OUR LOVE GO」と「BABY LOVE」と「COME SEE ABOUT ME」が、翌1965年にもテンプテーションズの「MY GIRL」や、シュープリームスの「STOP ! IN THE NAME OF LOVE」と「BACK IN MY ARMS AGAIN」や、フォー・トップスの「I CAN'T HELP MYSELF」が、其のまた翌1966年にはシュープリームスの「I HEAR A SYMPHONY」と「YOU CAN'T HURRY LOVE」と「YOU KEEP ME HANGIN' ON」や、フォー・トップスの「REACH OUT I'LL BE THERE」と、3年間で12曲もの全米ナンバー1ヒットをかっ飛ばしていて、其の内の「MY GUY」と「MY GIRL」の2曲がスモーキー・ロビンソン作で、他の10曲はホーランド=ドジャー=ホーランド作なのです。そして8曲がダイアナ・ロスがいたシュープリームスで、其の後も続いて12曲連続首位なんですから、コレはもうビートルズと肩を並べるばかりか、ヒット・シングル数だけならば上回っていたと云えるでしょう。そして、モータウンのフットワークが軽いのは、アルバムにはビートルズのカヴァーをバンバンと入れていて、それらを集めた編集盤も発売されています。ソレでですね、そうやって全米チャートでは激しいナンバー1争いをしている間に、ポールは何とかしてモータウンのファンク・ブラザーズの様なパンチが効いたベースとドラムによるリズム・トラックをレコーディング出来ないのかと、試行錯誤してゆくわけです。そうした試みが表面化したのが1965年の「RUBBER SOUL」からであって、ジョンの発言などから考えると、既にビートルズは1965年の夏のツアー辺りでライヴに対する興味を失ってしまって、つまりは「RUBBER SOUL」からは、本格的にスタジオ・ワークを中心としたバンドに変貌するのです。
(小島イコ)
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