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2023年05月26日

「ポールの道」#020「A WORLD WITHOUT LOVE」



1964年7月10日にパーロフォンからリリースされた英国でのビートルズ3作目のアルバム「A HARD DAY'S NIGHT」は、全13曲が全て「レノン=マッカートニー」のオリジナルだったものの、実際にはジョンが10曲で、ポールはたったの3曲でした。確かに此の時期はジョンがグイグイとバンドを引っ張っていたとも云えますが、其の内実としては、前年である1963年にジョンがシンシアと「できちゃった結婚」をして、1964年4月8日には息子のジュリアンが誕生していて、バンドがイケイケどんどん状態になったにも関わらず、ジョンは家庭に縛られる事となって、狂い咲きしたのではないのかとも邪推されるのです。そして、ポールには他にやる事があってですね、ビートルズに回すよりも良い曲を所謂ひとつの提供曲として他のミュージシャンに与えていたとも思えるのです。「レノン=マッカートニー」名義で、特に1963年から1965年辺りに多くの楽曲が提供されていますが、それらをまとめたCDもハーフオフィシャル盤やブートレグで幾つか出ていて、あたくしも何セットか持っています。其の中にはジョンが歌う「HELLO LITTLE GIRL」と、ポールが歌う「LIKE DREAMERS DO」と「LOVE OF THE LOVED」の3曲の様に、早くも1962年1月1日のデッカ・オーディションでビートルズによって演奏されていた楽曲などもあり、ジョンが書いたと思われる「BAD TO ME」や「I'M IN LOVE」と云った「何故、ビートルズで演奏しなかったのか?」と云った名曲もあります。一方のポールはと云うと、「ONE AND ONE IS TWO」とか「TIP OF MY TONGUE」みたいなタイトルを聞いただけでも分かる駄曲もあるのでした。

ポールが当時交際していて婚約していた女優のジェーン・アッシャーのお兄さんが「ピーター&ゴードン」のピーター・アッシャーでして、ポールはアッシャー家に仕事場も与えられて、まあ、つまりは「マスオさん状態」で半ば同居していたからなのか、ピーター&ゴードンには「レノン=マッカートニー」名義で何曲も提供していて、それらは全部がポール作なのです。「A WORLD WITHOUT LOVE(愛なき世界)」は全米1位の大ヒット作ですし、続いた「NOBODY I KNOW(二人だけのパラダイス)」と「I DON'T WANT TO SEE YOU AGAIN(逢いたくないさ)」と1964年だけでも3曲も手抜きなしの名曲を提供していて、それは1966年の「WOMAN」まで続くのでした。ピーター&ゴードン以外にもポールは提供曲には積極的で、ジョンは実質的には1963年には幾つかやっていたものの、飽きちゃったのかビートルズに専念したかったのか、1964年になるとほとんど書かなくなってしまいました。ポールは其の後もシラ・ブラックやメアリー・ホプキンやバッドフィンガーなどにも書き続けるのです。それらは初期のやっつけ仕事を別にすれば名曲も多くて、特にピーター&ゴードンへの3連発は良い出来栄えなのです。故に、ポールは「A HARD DAY'S NIGHT」には3曲しか回せなかったのでしょう。それで、其の理由としては、前述のプライベートな状況での義理の兄への忖度しか考えられず、ピーターは1968年にデュオを解散した後には、ビートルズが作った会社であるアップルの重役のポストを与えられるのです。ところが、ところがですよ、ポールがジェーンと婚約を解消してリンダと結婚したら、ピーターは窓際に追いやられて退職して、ジェームズ・テイラーと一緒に渡米して、プロデューサーとしてジェームズ・テイラーやリンダ・ロンシュタットと共に大成功するのでした。

(小島イコ)

posted by 栗 at 21:00| FAB4 | 更新情報をチェックする