大瀧詠一師匠がコロムビアとの契約を守ろうと悪戦苦闘していた1978年4月25日に、盟友である細野晴臣さんはアルファに移籍して4枚目のソロアルバム「はらいそ」を発表しました。正式には「ハリー細野とイエロー・マジック・バンド」名義のアルバムで、先を急ぐと同年6月21日にはオムニバス盤でインストゥルメンタルの「PACIFIC」を茂やタツローとソニーから発表し、同年9月21日には横尾忠則さんと連名(実際には横尾さんはジャケットのみ担当)で「COCHIN MOON(コチンの月)」をキングから発表して、更には同年11月25日には遂に「イエロー・マジック・オーケストラ」をアルファから発表します。大瀧師匠が必死で年間4枚を消化しようと頑張っていたのを後目に、細野さんの創作意欲は正に絶頂期を迎えていたとも思えるリリースではありました。同年6月21日には先日亡くなられた高橋幸宏さんがファースト・ソロアルバム「サラヴァ!」をキングから、そして同年10月25日には教授こと坂本龍一さんがファースト・ソロアルバム「千のナイフ」をコロムビアから発表しておりましてですね、YMO関連のアルバムが年に6作2か月に1枚のペースで矢継ぎ早に発表されたのでございます。まあ、それらは全て翌1979年に巻き起こる「YMO現象」の前振りであって、1978年にはどのアルバムも売れてはいません。
「はらいそ」は、個人的にはおそらく細野さんのアルバムでは最も愛聴している作品ですが、例によって「東京ラッシュ」と「ウォリー・ビーズ」にター坊こと大貫妙子さんがコーラスで参加しているから買った記憶があります。其のター坊が細野さんのトリビュートアルバムでカヴァーしている「ファム・ファタール〜妖婦」では、ユキヒロと教授が参加しているので、此の時点で「YMO」の構想はあったと思われます。チャンキーミュージックにも幅が出来ていて、ハワイアンの「ジャパニーズ・ルンバ」や沖縄民謡の「安里屋ユンタ」なども取り上げています。「安里屋ユンタ」は、先頃発掘された大瀧師匠による「ホルモン小唄~元気でチャチャチャ」と共に小林旭さんとティン・パン・アレーによるアルバム用に準備された曲です。アナログ盤だとB面だった「ファム・ファタール〜妖婦」「シャンバラ通信」「ウォリー・ビーズ」そして「はらいそ」と続く展開が美しく、特に「はらいそ」の「溶けろリアリティー」と云う歌詞は所謂ひとつの「必殺の一行」でしょう。しかしながら、其の「はらいそ」が遠ざかる足音で終わったかと思ったら、立ち止まって戻って来て「此の次は、モアベターよ!」と云うふざけ捲ったセリフで終わってしまう辺りは、やはり大瀧師匠と同類のミュージシャンなのだと納得させられるのでした。此の次が指すのは「PACIFIC」でも「COCHIN MOON(コチンの月)」でもなく、「YMO」であるのは云うまでもないけれど云っておきます。
(小島イコ)