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2023年02月06日

「ナイアガラ考」#18「はっぴいえんど」



3月21日に発売される「大滝詠一 Novelty Song Book」に間に合う様に大瀧詠一師匠が亡くなってからの商品から始めた此の連載ですが、悪口ばかりになると思って実際に悪口ばかりを書いてさっさと終わらせようとしたら、思いの外に早く進んでしまいました。其れで次はどこまで遡ろうかと考えて、まあ、最初まで戻ってしまおうと「はっぴいえんど」からもう一度始めようと思います。1970年8月5日に発表された「はっぴいえんど」のデビューアルバム「はっぴいえんど」は、林静一さんが描いたジャケットに大きく「ゆでめん」とあるので、通称「ゆでめん」と呼ばれています。元々はエイプリル・フールと云うバンドにいた細野晴臣さんと松本隆さんと小坂忠さんが新しいバンドを作ろうとしていて、小坂さんがミュージカル「ヘアー」のオーディション(細野さんがギター伴奏で同席していた)に合格してしまい、ヴォーカリストを失って、細野さんが友人の大瀧師匠を誘って「ヴァレンタイン・ブルー」が結成され、そこにまだ10代だった鈴木茂さんを加えて改名して「はっぴいえんど」が誕生します。「ゆでめん」の裏ジャケのメンバーに茂が最初に記されているのは、やめられない様にそうしたらしいです。松本さんはエイプリル・フールでは半分が英語詞だった事で失敗したと感じていて、日本語によるロックを創造しようと燃えていました。

しかしながら、作曲と歌を担当する師匠は日本語で洋楽の様な曲を書くのは困難と考えていて、松本さんの詞を全てローマ字にして其れに曲を付けたりしていたそうです。細野さんも日本語詞には反対する立場ながらも曲を書いていますが、ライヴでは基本的には細野さんが書いた曲も師匠が歌っています。此の「ゆでめん」に収録された曲では「春よ来い」と「かくれんぼ」と「十二月の雨の日」と「いらいら」と「朝」が師匠の曲で「いらいら」は詞も師匠です。他の5曲は細野さんの曲ですが、「あやか市の動物園」では師匠と細野さんのデュエットで、「はっぴいえんど」は師匠が歌っています。それで「松本が詞を書き、大瀧が曲を書き歌う」のが、はっぴいえんどの基本形とされていました。此のアルバムのレコーディングは1970年4月9日から12日までのたった4日で行われており、演奏スタイルは完全にバッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレープをお手本にした洋楽ロックで、後の「ロンバケ」はおろか「ナイアガラ」の1期とも全く違っています。前述の通りに松本さんだけが其の所謂ひとつの「日本語ロック」への挑戦表明をしている様な状況で、其のサウンドは実にぎこちなく、逆に其の「ぎこちなさ」こそがファーストアルバムの「はっぴいえんど」にしかない魅力です。此の後に別レコーディングしたシングル「12月の雨の日/はいからはくち」が1971年4月1日に発売されますが、ぎこちなさはだいぶ薄れています。

「はっぴいえんどでは松本の詞を歌わされていた」と語った師匠ですが、結局は「ロンバケ」では再びタッグを組む事になります。しかしながら、「はっぴいえんど」と「ロンバケ」では全く世界観が違っているのに、師匠曰く「邪教である日本語の文節を無視した歌唱法」は、しっかりと受け継がれています。「春よ来い」での「お正月と言えばぁ炬燵を囲んでぇお雑煮を食べなぁがらぁ歌留多をしてぇた、もおおのおおおーです」と「恋するカレン」での「キャンドルをぉ暗くぅしぃてぇ、すうろおおおおな曲がぁかかるとぉ」は同じであって、特に後者は歌謡へ持ってゆく為に英語までもを解体してしまっているのです。此のアルバムが「ニューミュージック・マガジン」で「日本のロック賞」を取ってしまった事が原因で「日本語ロック論争」に発展したりするのですが、此処にあるのは「洋楽ロック」とは違う「日本語ロック」ではあるものの、完成形ではないのです。はっぴいえんどが「日本のロックの出発点」などと持ち上げられるのは、後に松本さんが作詞家として大成功したり、細野さんがYMOで世界的に成功したり、茂が敏腕ギタリストでアレンジャーになったり、師匠が「ロンバケ」で大成功したりとメンバー4人が出世したから云われているのであって、はっぴいえんどは過大に再評価され過ぎていると思います。日本語ロックに果敢にも挑戦したのは此の「はっぴいえんど」だけで、次の「風街ろまん」では詞と曲がマッチしてしまいます。其れは最早「日本語ロック」ではなく「ニューミュージック」とか「シティーポップ」とか奇妙なジャンルになるので、当時を知るミュージシャンなどからは「はっぴいえんどはロックではなく、フォーク」と云われる事となるのでした。

(小島イコ)

posted by 栗 at 21:00| ONDO | 更新情報をチェックする