w & m:HARRISON
P:ジョージ・マーティン('70-1/3)、グリン・ジョンズ('70-1/5)、
フィル・スペクター('70-3/23、4/1、2)
E:フィル・マクドナルド('70-1/3)、グリン・ジョンズ('70-1/5)、
ピーター・ボーン('70-3/23、4/1、2)
2E:リチャード・ランガム('70-1/3)、グリン・ジョンズ('70-1/5)、
ロジャー・フェリス('70-3/23、4/2)、リチャード・ラッシュ('70-4/1)
録音:1970年1月3日(take 1-16)(アルバム「GET BACK」改訂版に収録)、
4月1日(take 16 を編集し take 17-18、take 18 に SI 「オーケストラ、ドラムス」)
(アルバム「LET IT BE」に収録)
STEREO MIX:1970年1月5日(take 16 より 1)、3月23日(リミックス 1-3 を編集し 2)、
4月2日(take 18 より 10-12、11と12を編集)
1970年5月8日 アルバム発売 (「LET IT BE」 A-4)
アップル(パーロフォン) PCS 7066(ステレオ)
ジョージ・ハリスンが書いた楽曲で、1969年1月の「THE GET BACK SESSIONS」でリハーサルが行われるものの正式レコーディング曲には採用されません。ゆえに、幻のアルバム「GET BACK」の第一版(1969年5月)には未収録です。然し、映画「LET IT BE」に此の曲のリハーサル場面が使われる事となり、1970年1月3日に正式レコーディングされました。映画では、ジョージ・ハリスン、ポール・マッカートニー、リンゴ・スターの三人でリハーサルされ、ジョン・レノンはヨーコと踊っていました。奇しくも、正式レコーディング時にもジョンは休暇中でデンマークに居たので、他の三人で行われました。翌1月4日に「LET IT BE」(1969年1月31日に録音した take 27)にオーヴァー・ダビングを加えたのがジョンを欠いた三人のビートルズが行った最後の録音で、其の後フィル・スペクターによってオーケストラなどのオーヴァー・ダビングがビートルズ名義で行われていますが、演奏に参加したビートルズのメムバーはリンゴ・スターのみです。ゆえに、ビートルズが最後にレコーディングした楽曲は、皮肉なことに「THE GET BACK SESSIONS」でボツにされ録音もされなかったジョージ作の「I ME MINE」となったのです。グリン・ジョンズは「GET BACK」の改訂版(1970年1月)に「I ME MINE」を加えますが、其の時はレコーディング通りの「1分34秒」しかありませんでした。
フィル・スペクターに任されて、此の楽曲は一変します。まず、スペクターは曲の長さを「2分25秒」に引き伸ばし、オーケストラをオーヴァーダビングし壮大なアレンジを施しました。こうしたスペクターの仕事ぶりを熱心に見学し感銘を受けたジョージ・ハリスンは、1970年11月発表のソロ・アルバムで三枚組「ALL THINGS MUST PASS」のプロデュースも引き続き依頼し、其れはジョージ・ハリスンとフィル・スペクター両者にとって輝かしい栄光をもたらすのです。アルバム「LET IT BE」がなければ、其の後のジョージ・ハリスンやジョン・レノンのソロ作品へ繋がらなかったのですから、途轍もなく重要な作品と云えるでしょう。事実、スペクターに依頼した時にジョンは「俺たち(其れは時期的に考えてビートルズと云うよりも、依頼したジョンとジョージを指していたとも思われる)と仕事したいなら、このクズ音源を何とか聴けるようにしてくれ」と云っており、ジョンとジョージによるテストだったのでしょう。其れに満足したからこそ、ジョンとジョージは其の後もスペクターと組むのです。「I ME MINE」は、ジョージ・ハリスンが自伝のタイトルにしており、思い入れもある曲です。其の自伝を読んだジョン・レノンは、「何で、俺様の事をほとんど書いてないんだ?アレだけガキの頃から可愛がってやったのに、あいつの人生にとって俺様はその程度ってことか!」と激怒し、当時は引退状態だったのにジョージを揶揄した楽曲「The Rishi Kesh Song」(「ジョン・レノン・アンソロジー」などで聴けます)を書きました。ジョージは「ジョンはポールを特別扱いしていて、僕とリンゴの事はよく見てなかったんじゃないか?」と反論しています。
そして、此の「I ME MINE」で歌われている「自己中野郎」とは、ズバリ!ポール・マッカートニーだと云われています。ジョージは自分を軽んじるポールに対して憎悪しており、其の鬱憤を曲にしたと推察できるのです。映画「LET IT BE」での喧嘩場面を観ると確かに二人の関係は険悪そのもので、事実ジョージは脱退騒動まで起こしてしまいます。アルバム「ALL THINGS MUST PASS」にも「WAH-WAH」と云うポールを揶揄した楽曲が収録されています。然し!ポールは平然と「I ME MINE」でベースを弾いてコーラスをつけており、ジョージの追悼コンサートでは「WAH-WAH」に参加していたのだ。ポールって、バカなの?いえ、ジョンが自分を攻撃した「HOW DO YOU SLEEP ?」には過剰反応し「DEAR FRIEND」とすぐさま返答しています。よーするに、ポールにとってジョージはそれほどに取るに足らない存在だったのだ。スクール・バスで知り合ったジョージを、バンドに推薦したのはポールです。ポールにとっては、「ボクが推したからこいつはビートルズに入れた」と云う優越感がずっと続きました。「アンソロジー」の映像版で、当時50代のポールは「ジョージはボクの二歳年下でさ。10代の頃から可愛い弟分なのさ」なんぞと云い、其れを聞いたジョージが「ポールと僕は半年くらいしか違わないから同い年(ポール:1942年6月生まれ、ジョージ:1943年2月生まれ)だよ。アノ人は、まだそんな事すら分かってないんだよナァ」と呆れ返っていました。
(小島藺子)