w & m:HARRISON
P:ジョージ・マーティン
E:フィル・マクドナルド、ジェフ・エマリック(8/11-19)
2E:ジョン・カーランダー(7/7-8、8/11)、アラン・パーソンズ(7/16-8/6、8/15-19)
録音:1969年7月7日(take 1-13)、
7月8日(take 13 に SI 「歌、コーラス」、編集し take 14-15)、
7月16日(take 15 に SI 「手拍子、ハーモニウム」)、
8月6日(take 15 に SI 「ギター」)、
8月11日(take 15 に SI 「ギター」)、
8月15日(take 15 に SI 「オーケストラ」)、
8月19日(take 15 に SI 「モーグ・シンセサイザー」)
STEREO MIX:1969年8月19日(take 15 より 1)
1969年9月26日 アルバム発売 (「ABBEY ROAD」 B-1)
アップル(パーロフォン) PCS 7088(ステレオ)
アルバム「ABBEY ROAD」のアナログ盤ではB面一曲目を飾る、ジョージ・ハリスン作の爽やかな名曲です。「ABBEY ROAD」からは「SOMETHING」がシングル・カットされ全米首位の大ヒットとなり、此の「HERE COMES THE SUN」も日本でのみシングル・カットされ、ジョージが提供した二曲ともが名曲として認知されました。実質的なビートルズのラスト・アルバムで打率十割!と云う快挙は、翌1970年の本格的なジョージのソロ・デビュー作で三枚組の「ALL THINGS MUST PASS」を大ヒットさせ「ビートルズが解散して、最も得した男」と賞賛されます。其れ以前にジョージはサントラ盤の「不思議の壁」と実験作と称するガラクタ「電子音楽の世界」をリリースしていて、やっぱりジョージはヘンテコリンな奴だと思われていたギャップも大きかったかもしれません。
バディ・ホリーに影響されたと思われるキャッチーなメロディーに、アコースティック・ギター中心の温かいアレンジ、更にジョージによるモーグ・シンセサイザーの効果的な使い方(何度も云いますが、ジョージはお気楽な気分で「電子音楽の世界」なんぞと云うガラクタ盤を出したわけじゃなかった!)、そして希望に満ち溢れたポジティブな歌詞と、非の打ち所がない名曲です。然し此の曲は、アップルでの経営会議に疲れ果てたジョージがサボタージュし、親友のエリック・クラプトン宅へ遊びにゆきお庭でのんびりしている時に浮かんだのだそうです。自分たちで望んで設立した会社アップルですが、ビートルズは経営に関してはど素人ですから音楽部門以外は次々に大失敗します。ポールも「YOU NEVER GIVE ME YOUR MONEY」などアップルの経営困難を題材にした曲を書いており、しかも後にWINGSで発表した大ヒット曲「BAND ON THE RUN」もアップルの経営会議でジョージ・ハリスンが発した言葉から発想しています。
ジョン・レノンが交通事故で入院中に録音が開始されましたので、演奏はジョージ、ポール、リンゴの三人で行われています。ジョンは復帰後に手拍子で参加したとも云われておりますが、ほとんど関与していません。ジョージが弾くモーグ・シンセサイザーと共に効果的なのが、ジョージ・マーティンが指揮したオーケストラです。アルバム「ABBEY ROAD」のB面は、三曲目の「YOU NEVER GIVE ME YOUR MONEY」からメドレーが始まります。然し、一曲目の「HERE COMES THE SUN」と二曲目のジョンが書いた「BECAUSE」(そちらでも、ジョージが弾くモーグ・シンセサイザーが好い!)も含めて、片面全体がメドレーと考えてもいいでしょう。其のB面でのシンフォニックな展開のイニシャティヴを取ったのは、明らかにジョージ・マーティンとポール・マッカートニーです。マーティンとポールは、再び「SGT. PEPPER'S LONELY HEART'S CLUB BAND」の頃に立ち返ってガッツリとタッグを組んだのです。
其れは、特にマーティンが望んだ事で張り切ってスコアを書き、見事にメドレーを交響曲的に盛り上げております。ポールに「ABBEY ROAD」のプロデュースを依頼された時に、マーティンは「私に指図する様な無礼な振る舞いは二度としないと誓ってくれなければ、断る!」とハッキリと云っております。やっぱりマーティンは「OB-LA-DI, OB-LA-DA」での屈辱を根に持っていたのだ。ジョンもトンデモな要求をスタッフに平気でし捲くりましたけど、上手い具合に「マーティン、キミなら出来るだろ?」などと相手のプライドを立てていました。そーゆー相手に対する気配りが天然バカボンのポールには全くないから、気が付いたらハブにされちゃったのよさ。とは云え、ビートルズとして演奏するとなればそんな険悪な関係は何の其のとばかりに、「HERE COMES THE SUN」でもジョージとポールによる素晴らしいコーラスが聴けます。ナンダカンダ云っても、二人は中学校からの仲ですからね。
ジョージもお気に入りの自信作のようで、ソロになってからも1972年のバングラデシュ・コンサートや、1991年の来日公演などで披露しています。1976年には「サタデー・ナイト・ライヴ」でポール・サイモンと二人でアコースティック・ギター弾き語りでデュエットしてもいます。更に、なな、なんと、1979年のソロ・アルバム「慈愛の輝き(原題は、ズバリ!GEORGE HARRISON)」では「HERE COMES THE MOON」と云うセルフ・パロディまで発表してしまいました。何気にイントロが1969年にポールがメアリー・ホプキンに提供した名曲「GOODBYE」にソックリだったりもして、芸が細かい!ジョージは、ラトルズのTV映画にも出演しておりましたし、元々モンティ・パイソン人脈との交流は深いので、そう云うユーモア・センスは抜群です。
「WHILE MY GUITAR GENTLY WEEPS」や「HERE COMES THE SUN」が日本でのみシングル化されたり、世界的なセールスではイマイチだった「慈愛の輝き」が愛される様に、日本人はジョージが大好きなのです。1982年の「GONE TROPPO」は確かに全世界的に散々なセールスでしたけど、内容に関して「裏切られた!」とか「こんなの、金持ちの道楽だ!」とかボロクソに叩き捲くったのは日本だけでしょう。つまり、其れだけジョージに期待していたのです。だから、1987年に「CLOUD NINE」で大復活した時の「手のひら返しの大盛り上がり」は尋常ではありませんでした。ジョージ本人もそんな日本のファンを知っていたからこそ、生涯最後となってしまったライヴ・ツアーを日本でのみ行ったのでしょう。
(小島藺子)