

w & m:HARRISON
P:ジョージ・マーティン(7/25、8/16、10/7)
E:ケン・スコット
2E:リチャード・ラッシュ(7/25)、ジョン・スミス(8/16、9/3-6)、マイク・シーディ(10/7)
録音:1968年7月25日(take 1)、
1968年8月16日(リメイク take 1-14、take 14 を編集し、take 15)、
1968年9月3日(take 15 をコピーした take 16 に SI 「ギター」)、
1968年9月5日(take 16 に SI 「歌、マラカス、ドラム、ギター」、再リメイク take 17-44)、
1968年9月6日(take 25 に SI 「ギター、ベース、オルガン、打楽器、歌、コーラス」)
MONO MIX:1968年10月7日(take 25 より 1-2)
STEREO MIX:1968年10月7日(take 25 より 1)
1968年11月22日 アルバム発売 (「THE BEATLES」 A-7)
アップル(パーロフォン) PMC 7067-7068(モノ)、PCS 7067-7068(ステレオ)
ジョージ・ハリスンが書いた名曲。「ホワイト・アルバム」のレコーディングが開始されてから二ヶ月近く経って、ようやく自作を取り上げる機会を得たジョージは自信作を弾き語りで録音しました(7/25)。其れはデモと云ってもよく、さらに半月以上経った「8/16」にリメイクします。9月になって、リンゴが戻ってきてから再リメイク(9/5)し、翌日(9/6)にリード・ギターをエリック・クラプトンに任せて、ポールのファズ・ベースとコーラス、ジョージの歌やオルガン、リンゴのパーカッションなどを加えて完成しました。完成版のベーシック・トラックでは、ジョージ(歌、アコースティック・ギター)、リンゴ(ドラムス)、ポール(ピアノ)、ジョン(リード・ギター)の布陣ですので、クラプトンが加えたリードの他にジョンが弾いた部分も残っています。よーするに「エレクトリック・ギターは、ジョン・レノンとエリック・クラプトン」なのです。ゆえに、後の「プラスティック・オノ・バンド」へ繋がる曲とも云えます。
エリック・クラプトンは親友であるジョージの提案に「ビートルズのセッションに参加するなんて、畏れ多い」と断ろうとしましたが、ジョージが「何を云ってるんだ。僕が書いた曲だぞ!ビートルズじゃなくて、僕が書いた曲を、僕自身が君にギターを弾いて欲しいと頼んでいるんだ」と説得し参加させました。其れは、当時に険悪だったスタジオの雰囲気を変えようとジョージが意図した事でもあり、実際にクラプトンが参加するとジョンとポールはよそいきの態度に変わったらしいです。同じ試みを翌年の「THE GET BACK SESSIONS」が煮詰まってジョージが脱退した時にも、ビリー・プレストンを連れて帰って来る事で再現しております。でも、其の時にジョンは「ジョージが戻って来なかったら、クラプトンを呼べばいい」とぬかしやがりますけどね。
此の楽曲は、基本的にはジョージ・マーティンがプロデューサーとして関わっておりません。かと云って、代わりにクリス・トーマスが担当したわけでもなく、完全にビートルズ自身がセルフ・プロデュースして完成させてしまいました。どうも「ホワイト・アルバム」の場当たり的なレコーディングにマーティンは乗り気でなかった様子で、ビートルズに好き勝手にやらせていたみたいです。挙句に、休暇を取って職場放棄しちゃうのです。戻って来てからオーケストラのアレンジなどで手腕を発揮し、当然乍ら自分がプロデューサーとして「厳選した名曲を選んで一枚にするのだ」と主張します。然し、ビートルズは拒否し二枚組で強行してしまうのです。次の「THE GET BACK SESSIONS」でもマーティンは投げやりで、本気になるのは「ABBEY ROAD」まで待たなければなりません。
ジェフ・エマリックがスタジオを出てしまった原因(ポールがマーティンに横柄な態度をとった)を考えると、ジョージ・マーティン自身こそが最も激しくプライドを傷つけられたのは間違いないでしょう。何とか大人の対応で接してはいたものの、はらわたが煮えくり返っていたわけで、そうでなければ新人のクリス・トーマスに丸投げして休暇を取るなんて事はしていないはずです。正に現場は混沌としており、其れはサウンドにもハッキリと現れています。然し、其の混沌とした現状を其の侭で二枚組にまとめてしまったのが「ホワイト・アルバム」の魅力なのです。
此の楽曲は、ジョージ・ハリスンの代表曲のひとつであり、ソロになってからのライヴでも定番曲でした。1991年の来日公演では、アンコールで披露され、ジョージ・ハリスンとエリック・クラプトンによるリード・ギターの競演を観ることが出来ました。ジョージの追悼コンサートでは、ポール・マッカートニーがピアノ、リンゴ・スターがドラムス、エリック・クラプトンがリード・ギターで参加し披露されました。1975年には続編と云える「ギターは泣いている THIS GUITAR(CAN'T KEEP FROM CRYING)」まで発表しています。二番煎じと云われシングルは売れなかったのですが、後のセルフ・パロディ「HERE COMES THE MOON(1979年)」や「WHEN WE WAS FAB(1987年)」の先駆けだったのかもしれません。
(小島藺子)
【関連する記事】