あたくしがブログを始めたのは「2004年8月8日」で「COPY CONTROL」と云う名前でした。当時の片瀬那奈ちゃんは「歌手」でしたが、月イチのイベントが頓挫したり、新作がカヴァーだったりと迷走しておりまして、こりゃイカン!とばかりに「片瀬那奈ちゃん応援サイト」を立ち上げたのですが、何故か「コピコン」は「片瀬那奈ちゃんサイト」とは認識されず、逆に「片瀬那奈の記事が邪魔だ」と非難される様になったのでした。其れで「2004年12月29日」に此処を分家したのですが、案の定こっちは半年間は毎日の訪問者がひと桁で、酷い日にはあたくしを含めて「たったの三人」となったのです。「此れは変だ!」と思いまして、ドドンガドン!と気持ちは「ゼンキロ」へと傾き、気が付けばこちらがメインとなり吸収合併となったのでした。
でもですね、此処が始まった2004年当時の状況を考えると、人気がなかったのも頷けるのです。何せ、前回に蒸し返した通り、あたくしは当時の最新作であった「ラストクリスマス」に絶望し「片瀬那奈は終わった」と思い「ならば、輝かしい過去の記録だけは遺そう」とのモチベーションで此処を始めたのですからね。女優・片瀬那奈の最大最悪の駄作である「ラストクリスマス(2004年)」で女優回帰した片瀬クンは、続けて「月9連投」となった「不機嫌なジーン(2005年)」にも出演しました。第4話、第5話、第7話(回想シーンで第6話にも出演)とのゲスト出演ではありましたが、天下の「月9」に2クール続けて出演すると云う破格の復活劇を用意され、CM「AUBE」と其れに連動した大量の女性誌への露出と「第二期女優時代」は最高のスタートを切ったと思われました。然し、あたくしは「ドッチラケ」だったのです。面白くも何ともない展開が続くのですから、応援にもチカラが入らないわけですよ。
ズバリ云って、2004年当時には「たぶん、片瀬クンは近いうちに結婚引退する」と予想しておりました。女優復帰作の「ラストクリスマス」と続く「不機嫌なジーン」での演技を観て、もう「伸びしろは無い」と観念しました。幾らゲストとは云え「不機嫌なジーン」での使われ方(一応、主役の恋敵として登場するも置き去りにされ、其の後どうなったかも描かれない端役)はあんまりでした。次作となった「離婚弁護士II ハンサムウーマン」では盛り返しますが、其の路線では到底「第一期女優時代」の弾けっぷりには及ばないとも思えたのです。あたくしは「第一期女優時代」の片瀬那奈ちゃんが大好きですが、其れは「那奈ちゃんがアイドルだった」からです。歌手時代も変わらず「那奈ちゃんはアイドル」でした。でも、女優復帰した片瀬クンは「アイドルではありません」と云っている様に感じられたのです。つまり「本格派女優さんになるのだ」と決めたと思えました。だったら「ダメ」なのよさ。「アイドルじゃなくなったからダメ」なのではなく「女優としてダメ」って事です。つづく主演作「香港バタフライ」や「いい男はマーケティングで見つかる」で脇役に食われ捲くる姿を観るに至っては「ダメだ、こりゃ」としか思えませんでした。
ところが、そんな中で、2005年に片瀬クンは「残り夏」や「浜ちゃんと!」などのバラエティ番組でギラリと光る演技を魅せるのでした。箍が外れた異様な演技が「小早川伸木の恋(2006年)」「ビバ!山田バーバラ(2006年)」「デスノート the Last name(2006年)」などで盛り上がり「西豪寺エレナ様」で爆発します。所謂ひとつの「怪優開眼」へと向かった「第二期女優時代」ですが、其処に至るまでには、確かに渡哲也さん(「熟年離婚(2005年)」)や松本幸四郎さん(「信長の棺(2006年)」)などの重鎮との共演も大きかったでしょうが、見逃せないのがバラエティ番組での活き活きとした姿です。そして、片瀬那奈ちゃんは、やっぱり「アイドル」でした。「アイドル」のまんまで「本格派女優」へと向かったのです。こうして「第二期女優時代」の噺をふたたびしてしまうのは、此の頃の片瀬クンも堪らなく好きだからです。
「不機嫌なジーン」INDEX
(小島藺子)