
1954年12月22日「昭和の巌流島決戦」と謳われる「力道山X木村政彦」が行われました。「実力日本一決定戦」に蔵前国技館が超満員となり、テレビ中継は視聴率が「100%」だったとも云われています。此の試合で、力道山が一方的に木村を叩きのめしてしまった事で「力道山最強」が確定した様です。但し、エリオ・グレーシーも真剣勝負で破った木村の敗戦には謎が多く、実は此の試合を「お互いに勝ったり負けたりするシナリオで全国巡業する予定だった」とも云われています。第一戦は「引き分け」とのブックがあったのに力道山が「ブック破り」で勝ってしまったとか、木村は奥さんの病気治療代の為にお金が必要だったとか、裏話があります。
もしも打ち合わせ通りに「二人の名勝負数え唄」が展開されていたり、逆に木村がガチで力道山の腕を折ってしまったりしたならば、間違いなく「日本のプロレス史」は変わっていたでしょう。勿論、あたくしも生まれる前の試合ですのでリアル・タイムでは観ておりませんが、現在では「ようつべ」で簡単に視聴する事が出来ます。「ブック破り」と云うと、あたくしが思い出すのは「高田X北尾」と「橋本X小川」ですが、モノクロ映像で観る「力道山X木村」は、「橋本X小川」にソックリで驚きました。「高田X北尾」は「引き分け」の予定を高田が破ってハイキックで北尾をノックアウトしたと云われています。此れは、北尾も「約束を破られた」と云っており、高田も「イイの入っちゃったからさ」と認めています。不意打ちのハイキックで決まってしまったので、凄惨な試合にはならず当時は「高田最強!」と賞賛されました。
「力道山X木村」は、序盤からは明らかに「プロレス」を展開しています。ところが、木村のキックが金的に当たったとして「いきなりだナァ」と激高した力道山が、木村に張り手の連打を決め、戸惑う木村がレフェリーに抗議しても構わず前蹴りから張り手でダウンを奪います。此処からがエゲツなくて、倒れた木村に力道山は顔面を蹴り捲くり、挙句に頭部を踏みつけるのでした。何が起こったのか理解出来ない木村は立ち上がるも、狙いすました張り手の連打で失神してしまいます。此の一連のムーブが「橋本X小川」の第三戦と酷似しています。1999年1月4日に行われた「橋本X小川」の第三戦は、其の後の「橋本X小川」を東京ドームのメインエベントとして興行する発火点となった試合でしたが、明らかに「力道山X木村」を雛型としていたと思えるのです。特に、小川がパンチの連打で橋本を倒してから顔面に蹴りをぶち込み踏みつける展開は、「力道山X木村」と「全くおんなじ」ではありませんか。
然し乍ら「橋本X小川」は、其の後の展開を演出した事で「力道山X木村」の様な「後味の悪さ」を回避しました。結局、橋本は其の後にシングルで小川に勝てず、一度は「負けたら引退」と宣言し、実際に引退に追い込まれます。挙句の果てには復帰して、小川と「OH砲」を結成する事となりました。「死闘を繰り広げた同士だから生まれた友情」と云うのは、実に「プロレス」らしい展開でしたが、小川も橋本としか「決定的な名勝負」を残していないんです。所謂ひとつの「手が合う」関係だったのかもしれません。あたくしは、橋本がシャムロックと対戦すると宣伝された東京ドーム大会に其のカードを目当てに足を運んだのですが、出て来たのは小川直也でした。心底ガッカリしたのですけど、化けましたね。そう云えば「橋本X小川」の二戦目は、橋本が「倒れた小川の後頭部に蹴りを入れて決まった」のでした。普通に考えたら「三戦目で小川はやり返しただけ」なのだよ。でも、そうじゃなかったからトンデモな事になったわけです。三戦目が「ガチ」と云うか「ブック破り」だったのですから、二戦目までは「シナリオ通り」となってしまうのだよナァ。ま、其れでもええんだけどさ。
(小島藺子)