ポールは1976年3月にWINGSとして「スピード・オブ・サウンド」を発表します。前年1975年から始まった世界ツアーは5月から6月へかけて全米ツアーを控えており、其の前振りとして出したアルバムはまたしても大ヒットします。ライヴ・バンドとしても絶好調だったので、ポールは約半数の楽曲で他のWINGSメムバーにヴォーカルを任せ「バンドWINGS」を強調しましたが、矢張りメインとなるのはポールが歌う曲でした。リンゴは9月に移籍第一弾アルバム「リンゴズ・ロートグラビア」を発表、御馴染みのジョン、ポール、ジョージの援護も受け、バックにはエリック・クラプトン、ニルソン、ピーター・フランプトン、ドクター・ジョン、ジェシ・エド・デイヴィスなど豪華なゲストを迎え、敏腕プロデューサーのアリフ・マーディンが制作した作品でしたが、「リンゴ」や「グッドナイト・ウイーン」ほどは売れませんでした。ジョンが書きピアノでも参加した「クッキン」は、引退前の最後のレコーディング(1976年4月)で、ジョンは1980年の「ダブル・ファンタジー」まで完全に引退状態となります。
ビートルズのEMIとのレコーディング契約は1976年2月に満了しましたが、EMIには過去のビートルズ作品から編集盤を出す権利が残されたのです。其処で早速6月に二枚組の「ロックンロール・ミュージック」が発売されます。1973年の「赤盤」と「青盤」以来の正式な編集盤で、其の後は毎年の様に「ビートルズの新作」が乱発されてゆくのです。ジョージだけがスットコドッコイなベスト盤を出されたのは、ジョンとリンゴがまだEMIとの契約中だった1975年に出したのに、ジョージは契約が切れた後の1976年になってしまった事にも原因はあるでしょう。「ロックンロール・ミュージック」は単に過去のロケンロール楽曲を寄せ集めただけの編集盤にも関わらず、英国では10位まで上がり米国ではミリオン・セラーとなり全世界的にヒットしました。「矢張り、ビートルズは売れる」と分かったEMIとしては、ジョージのソロだけでなくビートルズも入れたいと考えるのは当然です。
前述の通り、ジョージは11月19日に移籍第一弾アルバム「33 1/3」を発表しますが、翌日に「THE BEST OF GEORGE HARRISON」を出されてしまいます。まるで「PET SOUNDS」の時のビーチ・ボーイズ(キャピトルは大胆な路線変更となった「PET SOUNDS」が過去のアルバムよりも売り上げが低いと判断し、直後に勝手にベスト盤をリリースし、皮肉にもベスト盤の方が売れてしまった為にブライアンは深く傷つき「ラリラリパッパラパー」となってゆく)の如き仕打ちを受けます。「33 1/3」はAOR路線のなかなかの良作ですが、当時のジョージはトラブル続きで散々でした。そもそもダーク・ホースはA&Mとレーベル契約していたのですが、ジョージはEMIとの契約でソロ作品を出せず新人のレコードばかりA&Mから出していました。ようやくジョージのソロも出せるとなり、1976年6月25日(ジョージが「33 1/3」歳になる日)にリリースが決まったもののジョージは締め切りに間に合わず、怒り狂ったA&Mに「訴えてやる!」と詰め寄られ、違約金を肩代わりしてもらう条件でレーベルごとワーナーへ移籍しました。更に、有名な「マイ・スウィート・ロード盗作問題」が裁判となり9月に「潜在意識による盗用」と云う訳の分からない理由でジョージが敗訴します。大瀧師匠は「アノ裁判官は、音楽の事を何も分かってないね」と語っております。
そんな苦境の時でしたが、ジョージは「33 1/3」からシングル・カットされた「THIS SONG」では盗作裁判をコミカルに歌い、美しい楽曲「愛のてだて」では「僕は君を愛そうとつとめている」なんぞと歌いA&Mの重役に捧げているのです。う〜む、ジョージは「お人よし」ですね。余談ですが、此の当時に渡英した中村雅俊さんがジョージと会っています。まーくんの感想は「ジョージに口ひげがなくて吃驚した」でした。パティとの離婚問題も抱えていたジョージは「33 1/3」発表後に趣味の「F1観戦」などに明け暮れる日々を送り、あわや「ジョンに続いて引退か?」とも思えるほどに音楽への興味を失ってしまいます。次のアルバム「慈愛の輝き」は二年半後の1979年2月まで待たされることとなります。リンゴはドドンガドンドン!と落ちぶれて、1970年代後半はポールの「ひとり勝ち」状態が続いてゆくのでした。
(小島藺子)
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