1973年9月から1975年3月までの約一年半、ジョンはヨーコと別居しロスで暮らします。此の期間は「失われた週末」と呼ばれ、ジョンは酒浸りで暴力事件を起こすなどスキャンダラスな話題も提供し、「愛と平和のレノン」的には「黒歴史」とされています。然し乍ら、メイ・パンと同棲していたとは云え、久しぶりに「独身気分」となったジョンは精力的にレコーディング活動を行いました。其の成果は、1974年9月発売のアルバム「心の壁、愛の橋」や1975年2月発売のアルバム「ロックン・ロール」と二枚のソロ作品となります。個人的には「リアル・タイムのジョン・レノン」が此の時期からだったので思い入れもありますし、完成度も高い作品だと思います。
其ればかりではなく、1974年3月発売のニルソン「プシー・キャッツ」(リンゴも参加)を全面プロデュースし、11月発売のリンゴ・スター「グッドナイト・ウィーン」でもタイトル曲を提供、演奏でも参加、シングルでヒットしたカヴァー曲「オンリー・ユー」でも全面的にバックアップし(元々、ジョンが「ロックン・ロール」で取り上げる予定をリンゴに譲ったと云われています)、CMのナレーションまで務めています。更に、エルトン・ジョン、ミック・ジャガー、デビッド・ボウイとも共演し、エルトンとの共演作シングルは二曲共全米首位を獲得しました。ジョン・レノン名義での「真夜中を突っ走れ」は、なな、なんとビートルズ解散後で初めての全米首位でありまして、つまりジョンが他の三人よりも後で商業的な成功を収めた事となります。
エルトンやボウイとはビートルズ時代のセルフ・カヴァーでも共演していますが、何と云いましても此の時期にポールとの再会が在りました。お遊び程度の音源ですが、海賊盤で1974年3月にセッションした様子も聴けます。其のセッションには、ニルソンやスティーヴィー・ワンダーも参加したと伝えられています。リンゴは前作「リンゴ」の大成功を踏襲した前述のアルバム「グッドナイト・ウィーン」で引き続きヒットを飛ばし、ポールは前年(1973年)末に発表したアルバム「BAND ON THE RUN」が特大ヒットとなり、1974年にシングル・カットした「JET」や「BAND ON THE RUN」も売れ捲くりました。共演したエルトンの「真夜中を突っ走れ」が全米首位になったらステージでも共演して欲しいとの要望が実現し、ジョンが約束を果たしエルトンのマジソン・スクエア・ガーデン公演に飛び入り参加し、エルトンの「粋な計らい」で楽屋でヨーコと再会し、よりを戻します。此のエルトンの「粋な計らい」を「余計な事をしやがって」と思う方々もおられるでしょう。
さて「ビートルズが解散して一番得した男」ジョージは、「レノマカの逆襲」となった1974年に迷走します。親友クラプトンに奪われた妻パティと1月頃から別居し、心機一転「ダーク・ホース・レコード」を5月に設立するも契約問題で自作はアップルからのリリースが続きます。11月から12月に掛けて、26都市全45公演と云う「解散後のビートルズで初の全米ツアー」を強行しますが、ツアー前の煽りで発売を予定していた「ダーク・ホース」は進まず、渡米後もやっつけ仕事で録音する事となり、米国では11月、英国では12月の発売となりました。多忙なスケジュールでジョージは体調を崩し、アルバムでもツアーでも喉を枯らした不完全な状態となり不評を買いました。解散後に順風満帆だったジョージも壁にぶち当たってしまったのです。とは云え、アルバムには「FAR EAST MAN」と云う特大名曲が収録されていますので、侮れません。
「志ん生の噺はいつも聞けるが、寝てる志ん生はなかなか見れない。寝かしときな」って逸話がありますが、「ジョージのハスキー・ボイスは、なかなか聴けない」し、「片瀬那奈ちゃんの風邪声の歌は、なかなか聴けない。しかも鼻をすすってる姿なんざ、滅多に拝めないお宝だ」と、所謂ひとつの「通」なら云いたいところです。ジョージも「サッチモみたいで好いじゃん」と、ポジティブに語っておりました。1974年にポールはアルバムを出していませんが、「BAND ON THE RUN」の成功に胡坐をかかず、6月から新作をナッシュビルで録音しております。10月に発売されたシングル「ジュニアズ・ファーム」は、新生WINGSによる最高にカッコいいロケンロールです。あたくしは、此の曲のプロモを観てベースを始めました。
(小島藺子)
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