1973年6月にポールはシングル「007 / 死ぬのは奴らだ」を発売します。此の楽曲は、ビートルズ時代以来初めてジョージ・マーティンがプロデュースを担当した楽曲で、いよいよポールの逆襲を予感させる傑作となりました。1971年にニューヨークに移住したジョンは、反体制活動家との交流で政治的な活動を行いアメリカ国家から目を付けられ何度も国外退去命令を出されていました。プレッシャーに耐えかねたジョンは、1973年9月にヨーコと別居しロスへ逃亡します。同行したメイ・パンは「ヨーコ公認」だったそうです。
さて、1973年は「赤盤」と「青盤」の大ヒットもありましたが、其れに乗じてトンデモな事が起こりました。11月にリンゴが発表したアルバム「RINGO」が大ヒットしてしまったのです。先行シングル「想い出のフォトグラフ」は全米首位!アルバムも全米2位!と「ビートルズではアルバムで一曲しか歌わない人」としては考えられない様な快挙を成し遂げてしまいました。とは云えカラクリがありまして、此のアルバムには「ジョン、ポール、ジョージ」が参加しているのです。解散して初めて四人が同じ作品に名を連ねたのですから、もう話題性抜群ですよ。
ジョージは「想い出のフォトグラフ」など三曲をリンゴと共作(いや、絶対ジョージがひとりで書いたに決まってる)、ポールは「シックス・オクロック」を提供し共演し(ロング・ヴァージョンではほとんどポールが主役になり、WINGSにリンゴが客演した状態になる)、第二弾シングル「ユア・シックスティーン」(なな、なんと此れも連続で全米首位!)にもマウス・サックスで参加、更にアルバム冒頭を飾るジョンの作品「アイム・ザ・グレイテスト」では、ジョン、ジョージ、リンゴ、ビリー・プレストン、クラウス・フォアマンでの演奏と云う「ポールだけいないビートルズ」まで実現したのです。でもですね、クラウスは「シックス・オクロック」でもベースを弾いているんですよ。ポールの曲でポールがほとんどの楽器やコーラスも担当しているのに、ベースはクラウスなのです。ビートルズの四人は、この頃にはかなり関係が良好になって来たのでしょう。
アルバム「RINGO」と同じ11月にはジョンのアルバム「MIND GAMES」が発売されます。単独名義(つまり其れはマトモな作品とも云える)では三作目ですが、「ジョンの魂」や「イマジン」の様な緊張感は感じられません。タイトル曲を始め佳作が多いのですが、どうにも「ビシッ」としたレノンらしさが欠けた「腑抜け」の様な出来栄えです。其れは其れで味わい深いとも云えるのですが、前年(1972年)の「ワン・トゥ・ワン・コンサート」辺りからジョンのテンションが下がっていたと思わされます。そして、主役のポールですけど、彼も大変な事になっていました。折角WINGSが地道なライヴ活動やアルバム「RED ROSE SPEEDWAY」で盛り上がって来たのに、なな、なんと、リードギタリストとドラマーが脱退してしまったのです。ジョージとリンゴが売れて、ジョンとポールが堕ちてゆくなんて「在り得ない事態」が起こってしまったのでした。
ポールは新作をナイジェリアのラゴスで行うと決めますが「アフリカになんか行きたくない」とメムバーが脱退し、奥さんのリンダと下僕デニー・レインの三人でレコーディングを強行します。リンダはほとんど素人ですから実際はポールとデニーだけと云う状況でしたが、其の逆境にポールは覚醒し、ほとんどの楽器をひとりで演奏します。特にドラムはキース・ムーンにも絶賛された程の鬼気迫る熱演でした。そうして完成したアルバム「BAND ON THE RUN」は、1973年12月に発売されます。名義は皮肉にも「ポール・マッカートニーとウイングス」ですが、事実上はポールのソロ作品に限りなく近い作品です。そして、此れが売れました。全英、全米で首位を獲得、世界的なロングセラーを記録し、解散後のポールとしては最高のセールスを記録したのです。
いえ、ポールは常に売れてはいました。只、評価が低かっただけです。其れは、誰もが「ポールはこんなもんじゃない!」と思っていたからでしょう。そして、遂にポールは売れた上に絶賛される事となりました。流石にこんな渾身の作品を出されたら、評論家も褒めるしかありません。ジョン・レノンも「流石はポールだナァ」と絶賛しました。矢張り、ポールはビートルズでした。ポールは「ビートルズである事実」を認め、生涯其れを貫く覚悟を決めたのです。「BAND ON THE RUN」で歌われるバンドとは「WINGS」ではなく「THE BEATLES」なのです。余りにも感動的な傑作と云えるでしょう。
(小島藺子)