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2011年10月30日

「AFTER THE BEATLES」其の肆

SOMETIME IN NEW YORK CITY Red Rose Speedway Living in the Material World


ビートルズが解散状態になって最も得をしたのは、ジョージでした。1970年11月発売の三枚組「ALL THINGS MUST PASS」が「いきなりだナァ」と大ヒットし(英米首位、シングルの「MY SWEET LORD」も英米首位)、1971年8月には「バングラデシュ難民救済コンサート」を開催します。此のライヴには、ラヴィ・シャンカール、リンゴ・スター、エリック・クラプトン、バッドフィンガー、ビリー・プレストン、レオン・ラッセル、ジム・ケルトナーなど豪華なゲストを迎え、更に当時活動休止状態だったボブ・ディランも参加しました。(ジョンも参加を予定していたと云う噺もあります。)翌1972年1月にライヴ盤が発売され、3月に映画も公開されています。ライヴ盤は1972年度グラミー賞で「Album of the Year」に輝いております。正に我が世の春を迎えたジョージは「嗚呼、ビートルズが解散して本当によかったっ」と思ったでしょう。「ほれ見たことか、ポール!」と勝ち誇ったかもしれません。

当時は、ジョン、ジョージ、リンゴの交流は続いていて、それぞれの作品に参加していました。ポールだけがハブにされていたのです。1972年のジョンは政治的な活動が目立って来て、1月に起きたアイルランドの「血の日曜日事件」に対する抗議デモ(2月)に参加します。ポールもシングル「アイルランドに平和を」を2月に発売し、放送禁止になっています。然し、メートルが上がったジョンは4月にシングル「女は世界の奴隷か!」を発売し放送禁止になりますが、ポールが5月に出したシングルは「メアリーの小羊」だったのだっ。とほほ。ジョンは6月に問題作「SOMETIME IN NEW YORK CITY」を発表し、ラジカル度を増してゆきます。ポールはWINGSとしてゲリラ・ライヴを敢行しシングルも乱発しますが、12月に出した「Hi,Hi,Hi」がまたしても放送禁止となります。但し、理由は「ドラッグを連想させるうえに猥褻だから」なのでした。「アイルランドに平和を」には「流石、ポールは同志だ」と認めたジョンも「あたしゃ、カックン!」となる展開です。

1973年になりますと、4月に「赤盤」と「青盤」が発売され大ヒットします。選曲を担当したと云われるジョージは5月にシングル「GIVE ME LOVE」と其れを含むアルバム「Living in the Material World」を6月に発表し、またしてもシングル、アルバム共に全米首位を獲得しました。ポールは3月にシングル「MY LOVE」を発表し全米首位を獲得し、二枚組の構想でWINGSとしての新作をレコーディングしていましたが、レコード会社から「二枚組じゃ売れん!」と云われ、更に「WINGSなんて誰も知らないからポール・マッカートニーとウイングスに改名しろ!」と命令されます。そして5月にアルバム「RED ROSE SPEEDWAY」が発売されました。アルバムも全米首位となり、評価も上向いて来ました。

アルバム「RED ROSE SPEEDWAY」は前述の通り二枚組の構想で、約30曲を録音したと云われています。しかし、実際には9曲(4曲のメドレーをバラしても12曲)で、しかも2曲は「RAM」のボツ音源です。いえ、あたくしは「RAM」のボツ音源を元にした「Get On The Right Thing」と「Little Lamb Dragonfly」が好きなんですけどね。「MY LOVE」は名曲ですし、メドレーも素晴らしいとは思います。然し乍ら、何だか「ピリッ」としない作品です。大体ですね、ジョージと首位争いをするなんて、数年前のポールだったら「考えられなかった未来」だったでしょう。果たしてポールは此の侭で終わってしまうのかっ。


(小島藺子)



posted by 栗 at 16:25| FAB4 | 更新情報をチェックする