w & m:LENNON / McCARTNEY
P:ジョージ・マーティン
E:ノーマン・スミス(1965年)、ピーター・ボーン(1966年)
2E:ケン・スコット('65-10/16、25、29)、ロン・ベンダー('65-10/26)、グレアム・カークビー('66-11/10)
録音:1965年10月16日(take 3)
MONO MIX:1965年10月25日(1)、10月29日(2、3)
STEREO MIX:1965年10月26日(1)、1966年11月10日(2)
1965年12月3日 シングル発売(最高位英米1位)
パーロフォン R 5389(モノ)
ジョン・レノン作で、初の両A面シングル(片面は「WE CAN WORK IT OUT(恋を抱きしめよう)」)として発売され、二曲共全英全米チャートで首位に輝き、世界中で大ヒットした「天下無敵のビートルズ」楽曲です。が、しかし、ジョンとポールは「締め切りに追われて捏ち上げた曲さ」と吐き捨てました。
革新的なアルバム「HELP !」を発表し、同名主演映画第二作も公開され、伝説のシェア・スタジアム公演までやらかした1965年8月を乗り切り、9月は流石にのんびりと過ごしてしまった彼等に、鬼の契約「アルバム年間二枚!」が重く圧し掛かった10月でした。後に「RUBBER SOUL」となるアルバムのセッションを開始せねばならなくなったのです。「曲が無い!」と慌てたレノマカは、必死で書きまくりました。其のセッションから、またもや御丁寧に「アルバム未収録のシングル曲」として「DAY TRIPPER / WE CAN WORK IT OUT(恋を抱きしめよう)」をアルバムと同日に発売するのです。そうです、其の通りです。そんな時にも、彼等は「ファンに二度売りはしないぜ!」の意志を貫いたのでした。だから当時聴いて居た東洋の島国に住む「クリハラ キヨシ 少年」は思ったのです。「他の連中は、なんかダブっちゃうんだけど、ビートルズはダブらないんだよね。信用出来るって思ったよ。」とね。あたくしも、中学校の時に後追いで集め始めて、そう思ったよ。
「なんて真摯な連中なんだっ!」
小手先で書きなぐった曲なのに、こんなにもカッコいいのです。二本のギターとベースによるリフのユニゾンだけで構成されたレノン流の「R&B」です。ジョン、ポール、ジョージによる三声コーラスが目くるめく高見へと登ってゆく様は、最早音楽による「ドラッグ」です。事実、彼等は既にドラッグを常用していました。でも、其れを芸術へと昇華したのです。
ビートルズのカヴァーに最初に興味を持ったのも、此の曲のオーティス・レディング盤を始めとする「黒人アーティスト」による返答でした。元々、ビートルズが黒人音楽への深い敬愛を込めて書いた楽曲群を、言わば本家本元が料理したのです。ゾクゾクする程に刺激的でした。「此れこそが音楽だ!」と10代の頃に貪る様に多様な音楽世界に誘われて行ったのです。
さて、此処で彼等にとって大きな問題が生じました。デビュー以来のプロデューサーで「五人目のビートル」と云われたジョージ・マーティンが1965年8月に「EMI」に辞表を叩き付け独立し「AIR」を設立しやがったのです。本来なら、「EMI」は自社の誰かを後任にしたかったでしょう。しかし、ビートルズにはマーティンが必要でした。其れを知っていたからこその独立だったのでしょう。「耳こそはすべて」じゃなく「金こそはすべて」とラトルズに揶揄されても仕方の無い事です。でも、マーティンも自由になったわけで、願ったり叶ったりだったでしょう。ところが、其のマーティンの独立に依って、デビュー以来のエンジニアであったノーマン・スミスがプロデューサー昇進し「RUBBER SOUL」セッションを最後に現場を離れる事になります。そして、其の後釜にアノ男がやって来るのです。でも、其れは、もう少し後のお話です。
(小島藺子)