w & m:LENNON / McCARTNEY
P:ジョージ・マーティン
E:ノーマン・スミス
2E:ケン・スコット(4/12)、フィル・マクドナルド(4/18、6/18)
録音:1965年4月13日(take 1-12?)
MONO MIX:1965年4月18日(1〜3)、6月18日(4)
STEREO MIX:1965年4月18日(1)、6月18日(2)
1965年7月23日 シングル発売(最高位英米1位)
パーロフォン R 5305(モノ)
1965年8月6日 アルバム発売 (「HELP !」 A-1)
パーロフォン PMC 1255(モノ)、PCS 3071(ステレオ)
1965年第二弾シングル曲で、前作から連続してジョン・レノンが主導の作品。然し乍ら、楽曲を聴けばお分かりの通りポール・マッカートニーが大いに協力しており、合作だとポールは語っています。あたくしも、確かに合作だと思います。二週間後(8/6)に発売される彼等の英国オリジナル五作目のアルバムでA面冒頭を飾り、タイトルにもなり、主演映画第二弾のタイトルにもなった、1965年前半を、いやビートルズを象徴する傑作で、代表曲です。元々は単に「BEATLES PRODUCTION 2」と仮題された彼等の主演映画第二作は、「EIGHT ARMS TO HOLD YOU」と勝手に決められ、レノマカは何とかそんな陳腐なタイトルを持つ曲を書こうとしたものの、出来たのは「EIGHT DAYS A WEEK」だったわけで、「確信犯:レノマカ(主にレノン)」の意志で却下されます。ジョンは前作映画同様に題名も決めてしまいました。
其れが此の「HELP !」です。現在では、此れが当時の「人間:ジョン・レノン」の真実の悲痛な叫びだった事は知られていますが、発表当時に其れに気付いた者は皆無に等しかったのです。総天然色の楽しいビートルズ活劇映画の主題歌として、愉快な大衆音楽として、此の楽曲は受け入れられ全世界で大ヒットしました。後にジョン自身が「あんなアップテンポでポップな編曲(追っかけコーラス部分は、当然乍らポールが編曲)にしたのは失敗だった。ビートルズ時代の最高の自信作だが、是非録音し直したいよ」と吐露し、実際にスローテンポでピアノ弾き語りの「HELP !」を「LOST LENNON TAPES」で聴く事も出来ます。でも、個人的な悲痛な叫びを大衆音楽にしてしまった事こそが、ジョンの才能だと思います。ポールが中心となってかけたオブラートが、其れを可能にしました。誰もが深い意味が在るなんて考えずに、此の楽曲を楽しく愉快に受け入れてしまったのです。此れは恐るべき事実です。
さて、データでお分かりな様に、此の楽曲は正式なデータでもモノラルが四種、ステレオが二種、合計六種ものミックスが行われております。基本的に彼等が現役時代に発表した楽曲には「ミックス違いは在るが、テイク違いは、ほとんど無い」のです。此の時点までなら、デビュー曲の「LOVE ME DO」と二曲目の「PLEASE PLEASE ME」が例外で「2テイクが公式に発表された」曲でした。ところが、此の曲は公式にはモノラルもステレオも同じ「テイク12」から作られたとなっているのですが、何回聴き比べても両者でのジョンのヴォーカルが全く違います。史上三曲目の「異なる二つのテイクが公式発表された楽曲」と考えるしかありません。マーク・ルウィソーン著の「レコーディング・セッション」によれば「HELP !」の録音は「1965年4月13日」の「12テイク」で、其の全てはブートレグで出回り容易に聴けます。なのに、其の何処にも「モノラルでのジョンの歌声」は存在しません。更に云うなら「映画での歌声」もありません。一体、いつ、別テイクは録音されたのでしょう?
前述の通りジョンは「HELP !」を相当気に入っていたもののビートルズでのヴァージョンには納得しておらず、新たに録音し直そうと考えていました。更に、1981年に計画されていた来日公演では一曲目に「HELP !」の新ヴァージョンを披露しようと決めていたと云われています。其れは、永遠に叶わぬ夢となってしまいましたが、実現していたなら世の中は変わらなくとも多くの人々の人生を変えたでしょう。1965年には届かなかったジョンの悲痛な叫びは、1981年なら多くの人々に理解できたはずです。「HELP !」は現在でも歌い継がれる名曲となりましたが、ジョン・レノンが本当に望んだカタチでは遺されずにいます。1990年にポールがライヴでカヴァーした時にピアノの弾き語りでスローに演奏したのを聴いて、「やっぱり、ポールはジョンを分かっているんだナァ」と当然過ぎる事なのに感動しました。
(小島藺子/姫川未亜)