w & m:LARRY WILLIAMS
P:ジョージ・マーティン
E:ノーマン・スミス
2E:ケン・スコット
録音:1965年5月10日(take 4)
MONO MIX:1965年5月10日
STEREO MIX:1965年5月10日
1965年6月14日 アルバム発売(「BEATLES IV」A-4)
米キャピトル T 2358(モノ)、ST 2358(ステレオ)
此の曲は、「厄介な案件です。」アルバム「HELP !」セッションでは、シングルやアルバムに収録された楽曲以外にも録音された物件が在ります。其れは他のセッションでも同じで、通常なら其れらは「没音源」となり「海賊盤」でしか聴けなかったりする運命を辿るのです。此の「HELP !」セッションでも、ポールの駄作「THAT MEANS A LOT」とか、リンゴの唄「IF YOU'VE GOT TROUBLE」等の、タイトルを聞いただけで「ダメだ、こりゃ」な屑曲も録音されたものの、幸いにも未発表に終ったわけです。そんなクズ曲が現在では堂々と「アンソロジー」とか云って正規盤になっているのですよ。確かに「SESSIONS」なるブートで其れを初めて聴いた時、僕らは歓喜しました。でもね、所詮はボツ音源なのです。「IF YOU'VE GOT TROUBLE」よりも「ACT NATURALLY」の方が圧倒的に優れていたからこそ、「HELP !」での「壱曲だけのリンゴちゃん」は、そっちになったのだ。それでええじゃまいか。
ところが、「守銭奴:米国キャピトル」は、そんな「ビートルズの真摯な志」など「屁の河童」だったのだよ。1965年5月10日、彼等は「DIZZY MISS LIZZY」と此の「BAD BOY」を録音し、ミックスまで完成します。どちらもジョン・レノンの師匠の一人で在る「ラリー・ウィリアムズ」のカヴァーで、ジョンが最も得意とする楽曲でした。前作「BEATLES FOR SALE」での急場しのぎでのカヴァーでは無く、天才歌手ジョン・レノンが望んで行った事だったのでしょう。二曲やって好い方を選ぼうと思ったのでしょう。結果的に「DIZZY MISS LIZZY」がアルバム「HELP !」を「芸術作品」に昇華させるに到ったアルバム最後(其れは、つまり「YESTERDAY」の次の曲でもあります)に収められます。しかし、此の日の二曲は翌日には大西洋を渡り米国キャピトルに届けられてしまったのでした。そして、未だ英国ではアルバム「HELP !」が発売される遥か前に発売されてしまいます。本来ならボツ曲だった「BAD BOY」が本国英国で発売されるのは、1966年12月の事でした。そうです、あたくしが最初に買った彼等のベスト盤「オールディーズ」に「未発表曲!」として収録されたのが此れだったのよさ。でも、亜米利加ではとっくに発表されていたのでした。此の辺の経緯が、例の「ブッチャー・カヴァー事件」に繋がるのです。
前作のセッションでも「LEAVE MY KITTEN ALONE」を平気でボツにしたジョンは、今回も此れを捨てました。其の潔い姿勢こそが、彼等を永遠にしました。リンゴの唄なんか削ってでも、ジョージの作品を二曲も入れなくとも、ポールに自分と同じだけの場所を与えなくとも、誰も文句なんか云わなかったでしょう。ジョンが「二曲とも入れようぜ」と云えば、当然収録されたでしょう。でも、ジョンは、またしても我を捨てた。本物のリーダーです。凄過ぎる。そりゃ、他の三人がついて行くよ。分け分んない事(例えば、東洋人女性を録音現場に同席させちゃうとか、、、)をやらかしても、「否!」って云えません。結局は、ポールもジョージもリンゴも「凄玉・ジョン・レノン」の信望者でした。彼こそが、ビートルズの正体だったのです。小野洋子さんが「ビートルズはジョンが創って、ジョンがリーダーの楽団です。」と喧伝し続けるのも、ビリー・プレストンが「ジョンは最後までビートルズのリーダーだったよ。1969年に再会した時だって、ポールじゃない、他の誰でもない。ジョンがチーフ・ビートルだったよ。」と云ったのも、嘘偽りは無く紛れも無い「真実」です。但し、ジョンのそばには常にポールが居ました。其れを忘れちゃ、イカンよ。
(小島藺子/姫川未亜)