w & m:LENNON / McCARTNEY
P:ジョージ・マーティン
E:ノーマン・スミス
2E:ケン・スコット(9/30)、マイク・ストーン(9/30、11/4)、A.B.リンカーン(10/16)
録音:1964年9月30日(take 8)
MONO MIX:1964年10月16日(2種制作、1種未使用)
STEREO MIX:1964年11月4日
1964年12月4日 アルバム発売(「BEATLES FOR SALE」 A-1)
パーロフォン PMC 1240(モノ)、PCS 3062(ステレオ)
1964年のビートルズに、休息は有りませんでした。まるで現在の「片瀬那奈ちゃん」の如く、鬼神のような「ファンの為に全てを捧げる」芸術活動に邁進しました。EMI との契約は「年間アルバム二枚、シングル三枚」と云う「おいおい、アイドル歌手じゃあるまいし、、、」ってな過酷なモノだったのです。いや、彼らは「アイドル」でも在ったのです。ファンを大切にする彼らは、在ろう事か「シングル曲はアルバムには収録せず、アルバムからもシングル・カットはしない!」と云う縛りを自ら選択しました。彼らの英国でのオリジナル・アルバムは「PLEASE PLEASE ME(1963年)」から「LET IT BE(1970年)」まで、12作品です。其の中からサントラ盤で在る四枚を除くと8作品になります。なな、なんと、其の内、5作品が英国オリジナル・シングル曲を収録していません!其れは「WITH THE BEATLES(1963年)」「BEATLES FOR SALE(1964年)」「RUBBER SOUL(1965年)」「SGT, PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND(1967年)」「THE BEATLES(1968年)」です。地獄のスケジュールだった「1964年」の「BEATLES FOR SALE(ビートルズ大売り出し中!)」も、本国では完全なる新録盤として登場しました。
流石の「レノマカ」も、オリジナルだけで14曲を埋めるのは困難でした。其れで、前作「A HARD DAY'S NIGHT」で折角「全曲レノマカ」と云うより『レノン(10.5):マ(2.5)』と完璧なオリジナル作品を作ったのに、「オリジナル8曲、カヴァー6曲」へ戻ってしまいます。然し乍ら、ジャケットからして僅か半年後のビートルズは「全く別のバンド」へと変貌していました。此の疲れ切った表情の、何処が「アイドル」なのでしょう?特に大きく変わったのが、当時「絶対リーダー」だった「ジョン・レノン」でした。「A HARD DAY'S NIGHT」の録音や撮影、そしてツアー、ラジオ&TV出演など、「何やってんのかわかりましぇーん!」な、正に「A HARD DAY'S NIGHT」だった1964年に、彼らは全米制覇を成し遂げました。そして、2月に伝説の「エド・サリヴァン・ショー」への初出演を中心とした「米国初上陸」が敢行されます。其の時、在る男がケネディ空港で彼らを待っていたのです。
其の名は、「ボブ・ディラン」。
ビルボート首位に立った「I WANT TO HOLD YOUR HAND(抱きしめたい)」を、ディランは「空耳」しました。「I CAN'T HIDE」と盛り上がる部分を「I GET HIGH !」と聴き違えた彼は、彼らに「葉っぱ」を教えてしまいます。レノンは、強烈にディランから影響を受け、アメリカの全てから強烈過ぎる衝撃を受けました。そして作られたのが「BEATLES FOR SALE」です。其の一曲目に収められたのが此の楽曲でした。
イントロ無しで、いきなりジョンが歌い出します。其れは、最早「抱きしめたい」の彼では無かった。此れは、何かを悟ってしまった人間だけが書いて歌える作品です。「一歩先」を、レノンは確かに踏み出しました。当時、彼らの楽曲を管理していた「ディック・ジェイムス」が、わざわざジョンを呼び出し「君も成長したもんだ、此れは詩も曲も、ちゃんとまとまっているよ。こんなのを書いてくれたのは初めてだな、ま、今後とも此の路線で頼むぜ」と珍しく褒められたと、ジョン本人が語っています。と云うのも、実は此の楽曲は「うほっ!:ブライアン・エプスタイン」のお気に入り「トミー・クイックリー」への提供曲として書かれたのです。トミーは、ポールの駄曲「Tip Of My Tongue(1963年)」でデビューしますが、全く売れませんでした。1966年にはシーンから消えてしまいます。其処で、莫迦ポールとは違い「提供曲も手を抜かない漢:ジョニー」に書かせたのです。でもね、ジョニーは本気で書きました。其れで「こんなに好い曲なら、本隊(ビートルズ)でも録音しなきゃイカンだろ?」って事になっちゃったのよさ。哀れ也、トミー・クイックリー。本当に「早いトミー」でした。
アルバムのジャケットから示唆される「暗い内省的な世界」が展開されます。留守電に此の曲を使ったビーヲタは多いでしょう(あたくしもやりました)が、人気アイドル楽団の絶対的主導者で在ったレノンは「悲恋」を歌います。絶望的な恋の終わりを、彼女の浮気現場を目撃し、電話をしても出ても貰えないのに忘れられない自虐莫迦男の噺を語るのです。「人間失格」じゃん!此の世はレノン色に染まったのに、彼は「嘘だっ!」と叫んだのです。作者ジョン自身に寄れば、元ネタは、ザ・レイズによる1957年のヒット曲「シルエット」だそうです。後に、ハーマンズ・ハーミッツもカヴァーした名曲です。でも、ジョンがそうして自らネタバレをしてくれて、実際に其れを聴いても、「一体、何故、此の曲から『NO REPLY』が生まれるのだ?」って思うのよさ。其れは、ディランからの影響にも云えます。ジョン・レノンは、全てを咀嚼してしまいます。全部「レノン色」に染めてしまうので、最早「元ネタ」とは掛け離れた作品になってしまうのでした。だからこそ、彼は「カヴァーの天才」なのでしょう。
名曲です。シングルで出せば大ヒット間違い無し!です。されど、ジョンは「二度売りはしないぜ!」と頑なに拒みました。カッコいいナァ。でも、其の「レノンの意志」が尊重されたのは、残念ながら本国英国だけで、日本では堂々とシングル・カットされました。なな、ななな、なんと、我が日本では、英国では壱曲たりともシングル・カットされなかった「THE BEATLES FOR SALE」の全14曲中、驚くべき事に「五枚、10曲!!」がシングル化され発売されました。酷過ぎるぜ、東芝ちゃん!ま、本国や米国でも四曲入り「EP盤」で発売されたんですけどね。でも、其れは高価なLPを買えない子供の為に行った「ファン・サービス」なのです。
ハッキリ云って、我々日本人は「キャピトル守銭奴、氏ね!」なんて口が裂けても云えません。此の銀河系で最も多くのビートルズのレコードを乱発したのは、米国キャピトルでは無く、日本が誇った「東芝音楽工業」なのですよっ!!赤いレコードなんて、日本盤だけじゃん。海賊盤だって、ほとんどが「西新宿」製じゃんっ!!ぜいはあ、、、其れ故、其の後の展開では考えられない事ですが、当時のジョン・ウィンストン・レノンは日本のレコード会社を「何やってんだ?」と嫌っていたらしいです。
(小島藺子/姫川未亜)
初出:「COPY CONTROL」2008-12-1
(REMIX by 小島藺子)
初出:「COPY CONTROL」2008-12-1
(REMIX by 小島藺子)
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