

w & m:LENNON / McCARTNEY
P:ジョージ・マーティン
E:ノーマン・スミス
2E:リチャード・ランガム(2/25、26)、A.B.リンカーン(5/22)、ジェフ・エマリック(6/22)、他
録音:1964年2月25日、5月22日
MONO MIX:1964年2月26日
STEREO MIX:1964年3月10日、6月22日
1964年3月20日 シングル発売
パーロフォン R 5114
1964年7月10日 アルバム発売(「A HARD DAY'S NIGHT」 B-5)
パーロフォン PMC 1230(モノ)、PCS 3058(ステレオ)
「此れこそはB面の超名曲!そして名演!!」
ジョン・レノン作。どこをどー聴いてもジョン・レノン。リード・ギターもジョン。彼の得意とするカッティングが飛び出すから、すぐに分ります。そして、サイドにまわったジョージは此の後の彼らのサウンドを決定づけるリッケンバッカー社の電気式12弦ギターを、初めて正式録音で弾いています。レコーディングの直前にアメリカ初上陸した際に入手したばかりのピカピカの新品です。其れは映画でも嬉々として弾きまくっている、リッケンバッカー社が初めてジョージの為に作った「360/12モデル」です。
超有名曲で好きになった少年少女が、所謂ひとつの「ビートルズ通」になる頃に出逢う「僕だけが知っている(そんなこたぁ無いのだけど、そう思い込む)素敵なお宝音源」が此の楽曲でしょう。ウイルソン・ピケットを意識してジョンが書き上げた「1964年のビートルズ」が凝縮された会心作です。彼が自らリードも弾いたって事は、かなりの自信作だったはずです。パリでの「CAN'T BUY ME LOVE」と云う例外を除けば、其の後の彼らのアルバムの通例となる「最初に録音するのは、ジョン・レノンの新曲で自信作」と云う「暗黙の了解」が始まりました。そして、其れらの楽曲は、何れも「アルバムのカラーを決定づける」事となってゆきます。
解散間際に鍵盤奏者として準メムバーとなった「ビリー・プレストン」が自信を持って証言した様に、「ジョンは最後まで、ビートルズの偉大なるリーダー」でした。ジョンのソロ作品集とさえ云える初期の最高傑作アルバム「A HARD DAY'S NIGHT」からの先行シングルに、ジョンはアルバムに単独作品を二曲しか書けなかった相棒ポールの「CAN'T BUY ME LOVE」を選び、自分の自信作をB面にしたのです。しかも「CAN'T BUY ME LOVE」ってお題に見事に応えた「YOU CAN'T DO THAT」って曲ですよっ。「ポールの曲の方が優れていたから、自信作だったけど、こりゃ仕方ないナァ、とB面に甘んじたのさ」と云う懐の深さが「ボス:ジョニー」の真骨頂でした。少なくとも未だ1964年の世界では。
さて、数多ある彼らの楽曲をカヴァーした作品の中でも「此れは必聴盤!」と云えるモノのひとつが、ハリー・ニルソンによる此の楽曲のカヴァーです。後にジョン、そしてリンゴと「大酒呑み仲間」となる愛すべき酔っぱらいニルソンが、未だ「酒焼けしていない美声」で歌うファースト・アルバムに収録された其のカヴァーには、沢山のビートルズ・ナムバーが歌い込まれていました。ビートルズへの愛に満ち溢れた其の名唱を36時間も聴き続けた男が、堪らずに英国から「見知らぬ米国の歌手ニルソン」に国際電話を掛けます。電話口に出たハリーに、英国の男は云いました。
「俺は、ジョン・レノンだ。此れだけは云いたい。
お前のアルバムは最高だ、お前は最高だ!」
そして、二人は「生涯の友」になったのでした。そう、ジョン・レノンとは、そう云う人間だったのです。
彼は「真実」を求めていた。「自由」になろうとした。眞の「表現者」で「芸術家」です。しかも、彼は「大衆音楽家」で在る事を生涯貫きました。「自分の音楽を理解してくれる人間は、世界に100人といない」と自覚しながら、常に「マス」を相手に格闘し自分を追い込み推敲を重ねて楽曲を書きました。引退して悠々自適の生活をしていたのに、「やっぱり、俺がやらなきゃ誰がやる?」とばかりに復活し、大莫迦野郎にまで真摯にサインしてあげたにも関わらず、「サインする時の態度が気に食わない」なんぞと云うトンデモな理由で撃ち殺されてしまったのだ。何じゃ、そりゃ?
元・チューリップの財津さんなんか「ポールに逢った時はサインと握手も快くしてくれたのに、ジョンはヨーコさんが「サインはダメよ!」と云ったら「ダメ?ダメ!」とか云ってしてくれなかった。だから僕はポールが好き」なんぞと云っているぞ。ジョンにサインしてもらっただけでも有り難いと思いなさい!ところで、ジョンがイヤミの「シェー!」を完璧に出来たのは、彼が其れを「少年サンデー」を入手して来日公演以前に知っていたからだと思います。来日の時に会食した若大将の証言でも、ジョンは「日本の事を唯一、真剣に勉強していた」様子が伺えます。洋子さんに出逢う以前からジョンは日本に興味があったと考えると、其の後の展開が何となく分かった気にもなります。
さて、僕が「前衛芸術」を知ったのは、ビートルズでは無いのです。其れは、先日、惜しまれつつ亡くなった「赤塚不二夫」先生の漫画「天才バカボン」でした。小学生だった僕は、「実物大漫画」とか「左手で描きました→右足で描きました」とか「少女マンガに変更します」とか、毎週目くるめく変化する破天荒すぎる「実験作」に夢中になりました。其れで、将来は「手塚賞」ではなく「赤塚賞」を目指そうと、ギャグ漫画家になろうと決意したのです。そんな時にラジオでビートルズを聴いてしまったのでした。
赤塚先生の前衛ギャグで最も衝撃を受けたのが、「山田一郎」への改名事件です。「赤塚って名前は飽きたから、来週からは山田になるのだ。これでいいのだ!」と宣言し、本当に改名してしまったのですよ。何週間か本当に「山田一郎」名儀で全ての作品を発表して、「やっぱり元に戻す事にしたのだ」と「赤塚」に還っちゃったんだけどね。そう、僕が「コピコン」を閉鎖し「アゲン」を始めて、再び「コピコン」へ回帰したのは、其れのマネなのだ。だから、僕も「赤塚先生の作品」なのだ。万感の想いを込めて云うジョー!ニャロメ!!先生、有難う!だす、べし、やんす、だよ〜ん!!
「これでいいのだ。」
(小島藺子/姫川未亜)
初出:「COPY CONTROL AGAIN」2008-7-6
REMIX-1:「COPY CONTROL」2008-10-6
(and this is REMIX-2 by 小島藺子)
初出:「COPY CONTROL AGAIN」2008-7-6
REMIX-1:「COPY CONTROL」2008-10-6
(and this is REMIX-2 by 小島藺子)
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