w & m:McCARTNEY / LENNON
P:ジョージ・マーティン
E:ノーマン・スミス
2E:リチャード・ランガム(2/11)、A.B.リンカーン(2/25)
録音:1963年2月11日、MIX:1963年2月25日
1963年3月22日 アルバム発売、パーロフォン PMC 1201(モノ)
1963年4月26日 ステレオ盤発売、パーロフォン PCS 3042
(「PLEASE PLEASE ME」 B-6)
紛れも無い「レノン・マッカートニー」作品です。
いや、比重的には、ジョンが主に書いたのかもしれません。でも、此れこそが「レノン・マッカートニー」の合作だと云って良いでしょう。サビの部分でジョンがソロを取る以外は、世界一のデュオである「ジョンとポール」による極上のハーモニーが高らかに奏でられます。こんなにも息がピッタリな「二重唱」は、後にも先にも、彼ら以外には有り得ません。
ジョンとポールは、双子でした。十代に初めて出逢った時、お互いがひと目惚れしちゃったんです。特に、当時既にバンドのリーダーだった16才のジョンは、15才の天才児ポールの其の後をすべてお見通しだったのです。ジョンはこう思ったのです。「こいつをバンドに入れたら、きっと俺の立場が危うくなるだろう。でも、こいつを手放したら、俺は成功出来ない!」若干16才の天才児:ジョン・レノンは、自分の我を捨てたのでした。だから、ポールはジョンを愛した。異常なまでに、彼を独占しようとしました。ポールは、ジョンに認めてもらう事が、何よりの「シアワセ」だったのです。お互いの生い立ちなど、共通項が不思議な程に在りました。
でも、当時のジョンの親友は「スチュワート・サトクリフ」でした。ポールは、スチュを憎んだ。何とかして、「ジョンのたったひとりの僕」になりたかった。酷い仕打ちをして、ポールはスチュから「ジョンの相棒」の座を奪いました。そんなにまでして手に入れた場所です。此の曲の録音は、いくらジョンが風邪をひいていたからとは云え、13テイクにも及びました。ポールは、歌いたかったのです。愛しのジョンと高らかにハモリたかったのです。
時代は「いきなりだナァ(片瀬言語)」しますが、此の奇跡的なデュオも、たった6年後には「一時的に瓦解」します。1969年、ポールは二つの名言を遺した。ひとつは「悪夢のゲバ・セッション」中に、「やる気あんのかよ?けけけ」と茶化すジョンに、真摯過ぎる態度で云った「やるよ、ジョン、君と一緒なら、僕は幾らだって演奏するよっ!」って返したコトノハです。流石のレノンも「こいつ、マジなのかよ。」と、一瞬だけビビッてますよっ。(映画「LET IT BE」で観れます。さっさとDVD化せんかいっ!)もうひとつは、「『COME TOGETHER』をジョンと歌ったんだけど、全然ハモれなかったんだ。昔は、こんな事はなかったのにナァ。」ってヤツね。哀しいねぇ。
さてさて、時代を1963年に戻しましょう。たった壱日でやっつけた「PLEASE PLEASE ME」セッションで、トンデモない事実が在ります。後にセカンド・アルバムで陽の目を見る「HOLD ME TIGHT」が、なな、なんと、13テイクも録音されているのです。当然、其れはすべて「ボツ」で、「WITH THE BEATLES」に収録されたのはリメイクです。そして其れを書いたのは、ポール・マッカートニーなのです。
10曲が、絶対に必要でした。「HOLD ME TIGHT」がダメになっちゃいました。時間には限りが在ります。大体、ボツにするなら「HOLD ME TIGHT」なんて駄曲を呑気に演奏している場合じゃなかったのだよ。壱曲足りません。ジョージ・マーティンが、予定外の夜間セッションの追加を決めました。嗚呼、だから「HOLD ME TIGHT」なんて下らないジャンク曲はやんなきゃ好かったんだよ。(おいおい、そんな駄曲を後にカヴァーしたトッドの立場がないじゃん。)
「さあ、どーする?ビートルズ!!」
ちなみに、今回貼った画像は、ジョンを批判したトッドの「I SAW THE LIGHT」に関して、ジョンが言い放った言葉から選びました。分る片だけ、ニヤリとして頂戴。
(小島藺子)
初出:「COPY CONTROL AGAIN」2008-6-16
REMIX-1:「COPY CONTROL」2008-9-12
(and this is REMIX-2 by 小島藺子)
初出:「COPY CONTROL AGAIN」2008-6-16
REMIX-1:「COPY CONTROL」2008-9-12
(and this is REMIX-2 by 小島藺子)