
1976年1月に、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人が、ビートルズ時代の1967年にEMI・キャピトルと交わした9年間の契約が終了しました。それによって、1968年リリースのビートルズのシングル「HEY JUDE / REVOLUTION」とアルバム「THE BEATLES(ホワイト・アルバム)」から始まった「アップル・レコード」も終焉を迎えました。アップルはその後、1990年代になって、所属ミュージシャンのリイシュー盤やビートルズの未発表音源集などをリリースして復活しますけれど、事実上では1976年11月に勝手にリリースされたジョージ・ハリスンのベスト盤「THE BEST OF GEORGE HARRISON」で終了しています。ジョージのアップルでのベスト盤は、A面がビートルズ時代のジョージの曲で、B面がジョージのソロ、と云う屈辱的な選曲をされていて、それはジョージがEMI・キャピトルとの契約が切れてからリリースされたので、そんな選曲になったのです。ジョンは1975年10月にベスト盤「SHAVED FISH」を、リンゴは1975年11月にベスト盤「BLAST FROM YOUR PAST」を、それぞれソロになってからの曲だけでリリース出来たのは、まだEMI・キャピトルとの契約が残っている内に出したからでしょう。ポールは、後述の理由で1978年までベスト盤は出していません。
EMI・キャピトルとの契約を終えた元・ビートルズの4人は、それぞれ別の契約を結びました。まず、当時ウイングスで絶好調だったポールは、EMI・キャピトルとの契約を継続しました。故に、まとめに入るベスト盤をこの時期には出していません。ジョージは、既に1974年に自身のレーベル「ダーク・ホース」をA&Mの傘下で作っていて、満を持してジョージも移籍する事となったのですけれど、ジョージがEMI・キャピトルとの契約が切れてから半年以内にA&Mでソロ・アルバムをリリースする約束を守れず、違約金を肩代わりするカタチでレーベルごとワーナーへ移籍しました。リンゴは、すんなりとポリドール(英国、日本)とアトランティック(米国、カナダ)に移籍しました。そして、ジョンはどことも契約せずに、主夫になってしまったのです。つまり、ジョンは1976年に引退したわけで、1974年9月のオリジナル・アルバム「WALLS AND BRIDGES(心の壁、愛の橋)」と、1975年2月のカヴァー・アルバム「ROCK'N'ROLL」と、同年10月のベスト盤「SHAVED FISH」と、ハイ・ペースでアルバムをリリースしていたジョンの音楽活動は、突然パタリと音沙汰なしとなったのです。そして、1980年10月にシングル「(JUST LIKE)STARTING OVER」で復活するまで、長い沈黙となったのでした。
その間にジョンが行った音楽活動は、1976年9月にリリースされたリンゴのアルバム「RINGO'S ROTOGRAVURE」に収録されたジョンの提供曲でピアノを弾いている「COOKIN'(IN THE KITCHEN OF LOVE)」のみで、当時の音楽評論家は「ジョンは曲が書けなくなったからアルバムを出せない」などと出鱈目な事を云っていました。そもそもレコード会社と契約していないのですから、アルバムを出せるわけがなかったのです。そして、ジョンの死後になって、大量の未発表音源が、まずはラジオ番組で1988年から1992年にかけて「THE LOST LENNON TAPES」としてオンエアされて、それを元にしたブートレグが登場して、1998年にCD4枚組で全94トラック入りの箱「JOHN LENNON ANTHOLOGY」がリリースされました。それ以前に、1986年には未発表ライヴ盤「LIVE IN NEW YORK CITY」と、未発表音源集のアルバム「MENLOVE AVE.」がリリースされていて、1988年のサントラ盤「IMAGINE」で、ジョンのソロでの「REAL LOVE」が収録されています。そこで注目すべきなのが、CD4「DAKOTA」です。そこにはアルバム「DOUBLE FANTASY」や遺稿集「MILK AND HONEY」に収録された曲の別テイクと共に、ボブ・ディランを揶揄した「SERVE YOURSELF」や、ジョージを揶揄した「THE RISHI KESH SONG」や、「MY LIFE」、「LIFE BEGINS AT 40」、「DEAR JOHN」、「IT'S REAL」と云った楽曲が収録されています。つまり、ジョンは、主夫時代にも多くの楽曲を書いていたわけで、音楽評論家の云う事は遠い神代の昔から無責任なのです。
(小島イコ)