ジョージ・ハリスンは、1976年11月にリリースしたワーナー移籍後では初となるアルバム「THIRTY THREE & 1/3」の後に、しばらくアルバムをリリースせずに、趣味のカーレース観戦などを楽しんでいました。ようやくジョージが再始動したのは、1979年2月リリースのアルバム「GEORGE HARRISON(慈愛の輝き)」で、つまり、ジョージも2年半もの間は音楽活動をしていなかったのです。しかしながら、同時期にジョン・レノンが5年近くもの間、どこのレコード会社とも契約せずに引退状態だったので、ジョージの沈黙期間はそれ程には話題になっていなかったわけです。さて、1979年にリリースしたアルバム「GEORGE HARRISON(慈愛の輝き)」は、2年半の貯めもあり、素晴らしい内容で、ジョージ・ファンやビートルズ・ファンにとっては、1970年のLPでは3枚組だったアルバム「ALL THINGS MUST PASS」や、1973年のアルバム「LIVING IN THE MATERIAL WORLD」や、1987年のアルバム「CLOUD NINE」と云った商業的にも成功した作品と比べても引けを取らないアルバムです。全曲がシングル・カット出来そうなチャッチーな佳曲が揃っていて、実際に全10曲中3枚7曲がシングル・カットされています。
シングルにはなっていませんが、「NOT GUILTY」は1968年リリースのビートルズのアルバム「THE BEATLES(ホワイト・アルバム)」で100テイク以上もレコーディングしてボツになった曲のリメイクで、「HERE COMES THE MOON」は1969年リリースのビートルズのアルバム「ABBEY ROAD」に収録された「HERE COMES THE SUN」のセルフ・パロディです。ジョージはラトルズのTV番組にも出演しているので、洒落が分かる男なのです。そんな流れで再び音楽活動を開始したジョージですが、次作で1980年11月に完成していたアルバム「SOMEWHERE IN ENGLAND(想いは果てなく〜母なるイングランド)」に、前作が思ったよりも売れなかったので、ワーナーから待ったがかかります。ワーナーから「全10曲中4曲をもっとアップ・テンポの曲に差し替えろ」と云われて、レコーディングし直している時に、1980年12月8日がやって来たのです。そこで、ジョージはリンゴ・スター用に書いていた曲の歌詞を書き直して、1981年5月に「ALL THOSE YEARS AGO(過ぎ去りし日々)」としてジョンを追悼しました。この楽曲には、リンゴ、ポール&リンダ・マッカートニーが参加していて、ポール&リンダ(とデニー・レイン)のコーラスはオーバーダビングなので、実際にジョージとリンゴとポールが集まってレコーディングしたわけではありません
しかしながら、ジョージがポールのところへ行ったのは、ポールの1982年リリースのアルバム「TUG OF WAR」に収録される「WANDERLUST」にジョージのギターをオーバーダビングする予定になっていたからで、何だかんだ云って、ポールとジョージは仲が悪くはないのです。映画「LET IT BE」などでケンカしているのは、あくまでも家族内での話なのです。ジョージは1981年6月には改訂(改悪)したアルバム「SOMEWHERE IN ENGLAND(想いは果てなく〜母なるイングランド)」をリリースして、シングル「ALL THOSE YEARS AGO」はヒットしたものの、アルバムは余り売れていません。それでやけになったのか、1982年11月にはやりたい放題なアルバム「GONE TROPPO」をリリースしたのですけれど、ジョージは全くプロモーション活動をせず、全米108位と目も当てられない結果となりました。この「GONE TROPPO」と云う作品は問題作で、シンセサイザーを大胆に入れたり、ドゥーアップのカヴァーがあったり、トロピカルな曲やビートルズ時代の蔵出しがあったり、なかなか面白い作品なのですけれど、当時は酷評されました。ジョージ本人は音楽活動よりも映画制作に没頭していて、次作アルバム「CLOUD NINE」がリリースされるのは5年後の1987年11月となってしまうのですけれど、コレが売れて、ジョージは華々しく大復活を遂げるのでした。
そんな激動の時代に、1981年リリースのリンゴのアルバム「STOP AND SMELL THE ROSES(バラの香りを)」には「WRACK MY BRAIN」を提供して、同1981年にはフリートウッド・マックのリーダーでドラマーであるミック・フリートウッドのソロ・アルバム「THE VISTOR」に収録された「WALK A THIN LINE」に、ギターとバッキング・ヴォーカルで参加しています。1982年には、ゲイリー・ブルッカーのアルバム「LEAD ME TO THE WATER」に収録された「MINERAL MAN」で、スライド・ギターを弾いています。そこからは上記の理由で音楽活動の空白期間があって、1986年にアルヴィン・リーのアルバム「DETROIT DIESEL」に収録された「TALK DON'T BOTHER ME」と云う、どこかで聞いた事がある様な曲で、スライド・ギターを弾いています。同1986年には、オムニバス盤「THE HUNTING OF THE SNARK」に収録された「CHILDREN OF THE SKY」でスライド・ギターを弾いています。復活した1987年には、ラヴィシャンカール・プロジェクトのアルバム「TANA MANA」に、オートハーブとシンセサイザーで参加しています。同1987年には、デュアン・エディのアルバム「DUANE EDDY」に収録された「THEME FOR SOMETHING REALLY IMPORTANT」と「THE TREMBLER」でスライド・ギターを弾いています。このデュアン・エディのアルバムには、ポールも参加しています。この辺りになると「ジョージと云えばスライド・ギター」と云われる様になって、一聴してジョージのプレイだと分かる様になっています。
(小島イコ)