nana.812.png

2024年10月17日

「ポールの道」#526「FAB4 GAVE AWAY」#69 「PAUL McCARTNEY 1980-1984」

coldcuts.jpg


ポール・マッカートニーは、1978年3月に、ポール&リンダ・マッカートニー、デニー・レイン、ジミー・マカロック、ジョー・イングリッシュによる5人組の「第5期ウイングス」と、またしてもポール&リンダとデニー・レインによる3人組になった「第6期ウイングス」が混在したアルバム「LONDON TOWN」をポールのプロデュースでリリースして、1979年6月にドラマーのスティーブ・ホリーとギタリストのローレンス・ジューバーを加えた5人組の「第7期ウイングス」でのアルバム「BACK TO THE EGG」をリリースしました。ポールとクリス・トーマスがプロデュースしたアルバム「BACK TO THE EGG」は、ポールが自分で考えた曲順をクリス・トーマスに見せて、どうしたらいいかい?と尋ねたら、クリス・トーマスはそのまんまでいいと云って、結局はポールの考えた通りになっています。クリス・トーマスは既に、プロコル・ハルム、ピンク・フロイド、バッドフィンガー、セックス・ピストルズなどのレコードに関わっていて実績を上げていましたが、何せサー・ジョージ・マーティンの弟子で、1968年リリースのビートルズのアルバム「THE BEATLES(ホワイト・アルバム)」で初めて現場を体験したわけで、ポールに意見する事など不可能だったのです。

そのポールが我を通したアルバム「BACK TO THE EGG」は、ウイングスのアルバムなのに「ロケストラ」が話題になっていて、それは、ウイングスの5人だけではなく、ピート・タウンゼント、ケニー・ジョーンズ(ザ・フー)、デヴィッド・ギルモア(ピンク・フロイド)、ジョン・ボーナム、ジョン・ポール・ジョーンズ(レッド・ツェッペリン)、ゲイリー・ブルッカー(プロコル・ハルム)、ロニー・レイン(元スモール・フェイセス)などによるロック版オーケストラであって、そりゃあ、そんなのが入っていたら、本隊であるウイングスは霞んでしまうし、そればかりかポールがソロで演奏して歌っている様な楽曲も少なからず収録された「幕の内弁当」の様なアルバムです。結果的に、ウイングスはこの7作目のアルバム「BACK TO THE EGG」が最後のアルバムとなります。第1期から第7期まであるウイングスは、つまり同一メンバーでは1作ずつしかスタジオ・アルバムを制作する事が出来なかったバンドとなったのです。ウイングスの正式な解散は有耶無耶になっていますが、ライヴ活動は1979年末の「カンボジア難民救済コンサート」(トリのはずのウイングスの後に、大トリでロケストラが出演)が最後となりました。と申しますのも、翌1980年1月に来日したウイングスは、ポールが麻薬不法所持で逮捕されてしまい、その後のツアーは全て中止となってしまったからです。ツアーがなくなったので、ポールは1980年5月に2作目の宅録ソロ・アルバム「McCARTNEY U」をリリースしていて、賛否両論ありました。

ウイングスでの活動がなくなってしまった従順すぎるメンバーのデニー・レイン(ポール&リンダ以外でウイングス結成から解散まで唯一辞めなかったメンバー)は、1980年にソロ・アルバム「JAPANESE TEARS」をリリースしていて、収録された「SEND ME THE HEART」はポールとの共作で、ウイングスの1975年リリースのアルバム「VENUS AND MARS」のアウトテイクで、「I WOULD ONLY SMILE」はウイングスの1973年リリースのアルバム「RED ROSE SPEEDWAY」のアウトテイクで、この2曲は1978年にリリース予定だったベスト盤とレア・トラック集での2枚組の「HOT HITZ - KOLD KUTZ」に収録予定でした。「WEEP FOR LOVE」は、ウイングスの1979年リリースのアルバム「BACK TO THE EGG」のアウトテイクで、つまりこれらの3曲はデニー・レインのソロではなく、元々はウイングスでの演奏なので、ポールもベースやバッキング・ヴォーカルで参加しています。第7期ウイングスのギタリストであるローレンス・ジューバーは、1980年にレコーディングされて1981年にリリースされたリンゴ・スターのアルバム「STOP AND SMELL THE ROSES(バラの香りを)」のレコーディングに、ポール&リンダと共に参加しているので、1980年にはポールはウイングスを諦めていなかったわけです。

1980年12月に、ポールはデニー・レインとウイングスの次作アルバムへ向けてレコーディングしている時に、ジョンの訃報があって、ポールは激しく落ち込み、ウイングスの次作は切り札であるサー・ジョージ・マーティンへプロデュースを依頼しました。サー・ジョージ・マーティンは「ポールのソロならば受けるが、ウイングスならば断わる」と返答したばかりか「君(ポール)は、何故いつも自分よりも下手なメンバーとばかりレコーディングしているんだ?」とまで云い放ったのです。そこまで云われたらデニー・レインの立場はなくなり、1981年4月27日にデニー・レインはウイングスを脱退します。その日にポール&リンダは、ジョージ・ハリスン&オリヴィアさんと共に、リンゴとバーバラ・バックの結婚式に出ていました。デニー・レインが「JAPANESE TEARS」などと媚びを売っても、親分であるポールは「FROZEN JAP」なんですから、どうにもなりませんわなあ。結局、1981年1月に懲りずに取り組んでいた未発表アルバム「COLD CUTS」へのオーバーダビングをしたのが、ウイングスの最後のスタジオ・ワークとなったのです。その辺の関係で、1982年リリースのローレンス・ジューバーのソロ・アルバム「STANDARD TIME」に収録された「MAISIE」でポールがベースを弾いています。

1982年4月にはソロ・アルバム「TUG OF WAR」をリリースして、スティーヴィー・ワンダーとの世紀の共演が話題となり、1982年10月には、マイケル・ジャクソンのアルバム「THRILLER」からの先行シングル「THE GIRL IS MINE」でマイケルとデュエットしています。これは、レコーディング順だとポールとマイケルによる「SAY SAY SAY」と「THE MAN」の方が先で、そのお返しとして「THE GIRL IS MINE」に参加したのですけれど、マイケルの方が先にリリースされたのです。1983年には、ジョン・ウィリアムスの「THEME FROM THE HONORARY CONSUL」に曲を提供してギターで参加しています。同1984年には、ビートルズのメンバーが多大なる影響を受けたエヴァリー・ブラザーズに「ON THE WINGS OF A NIGHTINGALE」を書いて、ギターで参加してミックスも担当しています。この辺の流れは、かつての自分が憧れたミュージシャンの復活へも手を貸して、同時代で活躍しているスティーヴィー・ワンダーと共演したり、マイケルの様な後輩とも組んだ挙句にマイケルに自分の曲の版権を買われてしまうと云う、天然バカボン全開のポールならではの展開です。1984年には、ビートルズの「SHE LOVES YOU」の記録を破ったウイングスの「MULL OF KINTYRE(夢の旅人)」の記録を、これまた塗り替えたバンド・エイドのシングル「DO THEY KNOW IT'S CHRISTMAS? / FEED THE WORLD」にも、メッセージでチャッカリと参加しています。

(小島イコ)

posted by 栗 at 23:00| FAB4 | 更新情報をチェックする