ビートルズはEMIパーロフォンと、年に2作のアルバムをリリースする契約をしていました。故に、1963年にはアルバム「PLEASE PLEASE ME with Love Me Do and 12 other songs」とアルバム「WITH THE BEATLES」を、1964年にはアルバム「A HARD DAY'S NIGHT」とアルバム「BEATLES FOR SALE」を、1965年にはアルバム「HELP!」とアルバム「RUBBER SOUL」と、きっちりと契約を守っていたのです。それが崩れたのが1966年で、来日公演も行った1966年にはビートルズはアルバム「REVOLVER」しか出していません。苦肉の策でベスト盤「A COLLECTION OF BEATLES’ OLDIES(BUT GOLDIES)」を、12月に出しています。後に1968年のアルバム「THE BEATLES(ホワイト・アルバム)」をサー・ジョージ・マーティンが反対したのに2枚組でリリースしたり、1969年に中途半端なサントラ盤「YELLOW SUBMARINE」をリリースしたりしたのも、EMIとの契約枚数をこなす為でもあったようです。それでいて、常に新しい試みをして名盤を作りつづけたわけで、ビートルズはとんでもないのです。
1966年は、ビートルズがライヴ活動を止めた年でもあります。来日公演前には既に完成していたアルバム「REVOLVER」と、ライヴでの演奏の落差は凄まじいもので、どちらかと云うとライヴでのビートルズは「A COLLECTION OF BEATLES’ OLDIES(BUT GOLDIES)」に近いものでした。ビートルズの現役時代唯一のベスト盤は全16曲入りのお徳用盤で、当時の英国盤では全16曲中半数の8曲がアルバム初収録で、それらのステレオ・ヴァージョンは初出でした。ステレオだけではなくモノラル盤も新たにリマスターされているので、なかなか侮れない内容です。1966年のアルバム「REVOLVER」では、ジョンとポールのパワーバランスが崩れて、ポール主導の楽曲が目立つ様になっていたり、初めてジョージの曲が3曲も収録されていたりもします。兎も角、自分たちのアルバムを年に1作しか出せなくなっていたわけで、とてもじゃないけれど提供曲なんて書いてはいられない状況だったのでしょう。それに、例えば「TOMORROW NEVER KNOWS」みたいな曲は、ビートルズでなければやれないので、提供曲にはなりません。
そんな中でも、1966年2月11日(英国・コロムビア)・同年1月10日(米国・キャピトル)にリリースの、ピーター&ゴードンのシングル用に、ポールは「WOMAN」を書いています。B面の「WRONG FROM THE START」は、ビートルズ関連曲ではありません。ピーター・アッシャーとポールの関係はこれまでにも書いてきた通りに「ズブズブの身内」だったので、ビートルズが忙しくともポールは曲を書いていたわけですなあ。後にジョンが同名異曲を発表する「WOMAN」は、レノン=マッカートニー名義ではなくて、バーナード・ウェブ名義となっています。コレはですね、ポールが「レノン=マッカートニーではない名義で曲を提供したら、果たしてヒットするのか?」を試したのです。結果は、英国では22位で、米国では14位まで上がるヒットとなっています。些かライチャス・ブラザーズ風でもあって、後のフィル・スペクターとの因縁も思い起させます。でもですね、このポール版の「WOMAN」は、一聴してポールが書いたと分かる出来栄えで、やはりピーター&ゴードンには佳曲を提供しているわけですよ。それだけズブズブだったのですから、裏切られたアッシャー兄妹の怒りは相当なものだったでしょうなあ。
(小島イコ)