1984年10月22日にポール・マッカートニーは、同名映画のサントラ盤「GIVE MY REGARDS TO BROAD STREET」をヒットさせて、ビートルズ・ナンバーを6曲も再演して話題になりましたが、同じ1984年10月15日にジョン・レノンの長男・ジュリアン・レノンがアルバム「VALOTTE」でデビューしています。フィル・ラモーンのプロデュースによるアルバムですが、ジュリアンの風貌がジョンに似ているだけではなく、歌声がジョンそっくりで驚かれ、アルバムは全米17位、全英20位とヒットして、シングル・カットされた「VALOTTE」は全米9位、「TOO LATE FOR GOODBYES」は全米5位と、大ヒットしました。余りにもジョンに似ていて、楽曲もビートルズ直系だった為に批判されたりもしたのですが、ジュリアンは「赤の他人がビートルズのマネをして称賛されているのに、僕が批判されるのはおかしい。ビートルズを継承する権利があるのは僕だろう」と云っていて、確かにソノ通りでございます。そんな流れで翌1985年となるのですが、コノ年にはポール・マッカートニーは同名映画の主題歌「SPIES LIKE US」と云う微妙なシングルしかリリースしていません。ミュージック・ヴィデオは面白いけれど、曲の出来は酷いです。プロデュースはフィル・ラモーンとヒュー・パジャムで、二人共にソノ流れでポールのアルバムもプロデュースするのですが、フィル・ラモーンの方のアルバムは未発表となってしまいます。ズバリ云って駄作だと思う「SPIES LIKE US」ですが、映画やMVの効果もあったのか、全米7位、全英13位とヒットしています。B面「MY CARNIVAL」は、ウイングス時代の1975年のアルバム「VENUS AND MARS」のアウトテイクで、未だに未発表のアルバム「HOT HITZ &KOLD KUTZ」もしくは「COLD CUTS」に収録が予定されていた楽曲です。しかしながら、1985年と云う年は、良くも悪くも7月13日に行われた「LIVE AID」の年で、何やらジョンの代わりにジュリアンを入れてビートルズ再結成などと噂されて、結局はポールがソロで「LET IT BE」を歌ったのです。
ポールは何故か、こう云うコンサートでは「LET IT BE」を歌うんですけれど、シニカルと云うよりも天然バカボンだからでしょう。コノ時には最初はマイクが入っていなくて、ポールは気付かずに熱唱していて、DVD化する時には翌日に歌い直したヴァージョンに差し替えています。そんな1985年に、ビートルズの未発表音源(つまりはボツ音源)をまとめたアルバム「SESSIONS」をリリースする事になり、選曲も曲順も決まってジャケットまで作られたのに、あるメンバー(ポールもしくはジョージ?)が発売直前になって反対して、未発表となってしまいました。1969年のアルバム「GET BACK」に続いて幻のアルバムとなったわけですが、アルバム「GET BACK」は2021年のアルバム「LET IT BE」の箱に収録されて日の目を見ましたが、こちらの方は10年後のアルバム「ANTHOLOGY」1〜3に全てが収録されたので、おそらくアルバム「SESSIONS」としての公式盤リリースはないでしょう。内容は、1「COME AND GET IT」(1969年)、2「LEAVE MY KITTEN ALONE」(1964年)、3「NOT GUILTY」(1968年)、4「I'M LOOKING THROUGH YOU」(1965年)、5「WHAT'S THE NEW MARY JANE」(1968年)、6「HOW DO YOU DO IT」(1962年)、7「BESAME MUCHO」(1962年)、8「ONE AFTER 909」(1963年)、9「IF YOU’VE GOT TROUBLES」(1965年)、10「THAT MEANS A LOT」(1965年)、11「WHILE MY GUITAR GENTLY WEEPS」(1968年)、12「MAILMAN, BRING ME NO MORE BLUES」(1969年)、13「CHRISTMAS TIME IS HERE AGAIN」(1967年)の、全13曲入りで、「LEAVE MY KITTEN ALONE」をシングル・カットして、B面には「OB-LA-DI, OB-LA-DA」の別テイクを収録する予定でした。何せリリース直前までいったので、高音質のブートレグが出る事となり、此のアルバムの作業中に別の多くの楽曲も同じ様に流出してしまい、信じられない程の高音質なブートレグ「ULTRA RARE TRAX」や「UNSURPASSED MASTERS」などがリリースされる事となるのでした。
(小島イコ)