1966年8月29日をもってビートルズはライヴ活動を休止して、1966年後半には、その活動は世間からはよく分からない時期となります。それでもジョンは「A HARD DAY'S NIGHT」や「HELP !」も撮ったリチャード・レスター監督の映画「HOW I WON THE WAR」に俳優として参加して、役作りで髪をバッサリ切って、其の後にはトレードマークとなる丸メガネで兵士役を演じています。ジョージは本格的にラビ・シャンカールからシタールを学ぶ為にインドへ行き、リンゴは家族と休暇を楽しんでいて、ジョンの撮影現場に労いに行ったりもしました。そして、ポールは映画「THE FAMILY WAY」のサントラ盤にテーマ曲を提供して、ソレをサー・ジョージ・マーティンが編曲して変奏曲としていて、英国では1967年1月6日に因縁があるデッカからリリースされたのです。全編がサー・ジョージ・マーティンによるオーケストラ・アレンジですが、ポールもベース、ピアノ、ハミングなどでレコーディングに参加しています。ジャケットにも大きく「MUSIC COMPOSED BY Paul McCARTNEY」と載っているので、デッカとしてはソレが売りだったのでしょう。シングル盤も出ていて、現在のリイシュー盤CDにはソレも収録されています。注目すべきなのは、いくらサー・ジョージ・マーティンが絡んでいるとは云え、ビートルズのメンバーがソロ名義で音楽活動をしたのはコレが最初であってですね、しかも「レノン=マッカートニー」の掟破りをして「ポール・マッカートニー」単独名義で発表してしまった点です。ポールとしては天然バカボン全開で「ジョンも役者をソロでやっているんだから、僕もソロでサントラ盤の作曲くらいやってもいいだろう」と軽く考えて、全く悪気はなかったのでしょうけれど、悪気がないだけに本当に此の人は厄介なんですよ。
そもそも「レノン=マッカートニー」は、其の命名理由が「ゴフィン&キング」のマネだった事からも分かる通り、作家志向が強くてですね、ジョンも「30過ぎて、SHE LOVES YOUなんて歌っていられないだろ」と語っていた様に、将来は裏方の作家になる心算だったようです。しかしながら、其の作家志向が強かったのはポールの方で、当時には「レノン=マッカートニー」が他のバンドにも提供曲を書いていたのですが、1963年にはジョンもビリー・J・クレイマーに「BAD TO ME」やフォーモストに「I'M IN LOVE」と云った名曲を提供するものの、其の後はほとんど書かなくなりました。一方のポールは、以前も触れた通りに1964年にはピーター&ゴードンへの全米首位の「A WORLD WITHOUT LOVE」や「NOBODY I KNOW」や「I DON'T WANT TO SEE YOU AGAIN」、シラ・ブラックへの「IT'S FOR YOU」、ビリー・J・クレイマーへの「FROM A WINDOW」、1965年には駄曲ながらP・J・プロビーへの「THAT MEANS A LOT」、そして1966年には此のサントラ盤からのシングル「LOVE IN THE OPEN AIR」、更には変名(レノン=マッカートニーと明かさないでヒットするか試した)でピーター&ゴードンへの「WOMAN」、1968年にもシラ・ブラックへの「STEP INSIDE LOVE」、1969年にはメリー・ホプキンへの「GOODBYE」やバッドフィンガーへの「COME AND GET IT」などなど、多くの名曲を提供しているのです。そして、楽曲を提供するだけではなく、ボンゾ・ドッグ・バンドやメリー・ホプキンなどのプロデュースも手掛けていて、全てヒットさせています。コレはですね、私小説的な曲を書いていたジョンとは違って、ポールの場合はあくまでも万人向けのポップな作風であったからであって、特に1967年以降は二人の作風が明らかに違ってくるのでした。
(小島イコ)