1978年11月25日に発売された「レッツ・オンド・アゲン」が全く売れず、コロムビア時代のナイアガラは1年4枚3年で12枚の契約を1枚残して守れずに崩壊しました。以後、大瀧師匠は1981年3月21日に発売される「ロンバケ」こと「A LONG VACATION」まで表向きには沈黙状態となります。1979年にはター坊こと大貫妙子さんもアルバムを出せず、タツローこと山下達郎さんのツアーにバックコーラスとして参加しています。そんな中でタツローは、前述の通りに大阪での「BOMBER」のヒットで風向きが変わって、1979年4月5日には先行シングル「愛を描いて -LET'S KISS THE SUN-」を初めてタイアップで発売して、同年10月21日にはシングル「永遠のFULL MOON」とアルバム「MOONGLOW」を、それぞれ新レーベルAIR ⁄ RVCから発売となり、アルバムは20位まで上がりました。タツローのブレイク直前であった1979年9月25日には、細野さんとユキヒロと教授によるイエロー・マジック・オーケストラの2枚目「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」がアルファから発売されて、コレが大ブレイクするわけです。コンピューター・ディスコ・ミュージックだった前作から方向転換して、当時のイギリスでのニュー・ウェイブを意識していたものの、メンバーは特に売れ線を狙ったわけではなく、世界ツアー中に日本でのブレイクを知って驚いたそうです。
前作の「イエロー・マジック・オーケストラ」は69位と日本では余り売れなかったものの、アメリカ編集盤が売れて、逆輸入での日本盤が20位まで上がり、続いて出た「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」が堂々の1位を獲得して、其の後にはシングルカットされた「テクノポリス」(9位)や「ライディーン」(15位)も売れて、ロングセラーとなり、結局は「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」は1980年度の年間チャートでも堂々の1位を獲得して、売り上げも100万枚を突破しました。YMOの超絶ブレイクは、彼らだけではなく、細野さんやユキヒロや教授が参加した周辺ミュージシャンの作品をも売り上げが上昇してゆく事となり、アメリカ盤も出た為に、海外のミュージシャンへも影響を与える事となります。特に「DAY TRIPPER」をカヴァーされた本家本元の元ビートルズのポール・マッカートニーは、1980年の「McCARTNEY U」でテクノサウンドに挑戦して、YMOからの影響を公言していて、1980年の幻の来日公演時には、逮捕されずに入国出来ていたならば、YMOと共演する事まで決まっていたらしいです。ちなみにタツローの「MOONGLOW」に収録されている「RAINY WALK」は、アン・ルイスさん用に書いてボツになった曲で、細野さんとユキヒロが参加していますし、タツローは教授を親友だと云っています。
と、ここまで書いたのは4月2日なのですが、教授こと坂本龍一さんの訃報が入りました。ユキヒロに続いて、今年はYMOから二人も亡くなってしまいました。YMOやソロだけではなく、ナイアガラやタツローやター坊などの作品でも大変お世話になりました。ご冥福をお祈り致します。
(小島イコ)