ナイアガラが崩壊寸前だった1978年、其れは大瀧師匠だけの問題ではなく、ナイアガラの第1弾としてデビューした元・SUGAR BABEの面々にも同じ危機感がありました。ドラムの上原ユカリ裕さんやギターの村松邦男さんは解散後にもナイアガラと云うか大瀧師匠のアルバムには参加していたし、ソロになったタツローも結局は「レッツ・オンド・アゲン」まで付き合う事となりました。ユカリに関しては、彼がSUGAR BABEを辞める事になって他にドラマーが見つからないと、ほとんどタツローの独断で解散になったらしいのですが、だったら何故ユカリはナイアガラには残ったのでしょうね。其のタツローは1978年5月25日にはアナログ2枚組の「IT'S A POPPIN' TIME」をRCA/RVCから発表しますが、其れはライヴ盤であって、要するにスタジオでやる資金を軽減する為にライヴ盤にしたと云う誠に笑えない状況だったのです。其れで同年6月21日には前述の「PACIFIC」に細野さんや茂とオムニバス盤でソニーから発売するのですが、其の辺の契約がどうなっていたのかは不明です。そして同年12月20日にはRCA/RVCからソロで3枚目のスタジオアルバム「GO AHEAD!」を発売するのですが、タツローはもうソロアルバムを出せるのは最後になるだろうと覚悟していたそうです。一方、ター坊は前2作「Grey Skies」と「SUNSHOWER」が現在の再評価とは違って全く売れず、パナム/クラウンからRCA/RVCへ移籍する事となりましてですね、1978年9月21日にソロ3枚目の「MIGNONNE」を発表します。
プロデュースに音楽評論家の小倉エージさんを迎えておりますが、小倉さんははっぴいえんどの1枚目(通称「ゆでめん」)をプロデュースしてはいたものの、ター坊としてはSUGAR BABE時代から散々貶されて来たので「音楽評論家は敵」だとさえ思っていたらしく、其の辺はレコード会社が主導だったのでしょう。ター坊は曲作りにも「もっと分かり易く」と何度も書き直しを要求されて、移籍してプロモーション活動もバンバンやったので「売れる」と思っていたのに、全く売れずに2年間の沈黙期に入ってしまいます。其の空白の1979年にはタツローのツアーにコーラスとして吉田美奈子さんと参加していて、元・SUGAR BABEのメンバーは解散後も繋がっているので、解散の理由がよく分からないんですよね。いえ、まあ、売れなくて食えなかったからなんでしょうけれどね。さて、此の「MIGNONNE」は全10曲が全てター坊の自作で、アレンジはもうほぼレギュラー化していた教授こと坂本龍一さんが5曲、そしてあとの5曲は瀬尾一三さんが担当していますが、瀬尾さんの起用は小倉さんやレコード会社の意向かと思われます。1曲目の「じゃじゃ馬娘」なんかは、明らかにリンダ・ロンシュタットなどのウエストコーストを意識していますが、果たして其れがター坊に合っていたのでしょうか。同年11月25日には同じレコード会社から竹内まりやさんがデビューするわけで、そちらの方がしっくり来る気もする路線でした。
其の竹内まりやさんがデビューアルバムでカヴァーしている「突然の贈りもの」は、ター坊のライヴでは最後に演奏される事が多くなり、ファンには「もう、突然の贈りものは、お腹いっぱいです」などと云われる事にもなるのですが、オリジナルのター坊はB面3曲目、竹内まりやさんのカヴァーもB面2曲目と「LPレコードの墓場」に収録されていて、シングル「チャンス」のB面になるのは、なな、なんと3年後なのでした。此のアルバムの発表時にシングルA面だったのは「じゃじゃ馬娘」で、B面が今では馴染み深い「海と少年」でした。更にはアルバムのみ収録の「横顔」も、後にター坊のライヴでも多く歌われ、カヴァーも沢山されている名曲ではあります。アナログ盤だとB面1曲目だった「言いだせなくて」も個人的には好きで、当時は誰もター坊の曲を知らない状況だったので色んな友人に布教していたら「大貫妙子さんの歌は聴いていてくすぐったくなる」なんて感想を聞いたりもしました。ター坊のライヴにはかなり多く行って来ましたが、いつだったかは忘れましたが、1曲目にイントロなしで「横顔」の「いつか声をかけてくれるかしら」と歌い出された時には、泣きそうになりました。それからYMOブームが起きてター坊も売れ始めた頃のライヴでアンコールでお客さんが総立ちになっていたら、「皆さん、立っていていいんですか?」と云って「突然の贈りもの」を歌い出したので、「ター坊って、おっかねえ」と思わされましたよ。其の後、ター坊がライヴで何をやっても客席が「シーン」となってミサ状態になったんですよね。
(小島イコ)