1975年12月5日に大瀧詠一師匠と連名でのアルバム「僕は天使ぢゃないよ」も出した事もあるあがた森魚さんは、1974年3月25日には松本隆さんのプロデュースで「噫無情(レ・ミゼラブル)」を、1976年1月25日には細野晴臣さんのプロデュースで「日本少年(ヂパング・ボーイ)」を発表するなど、元はっぴいえんどの所謂ひとつのティン・パン・アレー系とは関係が深いミュージシャンのひとりです。特に「日本少年(ヂパング・ボーイ)」は2枚組の大作で、はちみつぱいから発展したムーンライダーズや、細野さんや茂のティン・パン・アレー、更にはタツローやター坊のSUGAR BABE、そしてアッコちゃんなどが参加しています。其の後にアッコちゃんこと矢野顕子さんが1976年7月25日に日本フォノグラムから発売したデビューアルバム「JAPANESE GIRL」は、其の名の通り「日本少年(ヂパング・ボーイ)」へのアンサーアルバムとなっております。アッコちゃんは1974年に「ザリバ」としてシングル盤を1枚出していましたが、其れ以前の1973年にはキャラメル・ママ(後のティン・パン・アレー)をバックにアルバムを前提としてレコーディングしていて、其の音源から「JAPANESE GIRL」などへ流用されてもいます。それらはアッコちゃんがまだ10代だった頃の音源で、「JAPANESE GIRL」発表時でも21歳です。
「JAPANESE GIRL」はアナログ盤のA面が「AMERICAN SIDE」でリトル・フィートをバックにレコーディングされた5曲で、B面が「JAPANESE SIDE」で前述のキャラメル・ママとのお蔵入り音源や、あがたさんやムーンライダーズのメンバーがバックを務めている5曲です。A面を担当したリトル・フィートのリーダーであるローウェル・ジョージは、レコーディング時にアッコちゃんの底知れぬ才能を目の当たりにして驚愕し、「僕たちの力量が足りなかった」とギャラを受け取らなかったそうです。「日本少年(ヂパング・ボーイ)」にも「JAPANESE GIRL」にもそれぞれあがたさんもアッコちゃんも参加していて、正に表裏一体の作品です。アッコちゃんの革新性は、其の後にモノマネ以外ではフォロワーも居ない程に唯一無二であり、最近では能年玲奈(のん)ちゃんを可愛がっていたりするので嬉しいものの、何だかよく分からない事でバッシングされたりしていて、何だかなあ、と思います。橋本愛ちゃんも叩かれていますけれど、そっちも何だかなあ、なのです。アッコちゃんの鮮烈なデビューは、例えるならばケイト・ブッシュのデビューに匹敵すると思いますが、アッコちゃんの方が先なのです。そして、洋楽ロックと和楽器の融合と云えば、やはり「ナイアガラ音頭」と相通じるモノがあります。
(小島イコ)