w & m:LENNON /
McCARTNEY P:ジョージ・マーティン('69-1/26、31、3/10、11、12)、フィル・スペクター('70-3/26、4/1、2)
E:グリン・ジョンズ('69-1/26、31、3/10、11、12)、ピーター・ボーン('70-3/26、4/1、2)
2E:ニール・リッチモンド('69-1/26)、アラン・パーソンズ('69-1/31)、
ロジャー・フェリス('70-3/26、4/2)、リチャード・ラッシュ('70-4/1)
録音:1969年1月26日(アルバム「GET BACK」、「LET IT BE」に収録?)、
1月31日(映画「LET IT BE」に使用)、
1970年4月1日(take 17-18 を作成し、take 18 に SI 「オーケストラ、コーラス、ドラムス」)
STEREO MIX:1969年3月10日、3月11日、3月12日、1970年3月26日、
4月2日(take 18 より 10-13、10&13 を編集)
1970年5月8日 アルバム発売 (
「LET IT BE」 B-3)
アップル(パーロフォン) PCS 7066(ステレオ)
ポール・マッカートニーが書いた傑作で、米国と日本ではビートルズのラスト・シングル(B面はジョージ・ハリスン作
「FOR YOU BLUE」)として発売されています。其のシングルが米国ではビルボードで首位を獲得したので、「1」にも堂々と最後を飾る曲として収録されました。ジョージが選曲したと云われる「青盤」でもラストを飾っております。其れだけならビートルズ有終の美を飾る名曲で、めでたし、めでたし!なのですけど、そーは問屋が卸さないのだ。なな、なんと、此の「THE LONG AND WINDING ROAD」がビートルズ解散の一因となってしまったのです。ポールは、当初のコンセプトに沿ってビートルズとビリー・プレストンの五人によるシンプルな演奏を望みました。幻のアルバム「GET BACK」には1969年1月26日のテイクが、映画「LET IT BE」には1月31日のテイクが、一切のオーヴァー・ダビングなしで使われています。
ところが、アルバム「GET BACK」が二度に渡り却下され、テープはフィル・スペクターに委ねられます。スペクターを推したのはジョン・レノンとジョージ・ハリスンで、リンゴ・スターも従い、彼ら三人がビートルズの新マネジャーと推したアラン・クラインも認め依頼します。然し、ポール・マッカートニーはアラン・クラインとは契約せず、リンダの父親と兄をマネジャーに推していました。ゆえに、スペクターにアルバムが任された事をポールは全く知らなかったのです。そして、完成したアルバム「LET IT BE」の視聴盤を聴いたポールは激怒し、有ろう事かこっそり作っていた宅録ソロ・アルバム「McCARTNEY」をアルバム「LET IT BE」の三週間前に強行発売して妨害したばかりか、うっかり「ビートルズ脱退宣言」までマスコミ向けにぶちまかしてしまいます。其れを受けたジョンも大激怒し「ポールの野郎は、ソロ・アルバムの宣伝に脱退を利用しやがった。ビートルズを脱退したのは俺様が先だったのに、ふざくんな!」となり、泥沼の「解散裁判」へと雪崩れ込んでゆくのでした。
一体、ポールは何故そんなに怒って常軌を逸し、ビートルズ脱退宣言などしてしまったのでしょう。ビートルズの存続を誰よりも望んでいたはずのポールが、何を血迷ったのでありましょうかしらん。其れは「THE LONG AND WINDING ROAD」にフィル・スペクターが加えた「過剰なアレンジ」だったのです。前述の通り、スペクターがアルバム「LET IT BE」で新たにオーケストラやコーラスなどを録音し加えたのは、ジョン作
「ACROSS THE UNIVERSE」、ジョージ作
「I ME MINE」、そして此のポール作「THE LONG AND WINDING ROAD」の、たった3曲のみです。ポール作の
「LET IT BE」も大胆なミックスにはなっていますが、素材は未だジョージ・マーティンとグリン・ジョンズが関わっていた頃の録音しか使っていません。他の曲に関しては1969年1月の「THE GET BACK SESSIONS」を元にしており、オーヴァー・ダビングなどやっていないのです。「ACROSS THE UNIVERSE」は1968年2月の素材ですし、「I ME MINE」も1970年1月に追加録音されたわけで、作者のジョンとジョージがスペクターに任せた張本人なのですからアレンジには満足しました。
でもですね、完全にハブにされ、自分が全く知らない内にフィル・スペクターがオーケストラや女性コーラスを加えてドラマティックに仕立て上げてしまった「THE LONG AND WINDING ROAD」を聴いたポールは、「酷く、うろたえていたよ(ジョージ・マーティン談)」と、正に「青天の霹靂」と大ショックを受けました。「オーヴァー・ダビングしないってアイディアは、ジョンが望んだはずなのに、何故なんだ?」と混乱したポールは、矛先をスペクターへ向け「ビートルズの有りの侭のシンプルな演奏に、過剰なオーケストラや女性コーラスなんぞを勝手に加えて台無しにしたトンチキ野郎だ!」を喚き出したわけですよ。えっとですね、何度も繰り返しますけど、スペクターが新たにオーケストラやコーラスなどを録音し加えたのは、たったの三曲で、ポールの曲は「THE LONG AND WINDING ROAD」一曲だけなのだよ。其れなのにポールは恰も全てが「フィル・スペクターが過剰にアレンジした」かの様に喧伝し、後年に「Q MAGAZINE」の賞にスペクターが選ばれた時にコメントを求められたら、「早く帰らないと、勝手にストリングスやコーラスをダビングされちゃうよ」なんぞと云いやがったのだ。ま、フィル・スペクターも「天下無敵の大奇人」ですけどね。
でもですね、ポールは「シンプルなアレンジが好いのだ」と主張していたはずなのに、1984年のソロ・アルバム「GIVE MY REGARDS TO BROAD STREET(ヤア!ブロード・ストリート)」で再演した「THE LONG AND WINDING ROAD」は、何じゃらホイ。いきなりだナァ、とサックスで始まる「AOR」アレンジにしやがって、あたしゃ、アレを聴いた時こそ「青天の霹靂」でガックリしちゃったわよ。自分でスットコドッコイな改悪ヴァージョンをやらかしといて、よくもフィル・スペクターを貶し捲くれたもんですよ。ま、ポールも少しは大人になって、1989年頃からはスペクター版に近いアレンジでライヴでも披露する様になりました。オーケストラがイヤだったわけじゃないのよさ。現にポールは「THE LONG AND WINDING ROAD」のオーケストラ・スコアを書いたリチャード・ヒューソンと翌1971年に録音され1977年に発表した「Thrillington」(「RAM」のオーケストラ盤)で組んでいます。だったら、何ゆえポールはスペクターのアレンジに過剰な拒否反応を起こしたのか?其れはですね、実は終止コードが変えられているのですよ。本来は「Cm」で切なく終わるのに、オーケストラは「E♭」でドドンガドーン!と大団円になっています。そして、其れって1月26日のテイクで「ジョン・レノンが六弦ベースを弾き間違えたから起こった」と思われるのです。だったら、根本的な原因はジョンではありませんか!いや、実際その通りで、ポールは「ジョンにハブにされたから拗ねただけ」です。
(小島藺子)