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2012年07月23日

「片瀬那奈ちゃんバラエティ出演録」#35(2011-part2)

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2011年3月16日:「はねるのトびらSP」(フジテレビ)
2011年3月19日:「出没!アド街ック天国スペシャル〜祝800回記念!」(テレビ東京)
2011年3月31日:「人志松本の○○な話」三回目(フジテレビ)

2011年3月に、片瀬那奈ちゃんはドラマ「外交官・黒田康作」「桜からの手紙」が放送中でした。更に3月8日に「シューイチ」、3月9日には「Oh ! どや顔サミット」と、4月から二つの新番組で司会を務める事も公表されます。そして、何やら映画の撮影をされてもいる御様子でした。そんな2011年3月11日に「東日本大震災」が起こります。片瀬那奈ちゃんは映画の撮影中だったそうです。予定されていた出演番組も、多くが放送延期や中止となりました。


2011年4月2日:「人志松本のすべらない話 ザ・大傑作選!!」(フジテレビ)
2011年4月3日:「シューイチ」1(日本テレビ)
2011年4月9日:「有名人の極秘情報!世界!どや顔サミット」再放送(テレビ朝日)
2011年4月10日:「シューイチ」2(日本テレビ)
2011年4月15日:「Oh ! どや顔サミット」1(テレビ朝日)
2011年4月16日:「世界一受けたい授業 春の最強先生来襲スペシャル」(日本テレビ)
2011年4月17日:「シューイチ」3(日本テレビ)
2011年4月22日:「Oh ! どや顔サミット」2(テレビ朝日)
2011年4月22日:「地球の最先端をスクープ!SCOOPER」(日本テレビ)
2011年4月24日:「シューイチ」4(日本テレビ)
2011年4月29日:「Oh ! どや顔サミット」3(テレビ朝日)

震災が起きて一ヶ月も経たない混乱した状況で「シューイチ」がスタートします。生放送での司会に片瀬那奈ちゃんもガチガチに緊張しておりました。さらに「Oh ! どや顔サミット」も始まります。「シューイチ」の構成はマイナー・チェンジがあるものの其の後も基本的には変わっておりませんが、「どや顔」は大きく変わっていきます。4月には「何らかの映画やドラマを撮影しているらしい」との噂が聞こえてくるものの、女優作品は公開されません。確実に週に二回はテレビに那奈ちゃんは出ますけど、其れは「司会者」としてなのでした。然し「シューイチ」の三回目(4月17日)で那奈ちゃんは、うっかり「現在、小栗旬クンと映画を撮っている」と明かし、4月29日に「荒川アンダー ザ ブリッジ」への出演が公表されました。


2011年3月は東日本大震災が起き、正直云って「ドラマとかバラエティどころじゃない」となりました。片瀬那奈ちゃんの出演ドラマでは「外交官・黒田康作」の最終回(2011年3月17日放送)が「L字テロップ」入りでしたが、其の前日に放送された「はねるのトびらSP」も含めて「放送中止にすべきだ」と思ったものです。ドラマとかバラエティなんて、暫く延期されたって構わないではありませんか。何ゆえ、フジテレビは地震情報の「L字テロップ」を入れた状態で放送を決行しなければならなかったのか、さっぱり理解出来ません。

そんな状況で4月から「シューイチ」と「Oh ! どや顔サミット」が始まったのですから、其れはもう最初から社会問題も取り上げる「シューイチ」の方が好く見えるに決まっています。震災の被害が続く時に「どや顔」されても笑えるわけないでしょう。「Oh ! どや顔サミット」は、前年(2010年)12月にパイロット版を放送し、ドラマ枠を廃止して始めた番組でした。司会には、浜ちゃんの他には西村さんと片瀬クンの俳優を抜擢したわけで、大いに気合が入っていたと思います。でも、始まるタイミングが最悪でしたね。内容も最初から、決して褒められたもんじゃなかったけどね。


(小島藺子/姫川未亜)



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FAB4-149:GLASS ONION

Glass Onion: Songs of the Beatles 鏡の国のアリス (角川文庫)


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:クリス・トーマス(9/11-26)、ジョージ・マーティン(10/10)
 E:ケン・スコット
 2E:ジョン・スミス(9/11-13、10/10)、マイク・シーディ(9/16、26)
 録音:1968年9月11日(take 1-34)、
    9月12日(take 33 に SI 「歌、タンバリン」)、
    9月13日(take 33 に SI 「ドラム、ピアノ」)、
    9月16日(take 33 に SI 「リコーダー」)、
    9月26日(効果音)、
    10月10日(take 33 に SI 「ストリングス」)
 MONO MIX:1968年9月26日(take 33 より 1-2)、10月10日(take 33 より 10-11)
 STEREO MIX:1968年10月10日(take 33 より 1-2)

 1968年11月22日 アルバム発売 (「THE BEATLES」 A-3)
 アップル(パーロフォン) PMC 7067-7068(モノ)、PCS 7067-7068(ステレオ)


ジョン・レノンが書いた楽曲で、歌詞に「STRAWBERRY FIELDS FOREVER」「I AM THE WALRUS」「LADY MADONNA」「THE FOOL ON THE HILL」「FIXING A HOLE」、などのビートルズ・ナムバーを歌い込んでいます。「THE FOOL ON THE HILL」が歌われるところには、ポールがリコーダーを吹いて盛り上げます。「The Walrus was Paul」と云うフレーズが「ポール死亡説」の根拠のひとつとなりますが、実際にセイウチの着ぐるみを着ていたのはジョンでした。ジョンは「ポールへの感謝の意味で、そう歌った」と云っております。「セイウチと俺の噺は前にしたよな。セイウチとは今でも仲良しだ。ヒントをやろう。セイウチはポールだ」ってなわけです。リンゴ・スターが戻って来てからの録音で、イントロもリンゴのドラムで始まります。「ホワイト・アルバム」の三曲目でようやくリンゴがドラムを叩いた曲となるのですが、正に「リンゴ復活!」を思わせる此の曲を配置したのが絶妙です。演奏はビートルズの四人で行われ、ポールが弾くリッケンバッカー・ベースがカッコイイ!ジョンによるアコースティック・ギター中心のデモ音源と比べると、ポールとリンゴのリズム隊による「アレンジの妙」が味わえます。

さて、リンゴは戻って来ましたが、ジェフ・エマリックは7月16日の「CRY BABY CRY」のセッションでビートルズの険悪な状況に耐えかねスタジオを出てしまい、約一年後の「ABBEY ROAD」セッションまで戻って来ません。そして、なな、なんと、ジョージ・マーティンまでプロデュースを放棄して休暇を取ってしまうのでした。代わりにプロデューサーの役目に就かされたのは、当時若干21歳のクリス・トーマスです。後にロキシー・ミュージックやセックス・ピストルズなどのプロデューサーとして名を上げる彼ですが、此の当時は新人で本人曰く「エンジニアはジェフ・エマリックやケン・スコットの仕事だし、マーティンが休暇中にはビートルズが自分たちでプロデュースもやっていたから、僕はただ居ただけ。なのに、ジョンがアルバムに僕の名前も載せようと云ったのさ」との事です。ジェフ・エマリックは、クリス・トーマスを嫌っていて自書でもボロクソに貶し捲くっているのですけど、出逢ったのが「ホワイト・アルバム」の時期だったのも影響しているのかもしれません。

初日(9/11)に、ジョン(アコースティック・ギター)、ポール(ベース)、ジョージ(ギター)、リンゴ(ドラムス)の布陣で「34テイク」のリズム・トラックを録音し、翌日から「33テイク」にオーヴァー・ダビングをして、ポールがリコーダーを加えた「9/16」には完成します。そして「9/26」にモノミックスが行われるのですが、ジョンが「何か足りない」と閃いてエンディングに効果音(「アンソロジー3」で聴ける「電話のベル」と「オルガンの継続音」と「サッカー中継でゴールを絶叫するアナウンサーと観客の歓声」と「ガラスの破壊音」を合わせた音源)を加える事にします。ところが、此処でノコノコと休暇から帰って来たジョージ・マーティンが其れを聴いて「ダメだ、こりゃ!」とジョンに苦言を呈し、「私に任せなさい!スコアを書こう」とストリングスのエンディングを提案し公式ヴァージョンとなったのでした。マーティンも「ホワイト・アルバム」は半分投げていて、二枚組にする事には大反対したのですけど、チャッカリと押さえるべきトコは押さえているのです。おそらく、マーティンが「半分は削りたい」と云うのは「自分がほとんど関わっていない楽曲」の事でしょう。


(小島藺子)



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