w & m:LENNON /
McCARTNEY P:ジョージ・マーティン
E:ケン・スコット(7/29-30、8/8)、バリー・シェフィールド(7/31、8/1、6)、
ジェフ・エマリック & フィル・マクドナルド('69-12/5)
2E:ジョン・スミス(7/29-30、8/8)、ニール・リッチモンド('69-12/5)
録音:1968年7月29日(take 1-6)、
7月30日(take 7-23、take 23 を編集し take 24-25)、
7月31日(リメイク take 1-4、take 1 に SI)、
8月1日(take 1 に SI 「ベース、歌、コーラス、オーケストラ」)
MONO MIX:1968年8月6日(ステレオ・ミックス 3 より 1)、8月8日(take 1 より 2-4、4 をコピーし 5)
STEREO MIX:1968年7月30日(take 25 より 1)、8月2日(take 1 より 1-3)、
1969年12月5日(take 1 より 20-21)
(1968年9月4日 プロモ撮影「デヴィッド・フロスト・ショー」)
1968年8月30日 英国シングル発売(最高位:英米1位)
アップル(パーロフォン) R 5722(モノ)
(1968年8月26日 米国シングル発売、アップル 2276)
ポール・マッカートニーが書いた大傑作。当時「ジョン・レノンがシンシアとの離婚が決定的となった」為に、落ち込んでいた息子のジュリアン・レノンを励まそうと書いた曲と云われています。他にも諸説ありますが、一般的には「ジュリアンの歌」でしょう。ジュリアンも「親父よりも、ポールおじさんがよく遊んでくれた」と云っております。1968年7月26日に、ポールはジョンと共に曲を完成させます。「The movement you need is on your shoulders」の部分を書き直すか削除したいと申し出たポールに、ジョンは「そこが一番いいトコじゃないか!」と助言したそうです。ドリフターズの「ラストダンスは私に(Save the Last Dance for Me)」を下敷きにした曲(コード進行が全く同じで一緒に歌えます。其れを実際にやらかしたのが、大瀧詠一師匠プロデュースのキング・トーンズ「ラストダンスはヘイ・ジュード」)で、完全にポールの単独作と思えますが、しっかりとジョンが協力していたのです。更に、ピアノを弾き損ねたポールが「Fucking hell !」と云ってしまった部分も、ジョンの助言で残されています。
ビートルズが設立したアップル・レーベルからの初めてのシングル曲(但し、権利やカタログ・ナムバーは契約上パーロフォン)で、ビートルズのシングル曲では最も長い「7分11秒」もある楽曲です。そして、彼等のシングルでは最も売れました。米国では、なな、なんと、九週連続で首位!英国では二週でしたが、その次はポールがプロデュースしたアップル・レーベルのメアリー・ホプキン「悲しき天使(Those were the Day)」の六週連続で、そのまた次がビートルズのカヴァーであるジョー・コッカー「With a Little Help From My Friends」の一週と、ビートルズ絡みで九週連続制覇しております。「7分11秒」もあるものの、半分は後半の「Na Na Na Na Na Na Na〜 Na Na Na Na〜 Hey Jude」と云うコーラス部分です。別に、ビートルズが片瀬那奈ちゃんに呼びかけているわけではありません。当時、リチャード・ハリスの「MacArther Park」がヒットしたので、ビートルズは「アレより長いシングルにしようぜ」と敢えて「7分11秒」にしたのです。現在のポールのライヴでは、もっともっと長くなっていますけどね。
リンゴのドラムが二番から入るのは、うっかりトイレに行って戻って来たらもう曲を始めていたのでこっそりと加わった為です。普通ならボツですけど、ポールはピキ〜ン!と「今のタイミングが好かった!」と閃いてオッケー・テイクにしてしまいました。此の曲は、ビートルズが初めて「8トラック」でレコーディングしたものです。其の為に、トライデント・スタジオ(当時、まだアビイ・ロードには「8トラック」が設置されていなかった)で録音しミックスも行ったものの、機材の規格が違っていた為に「高音が消えた酷い音、正直云って最悪です(ケン・スコット 談)」となっており、慌ててミックスをやり直しています。但し、最初から録音し直したのではないので、些か不本意なミックスとなりました。シングル曲なのでモノラルしか発売されず、ステレオは1970年2月26日発売の米国編集盤「HEY JUDE」が初出となります。
1968年のビートルズは、インドへ行って沢山の曲を書き、5月からアルバム「THE BEATLES(ホワイト・アルバム)」のレコーディングに没頭しました。当然乍ら「HEY JUDE」も「ホワイト・アルバム」のセッション中に録音されていますが、ビートルズは当初からシングル向けと考えており、二枚組で30曲入りの「ホワイト・アルバム」には収録しなかったのです。1968年9月4日にB面の
「REVOLUTION」と共にプロモーション・フィルムが撮影されています。其れを監督したのは、後に映画「LET IT BE」を監督するマイケル・リンゼイ・ホッグでした。其の日には、一時脱退していたリンゴ・スターが復帰しております。まぁ、幾らポールのヴォーカル以外は当て振りでもリンゴがいないんじゃ変です。そして、此の「HEY JUDE」のレコーディング中にポールとジョージの確執も表面化しております。映画「LET IT BE」で、ポールは「余計なフレーズを入れずに、「HEY JUDE」の時みたいに大人しくしていろ」と云うと、ジョージは「分かったよ、君の云う通りに弾くし、弾くなと云うなら何もしない!」とキレてしまいます。
「HEY JUDE」のリハーサル(7月30日)では既にジョージが参加していません。此の日はドキュメンタリー「MUSIC !」の為に撮影されていて観る事が出来ます。ジョージ・ハリスンは、コントロール・ルームでジョージ・マーティン、ケン・スコットと共に、他の三人による演奏を見ています。此の辺の「リンゴ脱退」や「ジョージ脱退」は、追々書いてゆきます。此の時には、スタジオにいたわけで脱退とはなりません。実際にスタジオから出ていったのは、オーケストラの一員です。8月1日のオーケストラ・セッションは、ジョージ・マーティンがスコアを書きましたが、指揮したのはポール・マッカートニーでした。ポールは、後半のコーラスと手拍子も36名のオーケストラ団員に参加して欲しいと云い出します。ほとんど全員が「ギャラが倍になる」のでホイホイと参加しましたが、ひとりだけ「何で俺がポール如きの下らない曲で歌ったり手を叩いたりしなきゃならんのだ!」と憤慨し帰ってしまったらしいです。ま、ポールは全く気にしてないでしょうね。天然バカボンですから。
(小島藺子/姫川未亜)