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2011年11月14日

「AFTER THE BEATLES」其の拾弐

Back to the Egg Mccartney II [12 inch Analog] ダブル・ファンタジー 〜ミレニアム・エディション〜


新たにギタリストとドラマーを加えたポールのWINGSは、1979年6月にアルバム「BACK TO THE EGG」を発表します。「ホワイト・アルバム」での因縁があるクリス・トーマスをプロデューサーに迎えた意欲作ですが、最も話題となったのは「ロケストラ」でした。ピート・タウンゼント、ケニー・ジョーンズ(THE WHO)、デイヴ・ギルモア(ピンク・フロイド)、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ボーナム(レッド・ツェッペリン)、ゲイリー・ブルッカー(プロコル・ハルム)、ロニー・レイン(元スモール・フェイセス)など総勢24名のミュージシャンによるロック版オーケストラ「ロケストラ」が圧倒的で、グラミー賞の「最優秀ロック・インストゥルメンタル賞」も受賞しました。アルバムのセールスは英米ともにトップ10には入ったものの、メガ・ヒットまでは至っていません。兎も角、「WINGS」のアルバムなのに「ロケストラ」がメインって、もう何が何だか分かりません。

前述の難民救済コンサートには、矢張りビートルズ再結成はなく、WINGSが出演しました。12月の英国公演ではステージ上でロケストラが披露され、翌1980年1月には来日公演が予定されました。ところが、ポールは成田空港で大麻不法所持の現行犯で逮捕され、公演は中止されます。結局、WINGSは解散状態へと進み「BACK TO THE EGG」が最後のアルバムとなりました。ポールは1980年5月に「McCARTNEY II」を発表します。未だWINGSは解散していなかったのですが、ソロ・デビュー盤以来10年ぶりで「ひとり多重録音」のアルバムを出したのです。先行シングル「COMING UP」のカップリングがWINGSのライヴ・ヴァージョン(全米首位になったのはWINGS版)だった様に、ポールもバンド解散を考えてのソロ・アルバムではなかった様です。

長く引退状態だったジョンが、遂に重い腰を上げました。1980年8月からレコーディングを開始し、9月にはゲフィンと五年の契約を結び、10月に先行シングル「スターティング・オーヴァー」を、11月にはアルバム「ダブル・ファンタジー」を発表したのです。ベスト盤から五年、カヴァー集の「ロックン・ロール」から五年半、オリジナル新作としては「心の壁、愛の橋」から実に六年ぶりとなる復活でした。ヨーコと交互に曲が並べられた構成には賛否両論だったものの、ジョンの新曲に関しては絶賛されました。再出発に際して、ジョンもインタビューなどでも大いに語り「1980年代は、やったるで!」とレノン節をぶちかまして下さいました。素晴らしい未来が広がったと、世界中が注目し期待に胸を高鳴らせたのです。そして其の復活劇は、僅か二ヶ月も経たずに打ち砕かれてしまいます。1980年12月8日、ジョン・レノンは殺されてしまったのです。もう三十年以上前の出来事ですが、あたくしは今、此の一文を書いて思わず涙が出てしまいました。悔しくて、哀しくて、仕方ありません。


(小島藺子)



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「AFTER THE BEATLES」其の拾壱

Bad Boy Greatest Hits 慈愛の輝き


リンゴは1978年4月にアルバム「BAD BOY」を発表します。此処までビートルズ解散後にリンゴはほぼ一年に一作とコンスタントにアルバムを出していました。然し、1970年代前半の狂い咲きの時は過ぎ、移籍後の三作はセールスも落ち込んでゆきます。「リンゴ」路線の「リンゴズ・ロートグラビア」もコケ、意欲作の「ウイングス〜リンゴ IV」もズッコケ、此の「BAD BOY」ではカヴァー曲中心の「ビートル・リンゴ」らしい路線にするも不発でした。成金趣味丸出しのジャケットも「トホホ」です。

ポールは1978年12月にようやくベスト盤を出しました。タイトルは「WINGS GREATEST」で、邦題も「ウイングス・グレイテスト・ヒッツ」でビートルズ解散後の大ヒット曲を12曲収録し、アナログ時代としては最大限に近い60分近い時間を一枚に詰め込んだサービス盤です。でも、内容はタイトルに反してウイングス名義ではない楽曲も含まれていました。何せ、一曲目がソロの「アナザー・デイ」なのですから「だったらウイングスって何だ?」となります。当時はシングルのみで発売されていた曲も5曲収録されていましたが、現在では他のベスト盤も出てしまった為に有り難味も薄れました。ジャケットも「何じゃこりゃ?」な感じですが、わざわざ此のオブジェを雪山まで持っていって撮影したらしく、無駄に金が掛かっています。

ジョージは1977年6月にパティとの離婚が成立、1978年8月にはオリヴィアとの間にダーニが誕生し、9月にオリヴィアと再婚しました。新たな家庭を得たジョージは再び音楽への情熱を取り戻し、1979年2月にアルバム「慈愛の輝き」を発表しました。原題はズバリ「GEORGE HARRISON」で、全曲シングル・カット出来る様なポップな作品集となりました。セールス的には芳しくなかったものの、此れはジョージの傑作のひとつです。ホワイト・アルバムでの未発表曲「NOT GUILTY」やセルフ・パロディの「HERE COMES THE MOON」も収録するなど、余裕も伺えます。ジョージはラトルズにも出演しておりましたので、こうしたユーモアは御手の物です。活動休止中に「F1観戦三昧」だった経験も「FASTER」として楽曲に昇華させました。

1979年3月には、エリック・クラプトンがジョージの前妻パティと結婚します。5月に行われた結婚披露パーティーには、なな、なんとジョージも出席!在ろう事か、ポールとリンゴも誘い、クラプトンとジャム・セッションを行ったのです。1978年には映画「SGT. PEPPAR'S」が公開され、全曲ビートルズ・カヴァーのサントラ盤をジョージ・マーティンがプロデュース、内容はイマイチですが、話題を呼びました。前述のラトルズによるTV映画とアルバムも出ましたし、ビートルズの英国全アルバムを収録した箱も登場と、まだまだビートルズの話題が尽きぬ頃に、ポール、ジョージ、リンゴが共演し、ジョンも「(引退状態だけど)俺も呼べば行ったのに」と発言したから、さあ大変!1979年9月には、かつて全米公演を手がけたシド・バーンスタインが「5億ドル出すから再結成コンサートをやらないか?」と云い出し、国連総長ワルトハイムまで「難民救済コンサートで再結成したまえ!」と呼びかけ、ビートルズ再結成が現実味を帯びて語られる様になったのです。


(小島藺子)



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