世界ツアーを大成功させたポールは、1976年12月に全米公演を収録したライヴ盤「WINGS OVER AMERICA」を発表します。全米での全31公演を全て録音したポールは90時間にも及ぶソースから厳選し「28曲入りアナログ三枚組」と云うトンデモ盤を出しましたが、イケイケドンドン状態の勢いで大ヒットします。全盛期のWINGSを記録した名盤ですが、全米公演には引退したジョンも訪れ「ビートルズ再結成なんてないよ。見たければポールのWINGSを見ればいい。」と発言しました。此の頃にはジョンとポールの友情関係は完全に復活して、ポールはジョンの住むダコタ・ハウスに訪れたりしていた様です。でも、ジョンと仲直り出来たのが嬉しかったポールはアポなしでいきなり思い立って英国からニューヨークへ飛び、ギター片手に「やあ、ジョン、来ちゃったよ。一緒に曲を作ろう!」なんぞと云い、ジョンから「あのさ、ポール、俺たちはもうガキじゃないんだから、こーゆーのはないだろ?」と呆れられたらしいです。
WINGS結成時には敢えてビートルズ時代の曲をライヴで演奏しなかったポールも、WINGS(てか、ポールのソロなんだけど)の成功から此の頃にはビートルズ・ナンバーも演奏する様になり、正に全盛期を迎えました。WINGSはメムバーの入れ替わりが激しいバンドでしたが、此の「WINGS OVER AMERICA」の時期が最も充実していたと思えます。ポールはWINGSとしても、再び世界の頂点に達しました。リンゴは、1977年9月に「RINGO THE 4TH」を発表します。ソロ・アルバムとしては6作目ですが「4作目」としたのは、二作目まではお遊びで三作目の大ヒット作「RINGO」が本格的なデビュー作だと云いたかったからでしょう。しかし、邦題は「ウイングス〜リンゴ IV」と云う「恰もWINGSの人気に便乗した」様なものでした。相変わらず豪華なゲストを迎えた意欲的な作品でしたが「何を考えてるんだ?」と思えるジャケットが示す様に全く売れず、益々リンゴは落ちぶれてゆきます。
1977年にはビートルズの新作が二作も発表されました。5月に初めてのライヴ盤「THE BEATLES AT THE HOLLYWOOD BOWL」が出ますが、此れは1964年と1965年のハリウッド・ボウル公演から編集された音源で、解散後に初めて公式に発表された未発表音源でした。発売当時でも十年以上も前の音源だったのに全世界でヒットしてしまいました。便乗して他社からデビュー前のライヴ音源まで発売され「やっぱり、ビートルズは売れるぞ」となりまして、11月には二枚組の編集盤「LOVE SONGS」が発売されました。そんな中でポールはシングル「夢の旅人」を11月に発売し、英国でのビートルズが持っていた「SHE LOVES YOU」の売り上げ記録を抜いたのでした。最早、ポールには向かうところ敵なし!となったのです。
然し乍ら、順風満帆になったポールにも「WINGSのメムバーが固定しない」と云う難題がありました。案の定、1977年5月から始まったレコーディングで、またしてもリードギタリストとドラマーが脱退してしまいます。「WINGS」と云う名のバンドは、同一メムバーでスタジオ録音盤を一枚ずつしか遺しておりません。「ポールと其のバック・バンド」と云うのが「WINGS」の正体ですから、そりゃ「飼い殺し状態」のメムバーはやってられなくなります。ところが、ポールは再びリンダとデニーとの三人になっても全くめげずにレコーディングを続行し、1978年3月にアルバム「ロンドン・タウン」を発表します。特大ヒット曲「夢の旅人」は敢えて収録しない潔い作品でそこそこにヒットしますが、前作までのメガ・ヒットには及びませんでした。最早「孤軍奮闘状態」となったポールの闘いは続きます。ジョンもジョージもリンゴも脱落し、もうビートルズを守るのはポールしかいなかったのです。
(小島藺子)