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2011年11月05日

「AFTER THE BEATLES」其の拾

Over America Ringo the 4th ロンドン・タウン(紙ジャケット仕様)


世界ツアーを大成功させたポールは、1976年12月に全米公演を収録したライヴ盤「WINGS OVER AMERICA」を発表します。全米での全31公演を全て録音したポールは90時間にも及ぶソースから厳選し「28曲入りアナログ三枚組」と云うトンデモ盤を出しましたが、イケイケドンドン状態の勢いで大ヒットします。全盛期のWINGSを記録した名盤ですが、全米公演には引退したジョンも訪れ「ビートルズ再結成なんてないよ。見たければポールのWINGSを見ればいい。」と発言しました。此の頃にはジョンとポールの友情関係は完全に復活して、ポールはジョンの住むダコタ・ハウスに訪れたりしていた様です。でも、ジョンと仲直り出来たのが嬉しかったポールはアポなしでいきなり思い立って英国からニューヨークへ飛び、ギター片手に「やあ、ジョン、来ちゃったよ。一緒に曲を作ろう!」なんぞと云い、ジョンから「あのさ、ポール、俺たちはもうガキじゃないんだから、こーゆーのはないだろ?」と呆れられたらしいです。

WINGS結成時には敢えてビートルズ時代の曲をライヴで演奏しなかったポールも、WINGS(てか、ポールのソロなんだけど)の成功から此の頃にはビートルズ・ナンバーも演奏する様になり、正に全盛期を迎えました。WINGSはメムバーの入れ替わりが激しいバンドでしたが、此の「WINGS OVER AMERICA」の時期が最も充実していたと思えます。ポールはWINGSとしても、再び世界の頂点に達しました。リンゴは、1977年9月に「RINGO THE 4TH」を発表します。ソロ・アルバムとしては6作目ですが「4作目」としたのは、二作目まではお遊びで三作目の大ヒット作「RINGO」が本格的なデビュー作だと云いたかったからでしょう。しかし、邦題は「ウイングス〜リンゴ IV」と云う「恰もWINGSの人気に便乗した」様なものでした。相変わらず豪華なゲストを迎えた意欲的な作品でしたが「何を考えてるんだ?」と思えるジャケットが示す様に全く売れず、益々リンゴは落ちぶれてゆきます。

1977年にはビートルズの新作が二作も発表されました。5月に初めてのライヴ盤「THE BEATLES AT THE HOLLYWOOD BOWL」が出ますが、此れは1964年と1965年のハリウッド・ボウル公演から編集された音源で、解散後に初めて公式に発表された未発表音源でした。発売当時でも十年以上も前の音源だったのに全世界でヒットしてしまいました。便乗して他社からデビュー前のライヴ音源まで発売され「やっぱり、ビートルズは売れるぞ」となりまして、11月には二枚組の編集盤「LOVE SONGS」が発売されました。そんな中でポールはシングル「夢の旅人」を11月に発売し、英国でのビートルズが持っていた「SHE LOVES YOU」の売り上げ記録を抜いたのでした。最早、ポールには向かうところ敵なし!となったのです。

然し乍ら、順風満帆になったポールにも「WINGSのメムバーが固定しない」と云う難題がありました。案の定、1977年5月から始まったレコーディングで、またしてもリードギタリストとドラマーが脱退してしまいます。「WINGS」と云う名のバンドは、同一メムバーでスタジオ録音盤を一枚ずつしか遺しておりません。「ポールと其のバック・バンド」と云うのが「WINGS」の正体ですから、そりゃ「飼い殺し状態」のメムバーはやってられなくなります。ところが、ポールは再びリンダとデニーとの三人になっても全くめげずにレコーディングを続行し、1978年3月にアルバム「ロンドン・タウン」を発表します。特大ヒット曲「夢の旅人」は敢えて収録しない潔い作品でそこそこにヒットしますが、前作までのメガ・ヒットには及びませんでした。最早「孤軍奮闘状態」となったポールの闘いは続きます。ジョンもジョージもリンゴも脱落し、もうビートルズを守るのはポールしかいなかったのです。


(小島藺子)



posted by 栗 at 20:54| FAB4 | 更新情報をチェックする

「カタセカイ列伝」# 058「松嶋菜々子」

やまとなでしこ DVD-BOX


松嶋菜々子は、1973年10月13日生まれの女優です。1992年度「旭化成工業水着キャンペーンガール」となり、雑誌「ViVi」の専属モデルも務めます。バラエティ番組やCMで注目され、1996年にNHK朝の連続テレビ小説「ひまわり」で主演し女優としてもブレイク(なんとドラゴン藤波も出ていました!)、翌1997年には二代目「きれいなおねえさん」を襲名し、「好感度No1女優」となりました。以後も「GTO(1998年、関西テレビ)」「救命病棟24時シリーズ(1999年〜、CX)」「魔女の条件(1999年、TBS)」「氷の世界(1999年、CX)」など数多くのドラマや映画で活躍し、主演ドラマ「やまとなでしこ(2000年、CX)」は「平均視聴率26.4%、最高視聴率は34.2%」の大ヒット作となりました。2001年に俳優・反町隆史と結婚した後も、大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜(2002年、NHK)」や「美女か野獣(2003年、CX)」など主演作が軒並みヒット。二度の出産によるブランクをものともせず「数字を持っている女優」の実力は翳りを見せず、最新作主演ドラマ「家政婦のミタ(2011年、日本テレビ)」は近年の「ドラマは数字が取れない」状況下で平均「20%」に迫る勢いと好評を得て、2011年10月期ドラマのトップは間違いなしと云われています。う〜む、強いぞドラえもん!じゃないや、ミタさん。

片瀬那奈ちゃんとは、「GTOドラマスペシャル(1999年、関西テレビ)」「氷の世界(1999年、CX)」と、デビュー当時の重要な二作品で共演しています。また「旭化成工業水着キャンペーンガール」としても松嶋さんは片瀬クンの先輩です。更に、二代目の松嶋さんに続いて三代目「きれいなおねえさん」に抜擢されたのも片瀬那奈ちゃんでした。2001年3月14日に行われた「三代目襲名会」では、二代目から三代目へ文書でエールが送られておりました。水着キャンペーンガールからモデル、そして「きれいなおねえさん」で女優と、正に二代目は三代目の前を同じ様に進んだ経歴がありました。ま、お名前もおんなじ「ななこ」なわけだが。前述の通り反町さんは片瀬クンの事務所の先輩であり、夫婦揃って「創世記の片瀬那奈」から今日まで大きく影響を与えている存在と云えるでしょう。

そう云えば、2011年10月8日に放送された「日テレ系人気番組大集合!秋の番組対抗『世界一受けたい授業』1億人の国語理科社会音楽体育 秋の最強先生来襲スペシャル」では、久しぶりにチラリと「ダブル・ななこ」共演がありました。二代目主演ドラマ「家政婦のミタ」は、ナンダカンダ云って今期で未だ脱落していない作品です。後はエロス主演の「DOCTORS」になんとか付き合ってますけど、録画予約しているのは「家政婦のミタ」だけになってしまいました。数字が好いドラマには余り興味を持たないあたくしですが、「家政婦のミタ」は面白いです。特に「鈴木先生」こと長谷川博己さんの「ヘタレ親父」ぶりが最高です。「結婚なんかしたくなかったけど、娘が出来て脅されて仕方なく結婚したんだ!」とか云って「不倫して奥さんを自殺に追い込んだ」のに「しっかり子供が四人もいる」って「無計画なダメ男」が嵌りすぎで、ミタさんに愚痴ると華麗にスル〜され捲くる「どーしよーもない展開」が爆笑モンですよ。二代目も大胆なイメージ・チェンジで頑張っておられる。

さて、二代目の大ヒット主演ドラマ「やまとなでしこ」は何度も再放送され幸いにもDVD化されていますが、片瀬クンの傑作「2001年のおとこ運」と同じ事情で「現在は再放送は困難」となっております。其の「やまとなでしこ」で二代目と共演されたのが、(つづく)


(小島藺子/姫川未亜)



posted by 栗 at 14:11| KATASEKAI | 更新情報をチェックする

「AFTER THE BEATLES」其の玖

スピード・オブ・サウンド(紙ジャケット仕様) Ringo's Rotogravure 33 1/3


ポールは1976年3月にWINGSとして「スピード・オブ・サウンド」を発表します。前年1975年から始まった世界ツアーは5月から6月へかけて全米ツアーを控えており、其の前振りとして出したアルバムはまたしても大ヒットします。ライヴ・バンドとしても絶好調だったので、ポールは約半数の楽曲で他のWINGSメムバーにヴォーカルを任せ「バンドWINGS」を強調しましたが、矢張りメインとなるのはポールが歌う曲でした。リンゴは9月に移籍第一弾アルバム「リンゴズ・ロートグラビア」を発表、御馴染みのジョン、ポール、ジョージの援護も受け、バックにはエリック・クラプトン、ニルソン、ピーター・フランプトン、ドクター・ジョン、ジェシ・エド・デイヴィスなど豪華なゲストを迎え、敏腕プロデューサーのアリフ・マーディンが制作した作品でしたが、「リンゴ」や「グッドナイト・ウイーン」ほどは売れませんでした。ジョンが書きピアノでも参加した「クッキン」は、引退前の最後のレコーディング(1976年4月)で、ジョンは1980年の「ダブル・ファンタジー」まで完全に引退状態となります。

ビートルズのEMIとのレコーディング契約は1976年2月に満了しましたが、EMIには過去のビートルズ作品から編集盤を出す権利が残されたのです。其処で早速6月に二枚組の「ロックンロール・ミュージック」が発売されます。1973年の「赤盤」と「青盤」以来の正式な編集盤で、其の後は毎年の様に「ビートルズの新作」が乱発されてゆくのです。ジョージだけがスットコドッコイなベスト盤を出されたのは、ジョンとリンゴがまだEMIとの契約中だった1975年に出したのに、ジョージは契約が切れた後の1976年になってしまった事にも原因はあるでしょう。「ロックンロール・ミュージック」は単に過去のロケンロール楽曲を寄せ集めただけの編集盤にも関わらず、英国では10位まで上がり米国ではミリオン・セラーとなり全世界的にヒットしました。「矢張り、ビートルズは売れる」と分かったEMIとしては、ジョージのソロだけでなくビートルズも入れたいと考えるのは当然です。

前述の通り、ジョージは11月19日に移籍第一弾アルバム「33 1/3」を発表しますが、翌日に「THE BEST OF GEORGE HARRISON」を出されてしまいます。まるで「PET SOUNDS」の時のビーチ・ボーイズ(キャピトルは大胆な路線変更となった「PET SOUNDS」が過去のアルバムよりも売り上げが低いと判断し、直後に勝手にベスト盤をリリースし、皮肉にもベスト盤の方が売れてしまった為にブライアンは深く傷つき「ラリラリパッパラパー」となってゆく)の如き仕打ちを受けます。「33 1/3」はAOR路線のなかなかの良作ですが、当時のジョージはトラブル続きで散々でした。そもそもダーク・ホースはA&Mとレーベル契約していたのですが、ジョージはEMIとの契約でソロ作品を出せず新人のレコードばかりA&Mから出していました。ようやくジョージのソロも出せるとなり、1976年6月25日(ジョージが「33 1/3」歳になる日)にリリースが決まったもののジョージは締め切りに間に合わず、怒り狂ったA&Mに「訴えてやる!」と詰め寄られ、違約金を肩代わりしてもらう条件でレーベルごとワーナーへ移籍しました。更に、有名な「マイ・スウィート・ロード盗作問題」が裁判となり9月に「潜在意識による盗用」と云う訳の分からない理由でジョージが敗訴します。大瀧師匠は「アノ裁判官は、音楽の事を何も分かってないね」と語っております。

そんな苦境の時でしたが、ジョージは「33 1/3」からシングル・カットされた「THIS SONG」では盗作裁判をコミカルに歌い、美しい楽曲「愛のてだて」では「僕は君を愛そうとつとめている」なんぞと歌いA&Mの重役に捧げているのです。う〜む、ジョージは「お人よし」ですね。余談ですが、此の当時に渡英した中村雅俊さんがジョージと会っています。まーくんの感想は「ジョージに口ひげがなくて吃驚した」でした。パティとの離婚問題も抱えていたジョージは「33 1/3」発表後に趣味の「F1観戦」などに明け暮れる日々を送り、あわや「ジョンに続いて引退か?」とも思えるほどに音楽への興味を失ってしまいます。次のアルバム「慈愛の輝き」は二年半後の1979年2月まで待たされることとなります。リンゴはドドンガドンドン!と落ちぶれて、1970年代後半はポールの「ひとり勝ち」状態が続いてゆくのでした。


(小島藺子)



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