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2011年10月29日

「AFTER THE BEATLES」其の参

Ram Imagine Wings Wild Life


1970年12月31日に、ポールは「法的にビートルズを解散させる為の訴訟」を起こします。翌1971年3月にポールが勝訴し4月に他の三人が控訴を断念した事で「ビートルズ解散は確定」と思われましたが、色々と面倒な事情があって実際には1975年1月まで法的な確定は持ち越されます。2011年の現在でも「ビートルズは解散していない」とも云えます。只、四人が揃って活動する事はなくなりました。

1971年2月に、ポールは解散後初のシングル「ANOTHER DAY」を発表します。3月にはジョンがシングル「POWER TO THE PEOPLE」を、4月にはリンゴがシングル「明日への願い」を出し、それぞれヒットし、ジョージも三枚組からの「MY SWEET LORD」や「WHAT IS LIFE」がシングルでも大ヒットしていました。そして、5月にポールがアルバム「RAM」を発表します。名義は「ポール&リンダ・マッカートニー」となっていますが、実質的にはポールのソロ作品です。

ビートルズ解散後に最後にソロ・アルバムを発表したのもポールと云う事になります。ポールは、ジョージやリンゴの成功は別に何とも思っていなかったのでしょうけど、「ジョンの魂」にはムカついてしまったのでしょう。あからさまにジョンを揶揄した楽曲を何曲も収録し、喧嘩を売りました。作品としては「ポールの最高傑作」と後に評価が高まったのですが、発表当時はボロクソに貶されたのです。リンゴにまで「ポールは才能をスポイルしている」なんぞと云われたのですから、トンデモですね。いくら「明日への願い」が売れたからって、リンゴも随分と偉くなったもんですよ。そもそも「明日への願い」はクレジットはリンゴだけど、ジョージが書いた曲じゃまいか。

ポールは元々ジョージやリンゴを見下してましたから、全く気にしてなかったのでしょう。攻撃対象は「ジョン・レノン」ただ一人なのだ。でも、相手が悪かった。ジョンは10月にアルバム「イマジン」を発表しますが、たった一曲の「HOW DO YOU SLEEP ?」でポールを叩き潰します。ご丁寧に「RAM」のジャケットをコケにしたポートレートまで付けての、正々堂々とした返り討ちをやらかしたのです。「RAM」でのポールは逃げ場を作っての揶揄でしたが、やられたジョンは憤慨したのでした。アルバム「イマジン」にはジョージが参加していて「HOW DO YOU SLEEP ?」でもスライド・ギターで熱演していますが、メイキング映像を観ると此の曲をジョンがジョージにピアノで弾き語りして聴かせる場面があります。ジョージが「まさか、こんな曲をレコードにしないよね?」と訊くと、ジョンは「するに決まってるだろ!げへへへ」と返してジョージが呆然とするのでした。

見事にボコボコにされたポールは、12月に新しいバンド「WINGS」としての初アルバム「WILD LIFE」を発表します。荒削りな一発録音中心で二週間足らずでレコーディングされたと云われ、此れも発表当時は酷評されました。「RAM」は音楽的には「後期ビートルズの発展形」と云える作品でしたが「ビートルズの出来損ない、60年代ロックの汚物」と罵られ、新たなアプローチで「WILD LIFE」を出せば「あのビートル・ポールは何処へ行った?聴くに耐えないアマチュアの屑音源」と罵倒されたのです。嗚呼、哀れなり、ポール・マッカートニー。そして、ジョンに返り討ちにあったポールはアルバム後半の二曲で「あっさりと敗北宣言」までしてしまいます。何という「ヘタレ」ぶり。

「YESTERDAY」のコードを流用した「TOMORROW」では、後半に「DON'T LET ME DOWN」と切々にシャウトしますが、其れが誰に向けられているのかは明白でしょう。続く最後の「DEAR FRIEND」はもっと直接的にジョンに許しを請う内容です。別に其れが理由ではないのでしょうけど、ジョンは「WILD LIFE」を「好いんじゃないの」と評価していました。ポールは自分から喧嘩を売ったのに「もうやめよう」とマスコミで発言したりもしました。ビートルズを作ったのはジョンですが、ジョンも云う通り「ポールなしでは成功しない」のです。其のジョンの先見の明は見事に当たりますが、出会った当時に直感した「こいつに食われるかも」が現実味を帯びて来ます。だから、ジョンはビートルズと離婚しました。ジョージもリンゴも抜けました。でも、ポールには無理なのです。もうお気づきでしょうけど、此の「AFTER THE BEATLES」の主人公はポールです。


(小島藺子)



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「AFTER THE BEATLES」其の弐

Mccartney All Things Must Pass [12 inch Analog] ジョンの魂


ビートルズのアルバム「LET IT BE」は、1970年5月に発売されました。音源のほとんどは1969年1月の「THE GET BACK SESSIONS」を元にしているので、実質的なラスト・アルバムは1969年9月に出た「ABBEY ROAD」と云われます。只、オリジナル作品として最後に発表されたのが「LET IT BE」であるのも事実です。ゆえに、1970年4月に発表されたポールの初ソロ・アルバム「McCARTNEY」は「未だバンドが存在中に出された作品」となります。其のアルバムのプロモ盤でポールが所謂ひとつの「ビートルズ脱退宣言」をぶちかまし、ジョンは「俺が先に離婚したのに、アイツはソロ・アルバムのプロモーションに利用しやがった」と激怒するのでした。

前回「ビートルズで最後にソロを出したのはポール」と書きましたが、実は「ビートルズを最後に脱退したのもポール」なのです。最初に脱退したのはリンゴで、1968年8月の「ホワイト・アルバム」セッションの時でした。「ポールがリンゴのドラムにダメ出しをした」なんて噺もありますが、他の三人がそれぞれのプロダクションで楽曲を制作しているのに、リンゴはやる事がなくて拗ねてしまったのでしょう。次はジョージで、1969年1月の「THE GET BACK SESSIONS」で起こりました。此れは「ポールがジョージのギターにダメ出しをした」のが発端ですが、「ヨーコがジョージのビスケットを勝手に食べたので、ジョンとも喧嘩した」なんて噺もあります。そして、1969年9月にジョンが脱退宣言をします。此れらは全て当時は内密とされましたので、恰も1970年4月のポール脱退宣言が最初の様に思われていました。また、史実が明かされても必ず「ポールとの確執」が絡んだ様に伝えられたのです。

兎も角、1970年5月まではビートルズが存在していたので、本格的なソロ活動は其れ以後と云えるでしょう。其れで、最初にアルバムを出したのはリンゴだったのです。9月にチャッカリと二枚目のソロを発売しますが、今度もカントリーを歌うお気楽な作品で、たったの二日で録音しています。とは云え、天下のビートルズが解散したと騒がれた時期に真っ先にソロを出すあたりは商売上手と云えるでしょう。11月にはジョージが渾身の三枚組「ALL THINGS MUST PASS」を発表し、長年ジョンとポールの下で虐げられた鬱憤を一挙に晴らします。12月にはジョンが「ジョンの魂」を発表し「脱ビートルズ宣言」を音楽作品として昇華させました。ジョージとジョンの作品にはリンゴが参加しており、つまりは「ポールがいないビートルズ」が提示されたのです。其れはとても新鮮で、ジョージは商業的にも大成功しますし、ジョンは「流石はビートルズのボスだ」と賞賛されました。

単純な事なのですけど、ジョン、ジョージ、リンゴは「ポールがいない世界」を表現すればよかったのです。勿論、其処には確かに「ビートルズらしさ」も漂いますが、より強く個性が強調された音楽となりました。対して、ポールは個性を発揮すればするほど「ビートルズ」に近づいてしまうのです。其れは「ビートルズの音楽を作っていたのが、ポール・マッカートニーだった」からでしょう。他の三人には「ビートルズではない音楽もあった」のだけど、ポールには「ビートルズ以外の音楽はなかった」のです。確かに、ジョンもジョージもリンゴも「ビートルズ」と戦いました。でも、其れは「ビートルズ=ポール」だったのです。ポールだけが「自分自身との戦い」を強いられるのでした。


(小島藺子)



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「AFTER THE BEATLES」其の壱

Wonderwall Music 平和の祈りをこめて~ライヴ・イン・トロント(紙ジャケット仕様) Sentimental Journey


あたくしがビートルズを知ったのは1973年の「赤盤青盤」でありまして、もう既に解散状態になっていました。ゆえに、現役時代は全て後追いで聴いたわけです。当時はメムバーだった四人がソロ(ポールはWINGS)で大ヒットをそれぞれ出していて、何となく似た感じがするソロ作品を好きになっていたので、其の「ジョン、ポール、ジョージ、リンゴ」が実は少し前まで同じバンドに居たと「赤盤青盤」で知って吃驚したものです。其れで過去のビートルズ時代の作品を貪る様に聴いたのですが「何故こんなに素晴らしいバンドが解散したのだろう」と子供心に素直に思いました。

解散の経緯とかを調べると、当時は「ポールが悪い」と云われていて、映画の「LET IT BE」を観てしまうと「なるほど、ポールが悪いナ」と信じ込んでしまったのです。「ヨーコが悪い」って噺もあったものの、ハッキリ云って「メムバーの嫁さん」としてしか認識していなかったし、映画「LET IT BE」にはリンダ&ヘザーやモーリンも出ていたので「ビートルズは奥さんをスタジオに連れてくるのは普通の事なんだな」って印象しかありませんでした。そんな事よりも、ジョージのギターにダメ出しをしたり、ひとりで盛り上がっているポールが「自分勝手な奴」と映ったのです。

ソロ・アルバムを出して解散宣言をしたのがポールだと云う事も書かれていて、いたいけな子供はすっかり鵜呑みにしていたものです。ところが、ダンダンダンと「其れは些か間違っているのではないのか」と思う様になります。あたくしが初めて買った「解散後のビートルズ」作品は「BAND ON THE RUN」で、其れはビートルズの作品と同じ感動を与えてくれたのです。と云うよりも「最もビートルズと似ている」と思えました。そんな音楽を作る人がビートルズを解散させたとは信じられなくなりました。

現在では、解散の原因がポールではなかった事は分かっています。逆に、最後までバンドを存続させようと考えていたのがポールでした。アルバム「LET IT BE」発売の三週間前にソロ・アルバム発売を強行しトドメを刺したとの件も、史実を紐解けば全く以って変な噺となります。何せ、ポールはビートルズの四人で一番最後にソロを出しているのです。他の三人が出したのですから、ポールだって出したかったのでしょう。より正確に云えば、1967年に映画「ふたりだけの窓」のサントラ盤をポールは出していますが、アレンジはジョージ・マーティンで演奏もマーティンのオーケストラが担当しており、ポールは作曲で関わっただけで、其れをソロ作品とするのは些か無理があります。

ソロ作品を最初に出したのはジョージで、1968年11月に「不思議の壁」を発売しています。映画のサントラ盤ですが、同じ月に発売されたビートルズの「ホワイト・アルバム」よりも前に出しているのです。此れでは「レリビの前にソロを出すな!」との「ポールへのダメ出し」が通用しません。更に、同じ月にジョンは「TWO VIRGINS」を出します。「ホワイト・アルバム」発売の僅か一週間後の事でした。翌1969年5月には、ジョンが「LIFE WITH THE LIONS」を、ジョージが「電子音楽の世界」を同日に発売しています。ジョンは7月に「平和を我等に」10月に「冷たい七面鳥」とシングルも出し、11月に「ウェディング・アルバム」12月に「平和の祈りをこめて」を発売、翌1970年2月にはシングル「インスタント・カーマ」と、もうやりたい放題に「ビートルズ以外の作品」を出し捲くっています。挙句にリンゴまで3月にチャッカリと初ソロ「センチメンタル・ジャーニー」を発売しているのです。そりゃ、ポールだって「ボクも出したい」と云うでしょう。

アルバムに関しては、ジョージの最初のはサントラ盤で基本的にはインストですし、二作目は初期のシンセで遊んだだけのガラクタです。ジョンは、ライヴ盤以外の三枚はヨーコとの「前衛音楽」で、「レボリューション 9」に耐えられた片でも付き合い切れない代物です。ライヴ盤のA面は「流石はビートルズのボス・ジョニーだっ」と思わせますが、B面のヨーコで滅茶苦茶になります。リンゴは、スタンダード曲を贅沢に歌う企画盤です。それぞれのソロは確かに「ビートルズではやれなかった」との大義名分も成り立つ様なツクリになっていますが、ジョージのインド音楽やモーグ・シンセサイザーといい、ジョンのアバンギャルドといい、リンゴのスタンダードといい、全て「ホワイト・アルバム」などには「ビートルズ」として収まっているのです。

対して、ポールの初ソロ作品は、ほとんどが自宅録音で4チャンネルでひとりで演奏という「宅録」の元祖とも云えるもので、試みとしては最も「ビートルズではやれない事」とも思えます。「ホワイト・アルバム」でソロを何曲もやらかした経験から発展させたとも云えますけどね。半分はインストですし、サウンド・チェックでやった曲なども収録されたパーソナルな作品集なのです。然し乍ら、歌ものでは湧き出る「ポール・マッカートニー節」がギラリと光る名曲が揃っていて、其れはつまり「ビートルズの曲」と何ら変わらない美しさを放っています。本来なら革新的な「宅録」作品と評価されてもいい作品が「プロダクションが雑なビートルズの出来損ない」と酷評される事となったのでした。


(小島藺子)



 
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「53万アクセスがとおる」

三つ目がとおる(7) (講談社漫画文庫)


御蔭様で此処のアクセス数が「53万」を超えました。有難う御座居ます。一昨日のドラフトで、読売ジャイアンツの原監督の甥っ子さんが日本ハムに指名されて、何やら揉めておられるみたいですね。でも、ダルビッシュが折角マトモな事を云ったのに、肝心のカントクさんが「ハンカチにやった18番をあげてもいいから入団して下さい」って、ギャグですか?甥っ子と云えば「荒川アンダー ザ ブリッジ」で片瀬那奈ちゃんと共演されている「手塚とおる」さんって、手塚治虫先生の甥っ子さんなんですね。云われてみれば、確かに手塚先生に似てらっしゃる。其れで調べたら「ブッダ」や「人間昆虫記」にも出演されているし、映画「20世紀少年」にも出ておられたんですね。

以上、何となくの余談でした。では、今後とも「片瀬那奈ちゃん」と「ゼンキロ」を何卒宜しくお願い申し上げ奉ります。


(小島藺子/姫川未亜/鳴海ルナ)


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