w & m:
LENNON / McCARTNEY P:ジョージ・マーティン
E:ノーマン・スミス(10/18、25、26)、スチュワート・エルサム(10/22)
2E:ケン・スコット(10/18、25)、マイク・ストーン(10/22)、ロン・ベンダー(10/26)
録音:1965年10月18日(take 3)、10月22日(take 3 へ SI)
MONO MIX:1965年10月25日
STEREO MIX:1965年10月26日
1965年12月3日 アルバム発売 (
「RUBBER SOUL」 B-4)
パーロフォン PMC 1267(モノ)、PCS 3075(ステレオ)
ビートルズの楽曲の大半は「レノン・マッカートニー」と作者名が記されていますが、それらが全て二人の合作ではありません。確かに合作もありますが、ほとんどはどちらか片方が書いた作品です。どちらか個人で書いた曲も含めて、全て「レノン・マッカートニー」の作品にする事を、二人は10代の時に決めたのでした。
其れでも、自ずとどちらが書いたのかは明白になってゆきます。基本的に「歌っている方が書いた」って見分けが付くのですけど、ジョン・レノン自身が「レノマカ楽曲のカラクリ」を大いに暴露してしまいます。有名なのは、解散後の1970年に出た「ビートルズ革命(回想するジョン・レノン)」と、殺されてしまう直前の1980年の「プレイボーイ誌インタビュー」でしょう。其のジョン・レノン自身の解説で、ほとんど全ては明かされたと思えました。ところが、レノンの死後にマッカートニーが異説を語り出したのです。基本的にはレノン説と同じなのですが、二曲が大いに異なっていました。其の一曲が此の「IN MY LIFE」です。
レノン説では「既に詩もメロディーも出来上がっていた段階で、ポールに聴かせて、ミドル8を手伝ってもらった」って事でして、ほとんど「ジョン・レノン作品」って事になります。一方、ポールは「曲を書いたのは僕だ。ジョンは詩を完成させていて、其れに僕が曲をつけた」と断言しています。よーするに「詩はジョンが書いた」は確定で、問題は「作曲が誰か?」なのです。
レノマカ作品の通例から云って歌っているジョンが主に書いたと思うのですが、ジョンも認めている通りに、ミドル8のメロディーはポールの色が強く出ています。では、Aメロはどうなのか?と云えば、大いにレノン節でも在るし、其れはポール節でも在るのです。ジョンが歌っているのですから、彼が全く作曲に関わっていないとは考えられません。無理矢理に結論付けると、此の楽曲こそが「レノン・マッカートニー」作品なのです。どっちが書いたのか、本当に分らないんですよ。
何にしろ、此れは名曲です。20代半ばで、ジョン・レノンはこんな境地に居たわけですよ。其れは、在る意味、不幸です。人生を振り返るには、未だ早過ぎる。ジョンは「元祖アイドル」なんだよね。でもさ、ジョンは振り返るべき過去が既に在ったのよさ。「10代からアイドルやってたけど、色々あって、、、」って話とは、全然違うんだよ。そもそも、此の当時のビートルズって天下無敵だったわけで、「俺様はビッグじゃん!ガッハッハッハ」って云っても誰も文句が云えない様な立場だったわけですよ。なのに、ジョンは何か終ってしまっているのです。「こんなはずじゃなかった」と歌うのです。迷っているんですよ。此の楽曲には、普遍性が在る。でも、ジョンはそんな事は考えていなかったはずです。其の時に、思った通りに書いたのでしょう。余りにも、無垢なんだよ。其れを「天才」と云うのは容易い事です。
あたくしは、ジョン・レノンは「天才」ではないと思います。たまたま才能とチャンスが在ってお金持ちになっただけの、悩める普通の人です。だからこそ、僕らは未だに此の曲に感動するのです。
(小島藺子)
さて、本日(10/28)は、蟹江敬三さん(片瀬那奈ちゃんとは「信長の棺」「いのちのいろえんぴつ」「朝食亭」で共演)、「あたくしが最も愛した女子プロレスラー」尾崎魔弓「オザキーッ!」、そんでもって、こないだも片瀬クンと「さきっちょ☆」で共演していた「スザンヌちゃん」のお誕生日です。皆さん、御目出度う御座居ます。
(小島藺子/姫川未亜)