アイドル歌謡史に於けるビートルズからの影響は、ビートルズが日本デビューを果たした1964年から始まって居ます。当時の流行だった「ヒッパレ」の流れで、其れまでのアメリカン・ポップス同様に「日本語に翻訳したカヴァー歌謡曲」として其れは出現します。
スリーファンキーズと東京ビートルズの競作だった「抱きしめたい」の日本語盤や、キューピッツによる「シー・ラブズ・ユー」、ほり☆まさゆきの怪作「アイ・フィール・ファイン」等々、初期ビートルズの日本語カヴァーの頓珍漢な出来映えは現在でも大いなる破壊力を保ち続けて居りますが、そんな勘違いから脱却を試みたのは「グループサウンズ」でした。然し乍ら「GS」の先駆者と讃えられいち早くビートルズ・カヴァーをレコーディングした「スパイダース」の音楽的な要だった「かまやつひろし」や、「GS」以前から自作自演でのバンド活動を行い、しかも「反ロカビリー」を明確に表明して居た「加山雄三」等は、ビートルズよりも年長者で在り、加山が大いに語る通りに「絶対に俺の方がジョン・レノンなんかよりも先にエルヴィスを聴いてたし、多重録音だって俺が先」だったのです。
1964年にビートルズが全米制覇を果たす一年も前に、坂本九の「スキヤキ」はタイトルこそ改題されたものの「日本語の侭で全米制覇を成し遂げて居た」のです。ビートルズの「抱きしめたい」と同時期に全米首位を獲得したのが「イパネマの娘」だった事実からも「なんでもあり」な全米チャート気質が伺えます。其の後の戦略次第では、坂本九やゲッツ・ジルベルトにもチャンスは在ったのかもしれません。されど、彼等にはブライアン・エプスタインが居なかった。九ちゃんの全米第二弾シングル「チャイナ・ナイト」はスマッシュ・ヒットにはなりますが、オリエンタリズムを過剰に強調した「全米仕様路線」は大失敗に終ります。普通に「見上げてごらん夜の星を」でも発売すれば好かったのかもしれません。何にせよ、ビートルズ以後の日本歌謡史を同時代的に牽引した先駆者は「ビートルズよりも年長で、彼等をナメテいた」様です。エルヴィスが「WHAT IS BEETLES ?」と云った如く、「ビートルズ?何じゃそりゃ」だったのでしょう。
話がストラングルホールドしましたが、常にリアルタイムで歌謡曲はビートルズからの影響を受け続けます。其れはカヴァーとしてだけでは無く、オリジナルとされる楽曲にも顕著に現れ、2009年の現在でも終らないのです。其れどころか、最早「ネタに詰まったらビートリー!」的な絶対的な保障付きの逃げ道にすらなって居ます。
直接的には全くビートルズからの影響を受けて居ないと思える此のサイトの主役「片瀬那奈」ですら、残念乍ら彼等の影響から逃れる事は不可能でした。例えば片瀬のシングルで多様された「両A面」と云う発想や、其の音楽を喧伝するのに大いに貢献した「プロモーション・ヴィデオ」、更には「多重録音によって歌唱を加工して創ったテレパシー・ヴォイス」、そして「シンセ等の電気式の導入と管弦楽の融合」等は、全てビートルズが始めた事です。片瀬那奈が「三回声を重ねてテレパシー・ヴォイス完成!」と試行錯誤して編み出した手法は、ジョン・レノンが「マイクに後ろ向きに立って歌う」とか「寝乍ら歌う」とか「フランジャーで疑似ダブルトラックにしてくれ!」とか「回転数を変えて声を変えてくれ!」とか「アンプに喉から直接繋ぐってのはどーよ?俺の喉に差し込みプラグを埋め込む手術をしろっ!」とか常軌を逸した「声の加工(信じ難い事実ですが、ジョン・レノンは自分の声が嫌いで別の声にして録音する事に執着したのだそうです)」が在りき!なのです。
「和製カイリー」と称される片瀬ですが、其の「本家カイリー」が現在では「パーロフォン・レーベル」から作品を発表して居る事実は、余り知られて居ない様です。「パーロフォン」は、ビートルズがアップルを設立(1968年)するまでの作品を発表したレーベルで、彼等の偉業を讃え「永久封印」されたも同然の金看板です。英国のEMIに所属するアーティストでビートルズ以後は「QUEEN」が後期に「パーロフォン」を冠された位しか例の無い事だと思われます。カイリーは言わば「英国EMIが認めたザ・ビートルズの後継者」なのです。
そんなカイリーがユーロのアイドルだった時代に其のカヴァーで国民的アイドルとなったのが「WINK」です。数多在るビートルズ関連カヴァー歌謡曲の中でも「怪作ベスト10」にランクインしそうな作品が其の「WINK」によるジョン・レノンの名曲「OH MY LOVE」の日本語カヴァーでしょう。門倉聡サンによる美しい弦楽アレンジをバックに蚊が鳴く様なユニゾンで歌われる其れは、ホラー映画の挿入歌を思わせる程に不気味です。暗闇から、長い黒髪で大きなサングラスを掛け大きな口で笑い乍ら黒装束の魔女(特にモデルはいません)が現れそうな「聴いてはいけない音源」のひとつだと思います。「何故?しょーことさっちんがレノン?」と20年前に頭を抱えた疑問は、おそらく永遠に解けないでしょう。同時期に宮沢りえはボウイとレノンが共作した「FAME」を、在ろう事か「GAME」と改題し日本語カヴァーして居りました。其れは「紅白歌合戦」でも「バスタブでリップシンクロ中継」で公開されたので覚えて居る片も居られるでしょうが、まさか其の楽曲が「ジョン・レノンとデイヴィッド・ボウイとカーロス・アロマーが創った」なんて知らなかったと思います。其れは只、単なる「歌謡曲」として存在し、消えました。正に「天国の階段はない〜!」と前衛劇風に叫びたい程の「ロック幻想の敗北」でした。
多くの「ビートルズ本」が、2009年リマスターに合わせて発売されました。其れ等には、資料的価値の高い名著の改訂版等も含まれ、こんな機会だからこそ実現したであろう有意義な作品も確かに在ります。其れにしたって、出し過ぎだろ?改訂版と銘打つなら好いけど、過去の著作の焼き直しで新作と称し「二度売りどころか、何度売りしてんのよさ?おまいはキャピトルか?」と断罪したくもなる阿呆(実名を出すと宣伝になるので書かないよ〜ん)まで湧いて来たわけですが、歌謡曲とビートルズって話が薄いんですよ。松崎しげるのビートルズ・メドレーの話なんか何処にも書いてないじゃん。夏木マリの「サムシング」にすら言及してないじゃん。東京ビートルズとか小山ルミは語っても、「レッツゴー・ヤング」で「ヘイ・ジュード」をピアノを弾きつつ熱唱した都倉俊一(ちなみにギターは野口五郎で、太鼓は西城秀樹)は語られないんじゃイカンのよさ。歪んだビートルズ史が、今、在る。アノ時、確かに僕らはクラスで一人か二人のマイノリティーだった。こんなにビートルズが日本でも受け入れられる未来なんて想像出来なかった。沢山の「2009年版ビートルズ本」を読んで、1971年のレノンとおんなじ事を云うしかないのです。こんなのは「嘘」だ。あたくしは、真実が欲しい。
(小島藺子/鳴海ルナ)