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2009年06月07日

「36万アクセスへ、誓いの明日」

フィジカル・グラフィティ サムシング/エニシング?(ハロー・イッツ・ミー)(K2HD/紙ジャケット仕様) Journey Through the Secret Life of Plants


此処の総アクセス数が、36万を超えました。
こんな奇妙な世界を御愛読有難う御座居ます。


此の36万の内の「11万」は、合併した母体で在る「COPY CONTROL」の数字です。決してイカサマでは在りません。本隊は、既に此処に移動した記事は消えて居ります。本当は「11万」じゃ、少な過ぎるんです。かつて「コピコン」は此処の数十倍の支持を受けて居りました。僅か数人にしか存在を教えなかった場所に、毎日100人以上が来たのです。そして、彼等の大多数は云った。「片瀬那奈の記事が邪魔だ!」と。其れで、僕は此処を分家しました。メイン・カテゴリが追い出されたのです。「嗚呼、洋楽板からビーヲタが追い出された時とおんなじじゃん。」と、僕は思った。歴史は繰り返すのだ。そして、分家から半年間、此処の平均アクセスは壱日一桁でした。多くても20人も居なかった。確かに、誰にも云わなかったけど「此れじゃあんまりだ!那奈ちゃん、正直すまんかった」と思いました。酷い日には、三人しか踏まなかったのです。其の内の一人はあたくしで、もう一人は盟友:うっぴー☆です。だから、僕は三人目の誰かに向けて書いた。知らない誰かが、見てくれて居るから、其の人の為に書き続けました。其れが誰なのかを知らされた時の衝撃は、生涯忘れないでしょう。僕は、部屋に帰って号泣しました。生涯、此処を続けようと誓いました。

いつの間にか、アクセス数が増え、遂には母体をも呑み込んだ此処は、逆に本来のカタチに戻ったのです。「COPY CONTROL」のコンセプトは「アナログ二枚組」でした。何故「ホワイト・アルバム」の原題は「THE BEATLES」なのか?何故、ディランはアノ作品を「自画像」と名付けたのか?何故、スティーヴィー・ワンダーは1980年代からコンセプト・アルバムをヤメちゃったのか?何故、トッド・ラングレンは「SOMETHING/ANYTHING?」の内ジャケで太陽に向かって勝ちどきを上げたのか?何故、ZEPは「聖なる館」って曲を「聖なる館」ではなく、次の二枚組に入れたのか?更に云えば、何故、ジョージ・ハリスンは三枚組の箱でデビュウしたのか?

ジョージ・マーティンみたいに、みんなは云った。「コピコンに片瀬はいらない!」と。「ゼンキロ」でも那奈ヲタが云った。「ゼンキロに那奈ちゃん以外の話はいらない!」と。でも、此の過剰と饒舌こそが、片瀬那奈の記録だ。何卒、宜しく。


(小島藺子/姫川未亜)



posted by 栗 at 18:56| LOOK UP THE # | 更新情報をチェックする

FAB4-073:HELP !

Shades of Deep Purple コブラの悩み(紙ジャケット仕様)


 w & m:LENNON / McCARTNEY

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ケン・スコット(4/12)、フィル・マクドナルド(4/18、6/18)
 録音:1965年4月13日(take 1-12?)
 MONO MIX:1965年4月18日(1〜3)、6月18日(4)
 STEREO MIX:1965年4月18日(1)、6月18日(2)

 1965年7月23日 シングル発売(最高位英米1位)
 パーロフォン R 5305(モノ)

 1965年8月6日 アルバム発売 (「HELP !」 A-1)
 パーロフォン PMC 1255(モノ)、PCS 3071(ステレオ)


1965年第二弾シングル曲で、前作から連続してジョン・レノンが主導の作品。然し乍ら、楽曲を聴けばお分かりの通りポール・マッカートニーが大いに協力しており、合作だとポールは語っています。あたくしも、確かに合作だと思います。二週間後(8/6)に発売される彼等の英国オリジナル五作目のアルバムでA面冒頭を飾り、タイトルにもなり、主演映画第二弾のタイトルにもなった、1965年前半を、いやビートルズを象徴する傑作で、代表曲です。元々は単に「BEATLES PRODUCTION 2」と仮題された彼等の主演映画第二作は、「EIGHT ARMS TO HOLD YOU」と勝手に決められ、レノマカは何とかそんな陳腐なタイトルを持つ曲を書こうとしたものの、出来たのは「EIGHT DAYS A WEEK」だったわけで、「確信犯:レノマカ(主にレノン)」の意志で却下されます。ジョンは前作映画同様に題名も決めてしまいました。

其れが此の「HELP !」です。現在では、此れが当時の「人間:ジョン・レノン」の真実の悲痛な叫びだった事は知られていますが、発表当時に其れに気付いた者は皆無に等しかったのです。総天然色の楽しいビートルズ活劇映画の主題歌として、愉快な大衆音楽として、此の楽曲は受け入れられ全世界で大ヒットしました。後にジョン自身が「あんなアップテンポでポップな編曲(追っかけコーラス部分は、当然乍らポールが編曲)にしたのは失敗だった。ビートルズ時代の最高の自信作だが、是非録音し直したいよ」と吐露し、実際にスローテンポでピアノ弾き語りの「HELP !」を「LOST LENNON TAPES」で聴く事も出来ます。でも、個人的な悲痛な叫びを大衆音楽にしてしまった事こそが、ジョンの才能だと思います。ポールが中心となってかけたオブラートが、其れを可能にしました。誰もが深い意味が在るなんて考えずに、此の楽曲を楽しく愉快に受け入れてしまったのです。此れは恐るべき事実です。

さて、データでお分かりな様に、此の楽曲は正式なデータでもモノラルが四種、ステレオが二種、合計六種ものミックスが行われております。基本的に彼等が現役時代に発表した楽曲には「ミックス違いは在るが、テイク違いは、ほとんど無い」のです。此の時点までなら、デビュー曲の「LOVE ME DO」と二曲目の「PLEASE PLEASE ME」が例外で「2テイクが公式に発表された」曲でした。ところが、此の曲は公式にはモノラルもステレオも同じ「テイク12」から作られたとなっているのですが、何回聴き比べても両者でのジョンのヴォーカルが全く違います。史上三曲目の「異なる二つのテイクが公式発表された楽曲」と考えるしかありません。マーク・ルウィソーン著の「レコーディング・セッション」によれば「HELP !」の録音は「1965年4月13日」の「12テイク」で、其の全てはブートレグで出回り容易に聴けます。なのに、其の何処にも「モノラルでのジョンの歌声」は存在しません。更に云うなら「映画での歌声」もありません。一体、いつ、別テイクは録音されたのでしょう?

前述の通りジョンは「HELP !」を相当気に入っていたもののビートルズでのヴァージョンには納得しておらず、新たに録音し直そうと考えていました。更に、1981年に計画されていた来日公演では一曲目に「HELP !」の新ヴァージョンを披露しようと決めていたと云われています。其れは、永遠に叶わぬ夢となってしまいましたが、実現していたなら世の中は変わらなくとも多くの人々の人生を変えたでしょう。1965年には届かなかったジョンの悲痛な叫びは、1981年なら多くの人々に理解できたはずです。「HELP !」は現在でも歌い継がれる名曲となりましたが、ジョン・レノンが本当に望んだカタチでは遺されずにいます。1990年にポールがライヴでカヴァーした時にピアノの弾き語りでスローに演奏したのを聴いて、「やっぱり、ポールはジョンを分かっているんだナァ」と当然過ぎる事なのに感動しました。


(小島藺子/姫川未亜)



posted by 栗 at 14:19| FAB4 | 更新情報をチェックする