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2009年06月03日

「SELF PORTRAIT」

Self Portrait


中学生の頃に知り合った数少ない洋楽ファン同級生の中のひとりと、別々の高校に行ってからも家が近かったのでたまに逢って居た。1976年の話だ。

社長の息子(何故か、あたくしの友人、先輩、後輩、知人には昔から其れが多い)だった彼が新しく買ったレコードを持ってやって来た。「最近、何を買ったの?」と云うから「米盤のポールの『BAND ON THE RUN』だよ」と応えた。そいつは「米盤?何処で買ったんだよ?其れを貸してくれよ。でもさ、お前、未だビートルズばっか聴いてんの?」と云った。僕は「え?まあ、そうだけど、ソロとか全然集めて無いしさ。ジョージの三枚組欲しいナァ。。。」とか普通に応えたら、そいつは「あのさ、他も聴けよ。俺が今回持って来たのはコレだから、貸すから聴いてみろよ。」と偉そうにヌカして「BAND ON THE RUN」を持って帰って行った。そいつが置いて行ったのは変な髭面のオヤジが横向いてにやけているジャケットで「ボブ・ディラン / 欲望」と書いて在った。其れが、僕とディランの出逢いだった。

確かに15才の僕は、其の音楽に、得も知れない衝撃を受けた。丁度、NHK-FM でディラン特集を二週間位やったので、全部エアチェックした。其の時は、彼とビートルズの関係なんて全く知らなかった。高校で出逢った洋楽仲間は、みんな「ハード・ロック」か「プログレ」にハマって居て、全く話が通じなかった。

僕は今、「SELF PORTRAIT」ってディランの怪作をレコードで聴いて居る。「FAB4」の連載が「HELP !」になるから、音源は在るけど矢張り「片瀬みたいにデカイ!」ジャケットを見乍らじゃないと筆も進まないので、LPを買いに行ったら無かったので代わりに買ったのだ。「ま、此の時期なら、ディランでも在りじゃん!二枚組でたったの那奈百円ってのも好いよ。」とか下町レコの土田社長と話してさ。昔から、何故かディランで一番好きなレコードが此れだった。其れで、久しぶりに聴いて居て思った。「此れって、『COPY CONTROL』の元ネタじゃん!」と。。。そう、此処の原点で在る通称「コピコン」のコンセプトは、「ディランの自画像」だったのだよ。此れは、自分自身でも気が付かなかった「潜在盗用」だ。僕自身が「ホワイト・アルバム」こと「THE BEATLES」を模したとばかり思って居たのに、正体はおんなじ二枚組でもディランの方だったのだ。正に「驚愕の事実です!」だよ。「ジョージ・ハリスンは間違って居ない!」と思った。大瀧師匠の「あの裁判官は、音楽を何にも解ってないね」ってコトノハは真実です。

其れにしても「片瀬那奈」のサイトを「ボブ・ディランの怪作」から発想したなんて、俄に信じられないでしょう。僕自身だって意識してなかったんだ。でも、本当です。

此処は、片瀬那奈ちゃんに宛てた「恋文=僕の自画像」です。


(「小島藺子/姫川未亜」=「栗」)



posted by 栗 at 19:23| IKO | 更新情報をチェックする

FAB4-069:EVERYBODY'S TRYING TO BE MY BABY
(みんないい娘)

Blue Suede Shoes: A Rockabilly Session Essential Sun Collection


 w & m:CARL PERKINS

 P:ジョージ・マーティン
 E:ノーマン・スミス
 2E:ジェフ・エマリック(10/18)、ロン・ベンダー(10/21)、マイク・ストーン(11/4)
 録音:1964年10月18日(take 1)
 MONO MIX:1964年10月21日
 STEREO MIX:1964年11月4日

 1964年12月4日 アルバム発売(「BEATLES FOR SALE」 B-7)
 パーロフォン PMC 1240(モノ)、PCS 3062(ステレオ)


アルバムを締めるのは、またしても「一発録り!」での完全実況カヴァー曲です。FAB4の全員が敬愛する「カール・パーキンス」ナムバーを、いたいけジョージが元気溌剌!で歌い弾きまくります。其の歌声には「STEED(シングル・テープ・エコー・アンド・エコー・ディレイ)」と云う名の深いエコーが掛かっていて、かなり変です。前作「A HARD DAY'S NIGHT」でもジョージが初めて弾いたリッケンバッカー12弦の音色がアルバムに統一感を持たせていましたが、此の「BEATLES FOR SALE」も彼によるカントリー風ギターが全篇に渡ってサウンド面の要になっています。早弾きなんかよりも、ずっと難しいのが独特の音色です。ジョージは本物のギタリストなのです。

そんな努力家ジョージを、ボス:ジョニーは認め、アルバムの最後と云う重要な位置を与えました。此れまで、其処にはレノンがいました。ジョージが主役の楽曲で終る英国オリジナル・アルバムは、此れのみです。其れは此の作品のカラーを決めたのが「ジョージのギター」だったからでしょう。日本人はジョージが好きですが、此の「ビートルズ '65」も好評です。後の「カントリー・ロック」の元祖とも云える味を出したのは、ジョージでした。其の彼がソングライターとしても開花する日も、実はすぐそこに来ていたのです。でも、其の前に子分ジョージの活躍に地団駄を踏む男がいました。

其の名は「ポール・マッカートニー」

前作「A HARD DAY'S NIGHT」よりも悲惨な状況に陥った彼は、遂に次作で覚醒します。ジョージ・マーティンは、此の作品を余り評価していません。確かにマーティン好みの音では無いし、現場に居たからこそ、やっつけ仕事で捏ち上げた作品と知っているからでしょう。然し乍ら、デビュー盤が基本的にはたった壱日で録音された様に、長い時間を掛ければ好いってもんでも無いのです。カヴァー曲のほとんどが正真正銘の実況録音一発録りであったのは、彼等の確かな演奏能力を伝えます。同時期に「ハリウッド・ボウル」での実況録音が米キャピトルの要望で実現(1964年8月23日)しますが、没になります。翌年も再挑戦し、其れもお蔵入りとなり、結局陽の目を見たのは1977年です。挙句に未CD化ときたもんだ。「ライヴは酷いな」と云う評価が関係者間では出ていたわけですが、観客は絶叫し音楽なんかよく聴こえてなかったし、彼等もプレイバックの音すら歓声にかき消される状況で、世界で初めてスタジアムで生演奏したのです。そんな状況に疲れ切ったアーシーなレノン、本当に疲れちゃったポール、ひとり溌剌とギターを弾きまくるジョージ(でも彼だって疲れてますよ、ジャケットでは無精髭まで生やしてます)、そして何も考えていないリンゴ。狂乱の1964年は終わりました。世界のアイドルとなった彼等の、驚くべき1965年が始まるのでした。


(小島藺子)



posted by 栗 at 13:50| FAB4 | 更新情報をチェックする