w & m:
LENNON / McCARTNEY
P:ジョージ・マーティン
E:ノーマン・スミス
2E:ジェフ・エマリック(10/18)、ロン・ベンダー(10/21〜22)、マイク・ストーン(11/4)
録音:1964年10月18日
MONO MIX:1964年10月21日〜22日
STEREO MIX:1964年11月4日
1964年11月27日 シングル発売(最高位英米1位)
パーロフォン R 5200(モノ)
2008年の世界で、我が愛しの「御本尊様」で在らせられる「片瀬那奈ちゃん」が、寝る間も惜しんで僕らの為に「芸術活動」を弛まなく続けられている様に、
「1964年のビートルズには、休息など無かったっ!」大傑作アルバム「A HARD DAY'S NIGHT」が発売されたのは、1964年7月10日でした。映画が英国で公開されたのは、7月6日です。タイムラグが在った日本では、8月1日に公開されています。ところが其の頃 1964年8月11日には、彼らは次作「BEATLES FOR SALE」の録音を開始していたのです。其れは10月まで続き、先行シングルが11月末には発売され、アルバムもクリスマス・シーズンに合わせて12月の頭には店頭に並んでいたのでした。当時はライヴ活動も行っておりましたので、最早、何が何だか分りま「シェーーーンッ!カンバァーーーック!!シェーーーンッ!!!」状態で、彼らは闘っていました。しかも、通例通りに此のシングルは両面共に「BEATLES FOR SALE」には収録されませんでした。「WITH THE BEATLES」同様に、クリスマスの贈り物は、
「全曲、新曲、二度売り反対!」を貫いたのです。真摯です。真っ当です。
「ビートルズは、正義ですっ!!」結果的に先行シングルのA面となった「I FEEL FINE」は、実は「1964年10月6日」に、本来ならシングル候補だった
「EIGHT DAYS A WEEK」(実際に、米国や日本などではシングル化されました)を録音中に発想され、其の僅か12日後にはレコーディングされたのでした。イントロで、所謂ひとつの「フィードバック」が聴けます。其れが「偶発的な事」ではなく、ジョンの、いやビートルズによる「意図的な試み」で在ったのは確実です。多くのミックス違い(在ろう事か、此の楽曲は「5種類」もの「モノ・ミックス」が日付超えで敢行されました。其の内、二種は英米盤に別のモノが使われますが、他の三種は、基本的には「ボツ」なのです!)が存在します。其れらの中で、イントロが「フィードバック」の前から聴けるヴァージョンも在るのです。其れを聴くと、ポールが「ドーゾ」と云ってから、ジョンが「当時は未だ名前も無かった新たなる奏法」をやらかしてしまう「歴史的な瞬間」に出逢えるのです。
ジョン・レノンと云う「芸術家」は、常に新たなる実験を試みながら其れを「大衆音楽」として成立させる術を知っていました。アルバム「A HARD DAY'S NIGHT」で「第一期:ジョン・レノン劇場」を完結させた彼は、早くも次のステージへと向かっていました。其れは、つまり、「ヘビーメタル」への道でした。「I FEEL FINE」は、「ハードロック」の創造だったのです。そして其れが「ヘビーメタル」へと変態してゆくのです。後の「パンク」だって、全部、何もかも、ジョンは先取りしてしまった。「ラップ」ですら、彼が元祖です。「レゲエ」を広めたのも、レノンなのだよ。
僕たちは、其れを、リアルタイムで観てしまったから、
「ロックの人」になった。全部、ジョンが教えてくれたんだ。さてさて、数多在る「ビートルズの曲は全曲カヴァーされている」世界でも、あたくしが驚愕した作品のひとつが「ほり☆まさゆき」サン歌唱の此の楽曲の日本語版でした。最初に聴いた時に、其れが「I FEEL FINE」だとは認識出来ませんでした。本人もスタッフも、本気でカヴァーしていたであろう事は確実なのですが、其れは全く別の宇宙を創造してしまったのです。だからさ、ナウでヤングな「若人」に告ぐ。
「東京ビートルズ」は、単なる「入り口」です。世界は、いや、宇宙は広大なのだよ。「ま、自分で探して聴いて御覧なさいナ☆話は其れからよ、小羊ちゃん達(はーと」(小島藺子/姫川未亜)
初出:「COPY CONTROL」2008-10-22
(REMIX by 小島藺子)